2022.8.14 ルカによる福音書17章20~21節
説教 「イエスの神の国」田口博之牧師
子ども礼拝で聞いた御言葉は、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」でした。貧しくても幸いである理由はただ一つ、「神の国はあなたがたものである」とイエス様が言ってくださったからです。では、そこで言われる「神の国」とは、いったい、どういうところなのでしょうか。
「神の国」については、そのテーマだけで1冊の本が何冊も出されているほど、幅広い概念です。今年1月13日の礼拝説教でも、「神の国ってなあに」という説教題でお話しています。名古屋教会のHPを見ることのできる方は、その時の説教原稿を載せていますので、ご覧いただくとよいと思いますが、「神の国とは何か、一度の説教でこれにお話することは簡単ではありません」と語りだしています。
その時のテキストは、ルカ福音書13章18-21節でした。そこでイエス様は、「からし種とパン種」という二つのたとえによって、神の国について語っておられます。からし種もパン種も小さなものの代表ですが、それが大きく広がっていくさまを語られました。
イエス様は、神の国の福音を告げ知らせるために地上に来られました。神の国は、イエス様の中心的な思想ですが、多くはたとえによって語られています。新約聖書の中に「神の国」は、実に68回出てきます。うち、ルカによる福音書には33回出てきますので、およそ半分がルカによる福音書ということになります。その用いられ方も実に多様です。一つ言えることは、「神の国」の「国」とは、「バシレイア」という言葉で、「支配」と訳すことができます。ですから「神の国」といっても、目に見える国家という領域を指すのではなく、神の支配が行き届いている領域、そういうイメージでとらえていただいた方がよいと思います。ここからあそこまで神の国の領域であると、国境線が引けるようなものではないのです。
新約聖書に「神の国」が68回出てくると言いましたが、旧約聖書には「神の国」という言葉は出てきません。しかしながら、旧約思想の中には、イスラエルを偉大な王国にして近隣諸国を支配するという野望があることが見えてきます。ダビデの時代にはそれが実現しました。やがて王国は分裂し滅びましたが、後の人々は、ダビデの系列から偉大な王が現われること、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その芽からひとつの若枝が育つ」(イザヤ11;1)ことを待ち望んだのです。福音書の時代、ユダヤはローマの支配下にありましたが、イエス様はダビデの家系に属することから、イエス様が王座に就くことで、ローマの支配から逃れて独立する。そのようにして、イスラエルという神の国が建設されることに期待する人々がとても多かったのです。ところが、イエス様ご自身にそのような考えはなかったのですね。
今日は「イエスの神の国」という題をつけました。「神の国」とは、幅広い概念を持つ言葉ですけれども、イエス様ご自身が「神の国」をどのように語られたのかを手がかりに考えていきたいと思うのです。このことを通して、わたしたちが漠然と描いている「神の国」理解がクリアなものになることを期待します。
それにしても、イエス様の「神の国」に対する考え方にも、幅の広さがあることに気付かされます。ルカによる福音書だけをとっても、「神の国」を、「過去」のものから「現在」、そして「将来」のものという、三つの時制でとらえていることに気付かせられます。
そのことをまず、紹介したいのですが、第一の「過去」ということでは、ルカによる福音書13章28-29節です(135p)。ここでイエス様は、「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」と言われています。
「アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者が神の国に入っている」ということから、「神の国」はすでにあることを前提として語られていることに気付かされます。神の国は、アブラハムの頃より、すでにあるのです。すでにあるということでは、わたしたちが死んでから行くところだとイメージする「天国」に似ていると思います。天にいます神様のみもとで憩うことを、わたしたちは将来のこととして望みを持っていますが、すでに存在しているからこそ期待するのでしょう。神の国の宴席にいるアブラハムのことは、ルカによる福音書16章19節以下「金持ちとラザロ」の話でも語られていました。
第二には「現在」です。今日のテキストがまさにそのことを語っていますが、後ほど詳しく述べたいと思います。ファリサイ派の人々が、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたとき、イエス様は「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えられました。「あなたがたの間にある」とは、神の国は、今現在も存在していることの証です。
そして第三に「将来」です。時制からすれば、過去、現在、未来という言い方をしますが、未だ(いまだ)来ないではなく、将に(まさに)来たりつつあるととらえて、「将来」という言い方が相応しいと思います。具体的に言えば、イエス様は12章31節(132p)で「ただ、神の国を求めなさい」と言われた後で、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と約束されました。ここでは、神の国を、将来の約束として語っていることに気付きます。
また、今日のテキストの続きのところ、17章22節に「人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る」と語っています。「人の子」とはイエス様のことですので、イエス様が再び来られる「再臨」を指しています。これは将来のことです。主が再び来たり給うその日に、神の国が完成されることを望みつる、わたしたちは生きています。
このようにイエス様は、神の国について、過去からのものであり、現在のあるものであり、将来にやってくるものとしてとらえていることがわかります。主の祈りでも「御国を来たらせたまえ」とは、将来を望む祈りの後で、「御心の天になるごとく,地にもなさせたまえ」と祈ることで、天においてすでに完成されている神の支配が、今、地上で成るようにと祈ることを教えているのです。
イエス様は、天で成し遂げられている神の御心が、地上でも実現されるために来てくださいました。「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えられたように、イエス様が来てくださったときに、地上における神の国が始まったのです。もっと言えば、イエス様ご自身が神の国なのです。ところが、当時の人々は、地上のイスラエルの復興に神の国の樹立を見ていたので、イエス様のことが理解できなかったのです。CS説教で取りあげた、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言われても、なぜ幸いなのか理解するのは簡単なことではありません。人々は、イエス様を自分たちが考えるような王に仕立てたかったのですが、イエス様は、地上で神の意志を行うことのみを願っていましたので、ズレが生じました。
今日の聖書に出てくるファリサイ派の人々が「いつ」と問うたのに、イエス様が「どこに」という答え方をしたことにもズレがあることに気付かされます。ファリサイ派の人々が、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたということは、神の国は来ていないと考えていたということです。目の前で、神の国を実現されるイエス様を見ていたのに気づかなかったのです。ファリサイ派の人々にとって、神の国は、過去ではなく現在でもなく、あくまでも将来のこととして捉えていたのです。この考え方の背景には、ファリサイ派がユダヤ人であり、ローマの支配下におかれている中で、神が支配されているという現実を見ることができなかったことがあります。
何もファリサイ派の人々の質問から、裏があったのではと考える必要はありません。というのも、ファリサイ派の人々はイエス様の敵対勢力として登場していますが、決して悪者ではありません。ここでの問いも、イエス様を陥れようとしているのではなく、素朴な問いとして受け取って構いません。このファリサイ派の人々の問いは、わたしたち信仰者の問いでもあるでしょう。この世には、たくさんの痛みがあり、苦しみがあります。様々なうめきのあるこの世の現実の中で、神の支配を見ることは簡単なことではありません。そのようなわたしたちの思いとファリサイ派の人々の思いに大きな違いはありません。
ところが、そんな素朴な問いに対して、イエス様は「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えたのです。ファリサイ派の人々を敵だと見なせば、そうは言われなかったでしょう。イエス様は「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われる前に、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」と言われました。神の国は、ここだ、あそこだと、指をさして言えるものではなくて、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われるのです。このことは、心の中とか、内面的なこととして理解すべきことでもありません。
こういうことが起これば「神の国」が来た。神の支配が到来したことになる、そういう理屈で考えることは間違いであることを確かめたいのです。もし、そう考えるとすれば、それは自分の都合で神の国を描いているに他ならない。神の支配といいながら、人間の支配下に神を置いてしまうことになってしまうのです。
「神の国」とは何か、これをひとことで言えば、イエス様ご自身が神の国なのです。神は天の御心を地でも行うために、神の子を地上に送られ、神の子が十字架で死なれました。そして三日目によみがえられました。これらは人間の常識をはるかに超えています。そのように人の思いをはるかに超える仕方で、神の国は到来したのです。それは心の中で受け止めることでもなく、ここにいるわたしたちのただ中に、少なくとも、イエス様を主と告白した者は、間違いなく神の国のご支配に入れられています。聖餐はそのことを確かめる時です。
イエスが共にいてくださる、そうである以上、神の国はあなたがたの間、すなわちわたしたちの間にあるのです。教会は神の国、地上において神の国を映しだすところです。その確信をもって生きるところに神の国の現実があります。もちろん、教会も完全ではなく、時に人の思いが支配してしまうことがあります。だからこそ教会は、週ごとに神の前に出て、御言葉に立ち帰りつつ歩んでいくのです。
そしてわたしたちは、人の子の日、イエス様が再び来てくださる日には、あらゆる矛盾は取り除かれ、すべてのことが明らかになるという希望をもっています。かつて来られ、今共にいまし、やがて来られるイエス・キリストへの望みを持つことが、イエスの神の国に確信を持って生きることにつながるのです。