聖書 出エジプト記20章13節 ヨハネの手紙一3章11~16節
「殺してはならない~それは愛することへの招き」田口博之牧師
76年前、1975年8月15日、昭和天皇の玉音放送を聞かれた方がいらっしゃるでしょう。日本が無条件降伏を受け入れ、国民が敗戦を知ることとなりました。
当然のことですが、わたしは戦争を知りません。戦争を知らないということは戦争の悲惨を知らないのです。知らないと危機感がありません。こんな話はあまりしない方がよい気もするのですが、両親は大正の終わりの生まれでしたので当然戦争を経験しています。ところが、意外なほどに悲惨といえる戦争体験を聞くことがありませんでした。
父は海軍予備学生でした。後1日長く戦争が続いていたら、人間魚雷として敵艦に突っ込んでいたそうです。軍の病院で生死をさ迷う病気もしたそうですが、軍隊生活の悲惨を聞くことがありませんでした。母も戦争で父親をなくしました。大連からの引き上げでロシア軍が入ってきたときには生きた心地はしなかったと聞いていますが、そのことについても、重苦しい話し方をしたことはなかったのです。なぜ、そうだったかはいくつか心当たりもありますが、根が明るかったということがあるかもしれません。
そんなことですから、戦争は過度に恐ろしいものとは知らずに育ってしまったところがあるのです。この感覚はおかしいと気づいたのが、中学生のときに問題意識をもったクラスメートとよく話すようになってからです。高校生となり教会に行くようになってから、日本のキリスト教会はどういう姿勢で臨んだのか、随分と早い段階で関心を持ちましたが、正直よく分からないのです。
よく分からないと言いながら、はっきり言えることがある。それは、あのような戦争はもう繰り返してはならないということです。戦争は人間の心を麻痺させます。戦争に勝つために、かけがえのない命を奪い合うということが起こります。
十戒の第6戒は「殺してはならない」です。戦争をしていたらこの戒めに逆らわざるを得ません。兵士は人を殺すことは目的としていないのかもしれません。軍艦を爆撃し沈没させる。軍需工場を焼き払う。滅ぼす対象はモノです。でも結果的に、そこにいる人を殺してしまうことになります。
今から20年くらい前のことだったと思います。「人はなぜ人を殺してはならないのか」という問いに、有識者が適切な答えができなかったことが話題となりました。わたしは、どういうきっかけでその問いが出されたのか、誰がどう答えたのかを知りません。また、そのことが話題となった後に、これだという、明確な答えが出たと聞いた記憶もありません。「人を殺してはならない」、「そんなこと当りまえじゃないか」という答え方もあります。皆が当たり前に思うなら、それでよいのかもしれません。でも、そうなっていないのですから、答えになっていません。
先週も小田急線の車内で、無差別殺人を目的としたと言われる事件がありました。逮捕された人は、最初に女子大生を襲った理由について「勝ち組っぽいと思ったから」と供述したとのことです。「途中で逃げられないよう止まる駅が少ない快速を狙った」とも報道されています。誰も殺せなかったことを不本意に思っているようです。「人を殺してはならない」ということを当たり前に思わない人がいるということです。「当たり前」という言葉では、「人を殺してはならない」ことの理由にはならないのです。
この問いに対して、「殺されるのが嫌だから」という答え方があります。えっ?と思われたかもしれません。わたしも今一つピンと来ませんが、子孫を残すことを本質とする生物学的原則に基づくとすれば、それがもっとも適切な答えだと言われています。けれども、「殺されてもいい」と考える人がいるならば、その原則は崩れてしまいます。実際にそのように考えて、多くの将来ある若者が戦争で死んでいったのではなかったでしょうか。皆が「殺されるのが嫌だ」と思えば、戦争は起こらないのではないでしょうか。でも、そうはならないのです。そこには、相手を倒すことで自分の子孫を残そうとする、生物学的原則の支配があります。しかし現代社会は、そのような原則には立っていないところもあります。答えが出ません。
日本の法律に「殺してはならない」という条文はありません。それが自明のことだから書かれていないのでしょうか。刑法には、人を殺した場合に「死刑または無期もしくは何年以上の懲役」と定められています。屁理屈を言えば、このような制裁規定が定められているということは、人を殺すことは禁じられていないからだ、ということにもなりかねません。また、死刑制度があるということは、人を殺すことが全否定されていないという論理も成り立ちます。逆に言えば、そのような制裁規定が設けられているからこそ「殺してはならない」とも言えるわけです。実際にそのことにより、ブレーキがかかるということがあるでしょう。こんなことをしたら家族に迷惑がかかってしまう、という思いがブレーキになることもあります。しかし、そういう制裁規定がブレーキの役割を果たさないケースは、いくらでもあるのです。
最近ある会の中で、この「殺してはならない」という掟は、自殺を禁じているのかという問いが出されました。実際にそう言われたことで、自殺を思いとどまったという声も聞くことがあります。その話を聞きながら、自殺を禁じていると言うことはできるし、そこまで言えないかもしれないと答え、今日はそのことも取り上げねば、と思いました。果たしてどうでしょうか。十戒とは主なる神がシナイ山でモーセを通してイスラエルの民に告げた言葉ですが、自殺を禁じるまでの意図はなかったように思います。ここで使われている「殺す」という言葉が、私的な殺人を意味する言葉であり、そこには自分で自分を殺すという意味合いは見出せないからです。
では聖書は、人が自殺するなどと想定していないのか、と言われればそんなことはありません。イエス様を裏切ったユダは、自分がしたことの罪の大きさにさいなまれて自殺しました。預言者エリヤやソロモン王も自殺願望を語っています。イスラエル初代の王サウルは安楽死を求めました。聖書は、人間が罪に耐えられない弱さ、望みを持てない時の弱さ、痛みに耐えられない弱さのあることをよく見つめています。
日本キリスト改革派教会という教派があります。わたしたちと近いとろにある教派ですが、教会の信仰基準にウエストミンスター信仰告白とウエストミンスター大・小教理問答を採用しています。これに準じて考えてみると、ウエストミンスター小教理問答では、「殺してはならない」の解説として、「第六戒が禁じている事は、私たち自身の命を奪うこと、あるいは隣人の命を不当に奪うこと、またその恐れのあるようなすべての事です」と答えます。まず「私たち自身の命を奪うこと」だと答えるのです。
ウエストミンスター大教理問答においても、「すべて自分または他人の命を奪うこと」が第六戒で禁じられている罪だと述べています。そのようにして、「殺してはならない」という教えが理解されてきたということが、教会の信仰として理解されてきたことに心をとめる必要があります。
このウエストミンスター大教理問答には、興味深い記述がいくつかあります。それは「すべて自分または他人の命を奪うこと」の前に、「社会正義・合法的戦争・止むをえない防衛の場合以外に」と述べていることです。その場合は許されることになりますが、ここでいう「社会正義・合法的戦争・止むをえない防衛」とは何かという問題があります。また次に、「生命保持の合法的な、または止むをえない手段を無視したり撤回したりすること」も第六戒違反だと述べています。ここで語られていることは、尊厳死、延命治療といった生命倫理の問題です。
大小教理問答とも、1648年にイギリス議会で承認されたものですが、その頃の日本はといえば、徳川三代将軍、家光の時代です。歴史の違いを感じます。そこにも「なぜ、人を殺してはならないか」という明確な理由を述べることができない要因になっている気がします。歴史だけではなく、神が人をどのように見られているのか、そこからひも解いていかないことには答えが見つからないのではないでしょうか。
たいせつなことは、十戒が神と人との契約として定められたものであるということです。その契約の中で「殺してはならない」と命ぜられているそのことの意味です。
創世記は、人間は神のかたちに想像されたと告げています。それは人間だけが、神と人格的に関わることができる、神と対話できる固有の存在として創造されたことを意味します。そのような人間のいのちは尊いものです。この人間の尊厳を見つめるときに、人の命を奪うことだけが問題なのではないことは明らかです。人をいじめたり、疎んじたりすることも、神に創造された尊い人格を否定する行為です。教皇フランシスコは、「実際、不適切なことばをかけるだけで、純真なこどもは傷つきます。冷ややかなしぐさを示すだけで、女性は傷つきます。信用を裏切るだけで、若者の心は引き裂かれます。相手を無視することは、その人を破壊します。無関心は人殺しです」と言われました。
神が一人一人の命を尊んでおられる、愛してくださっている。その神が人との契約の中で、「殺してはならない」と命ぜられたのです。そこには「あなたは殺すはずがない」そんな思いが込められています。神は人をご自分の形として創造されました。共に生きる者として創造されたのです。ところが、罪が入ってきたことにより交わりが妨げられました。神への供え物を顧みられなかったカインは、供え物が顧みられた弟アベルを恨み殺害してしまいました。ここに人間の悲劇の発端があります。カインがしたことはとんでもないことですが、誰もがカインに同情してここを読んでしまうのではないでしょうか。そこに問題を解く鍵があります。
ヨハネの手紙一は3章11節で「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです」と、互いに愛し合うことを勧めた後で、カインの話をするのです。「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」と述べています。
「カインのようになってはなりません。」この言葉には「殺してはならない」と同様の響きがあります。「あなたはそんなことをするはずがないではないか」という神の思いが表れています。そして、「だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。」そのように言います。もうわたしたちはカインではない、死から命へ移った。殺す者ではなく、愛する者にされているというのです。
なぜなら16節「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」愛する者へと変えられる根拠を述べます。イエス様はカインの心を持つわたしたちを新しい人間にするために命を捨ててくださったのです。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」聖書はそのように断言しています。
さきほど教皇フランシスコの言葉を紹介しましたが、教皇は続けて次のように説いています。「愛さないことは、人殺しへの第一歩です。そして、殺さないことは愛することへの第一歩なのです」。「兄弟はどこにいるかと尋ねた主に対し、カインは「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えます。「わたしたちも答えましょう。もちろん番人です。わたしたちは互いの番人になりあっています。それこそがいのちへの道です」と。
どうでしょう、わたしたちは子ども時から、恨み、復讐、ねたみ、そういう心を持ってしまいます。そんな自分が嫌いになり惨めになることがあります。「あんな人いなければよいのに」と、その人を心の中で殺してしまうような、大きな罪をもっています。そんなわたしたちでに向って、神は互いに愛し合う生き方への転換を求めています。
「なぜ人を殺してはならないのか」その答えは、人と自分ばかりを見ていたのでは禅問答にとどまります。神を知ることなしに答えを見出すことはできません。誰もが神に似せて創造された尊い存在です。神を通して他者を見つめることができるならば、カインに同情することよりもアベルを殺してしまった罪を見つめるならば、人を殺し合う戦争が合法化されることもなくなる筈です。
神がわたしたちのために何をしてくださったのか、イエス様の愛を見つめるときに、わたしたちは、人を憎んでしまう罪の縄目から解き放たれ、新しい望みとイエスのうちにある愛と喜びに生きることができるのです。