詩編133:1,マルコ3:31-35
「神の家族」 田口博之牧師
今日は子どもも大人も共に礼拝ですが、子どものための説教を行わないことにしました。正しくは行わないのではなくて、分けて行うことをしないということです。今日集っている子どもは、大人以上に集中して話を聞く訓練もされています。ですから、子ども向けの話を大人にするということでもない。でも、そんなに難しい話にはならないだろうと思います。むしろ、誰にとっても関わりのある話になります。テーマは「家族」です。
新旧約からテキストが選ばれています。詩編133編1節が、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。またマルコによる福音書。こちらが元々のCSカリキュラムのテキストですけれども、中心となる聖句は3章34-35節、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」です。
どうでしょう、この二つの聖句はよく似ていると思います。詩編は、「見よ、兄弟が共に座っている」で、マルコは「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」です。「兄弟」とは、家族と呼び変えることもできます。そして、「見よ」、「見なさい」と言われていますが、これは注意喚起の言葉です。神の家族が共に座っていることに注目せよと言われるのです。共にいることを、神様が喜んでいるのです。そのような聖書の言葉を前にして、あえて子どものためのお話だけして、「はい、ここから出ていっていいですよ」そういうことは出来ないと思いました。
ここにいる皆さんの中には、夫婦、親子、兄弟など、家族何人かで来られている方がいます。一人で礼拝に来たという子はいません。しかし、大人の人は、一人で来られている方の方が多いです。家族はいるけど、礼拝には一人で来られた方もいれば、一人暮らしという人もいらっしゃいます。教会に来ると、普段は会えない家族と会えるという人もいらっしゃいます。
ここでまず覚えてほしいことは、家族が一緒に礼拝に集えるということは、決して当たり前のことではないということです。そもそも、聖書に出てくる家族は仲が悪いのです。実際に家族関係の難しさがテーマになっている聖書の話は山ほどあるのです。創世記などは特にそうです。最初の夫婦となったアダムとエバは罪を犯し、それ以来、人は労働にまた出産に苦しむこととなりました。家族を築くことの難しさがそこに語られています。与えられた二人の子ども、カインとアベルは兄弟殺しの物語なのです。双子の弟ヤコブは母親と結託し、兄エサウの祝福を奪いました。ヨセフ物語も兄弟喧嘩に端を発しています。しかし、神はそこから救いの物語を始めるのです。
新約聖書でも、放蕩息子の話は、兄弟の問題と親子関係の問題を描いています。マルタとマリアも仲良し姉妹ではありません。理想的といえる家族は、聖書のどこにも描かれていないのです。それだけ家族は難しいのに、共に礼拝に集えるというのは、奇跡と呼べること、まさに、「なんという恵み、なんという喜び」です。
では、そのことを羨ましく思う人、自分一人ということが不幸なことなのかといえば、そういうことはありません。それはまさに、イエス様が「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われたときの「わたしの母、わたしの兄弟」とは、血のつながった母や兄弟のことではないからです。では誰のことなのか。この後で「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言い変えられています。「神の御心を行う人」とは、ここではイエス様の話を聞くために集まっているすべての人を指しています。ということは、血のつながった家族ではなく、この礼拝に集っている一人一人が、わたしの家族なのだと、イエス様は言われるのです。
ですから、自分は結婚していないとか、もう親や兄弟もいないとか、子どももいないという人がいらしたとしても、寂しがる必要はない。ここにいる一人一人が、あなたの家族なのだと言われるのです。誰も一人ではない。これだけの神の家族がいるということを覚えて欲しいのです。
もちろんわたしたちは、イエス様を抜きに神の家族にはなれません。イエス様は、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われています。イエス様の母、兄弟なのであって、ここに「あなたの母、あなたの兄弟がいる」と言われたのではありません。あくまでも、イエス様から見て「わたしの母、わたしの兄弟」です。
そうであれば、わたしとは関係ないのではないかと言えば、そうはなりません。パウロはよく「主にあって」という言葉を使いましたが、わたしたちは主にあって、つまり主イエスと結ばれている限り、わたしたちは、間違いなく神の家族です。けれども、イエス様から離れてしまったら、ぶどうの枝がぶどうの木につながっていなければ、枯れてしまうように、神の家族としての交わりはなくなってしまいます。よほど親しければ、友達としての関係は残るかもしれませんが、それだけです。「前に教会にいたあの人は、今はどうしているのかな」で終わってしまいます。だとしても、その人がイエス様につながってさえいれば、神の家族としての交わりが途絶えないことをわたしたちは知っています。久しぶりに礼拝に出られたときに、「お帰りなさい」と言って喜べることを、わたしたちは経験しているはずです。
今朝のマルコによる福音書を読んで思わされることは、神の家族としての結びつきは、実の家族の結びつきよりも深いんだということです。この時にイエス様のほんとうの母と兄弟はすぐ近くにいたのです。31節、「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」とあり、32節「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」とあるとおりです。ところが、イエス様は、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答えます。随分と冷たい響きに聞こえます。心配して捜しに来ているのですから、そんな言い方はないのではないかと思ってしまいます。
でも、それには理由がありました。なぜイエス様の家族が、ここでイエス様のことを捜しに来たのでしょうか。実はこの話は、前段3章20節以下、「ベルゼブル論争」という小見出しのついたところですが、その場面と続いているのです。21節を読むと、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」とあります。この身内の人というのが、31節以下のイエス様の家族です。気が変になったと言われているイエスを放っておいてはいけないと思い、家に連れ帰ろうとして、ナザレからカファルナウムまで来たのです。
それでも、イエス様の家族には同情すべきところもあります。ここに、父ヨセフが出てきていないということは、すでに死んでいたからでしょう。だとすれば長男であるイエスが、家族の大黒柱として引っ張ってもらわねば困るわけです。おそらく聖書に記された公の生涯が始まる30歳前までは、何の問題もなく家族の中心であったと思います。ところがある日突然、洗礼を受けるために家を出たかと思うと、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教を始めたのです。病をいやし、悪霊を追い出すなど、これまでに知らなかったイエスに変わってしまった。おまけに、「気が変になっている」という声も聞こえてきた。家族としては、元のイエスに戻って欲しい。そう思って、イエスを取り押さえて、自分たちの家に連れて帰ろうとしたのです。
もちろんそこには面子だけでなく、イエスに対する愛があったはずです。親にとって子はいつまでも子どもです。でもそれは、血のつながった家族であるがゆえの心配です。それでも、母はイエスを自分の子、兄弟は自分の兄と呼ぶことは出来たとしても、イエスを「主」と呼ぶことはなかったのです。すると神様との関係も「父なる神」と呼べる関係に入ることはできません。神の家族とはなれず、神の国の福音を宣べ伝えるイエス・キリストを邪魔する人になったのです。それは、この家に集まっていた人々とは異なり、御心に適うことではありませんでした。ここでイエス様の母も兄弟も、家の外にいて中には入ることがなかったのです。31節に「外に立ち」、32節にも「外で」と書かれてあります。中に入れなかったのではなく、入ろうとしなかったのです。
わたしたちの家族も、教会の外にまで送り迎えはするけれども、中には入らないという人がいると思います。送り迎えしてくださることは感謝です。車で送ってもらえなければ、このような天候では礼拝に来ることができなかったということもいるでしょう。それでも、願わくは中に入ってきて欲しいという祈りを持ち続けて欲しいと思います。イエス様は、実の家族を軽んじて、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言われたのではありません。外にではなく、中にいる人をご覧になって、「見よ、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われたのです。
聖書は家族関係の難しさをよく描いていると言いました。それは人間を表面的には見ていないことを意味します。あの夫婦は傍から見て理想的と思えたとしても、実は仮面夫婦であり、一緒に生きていくこと自体が苦痛だということもある。それは外から見ていただけでは分かないけれども、イエス様は知っています。家族であることの難しさ、共に生きることの難しさを。その意味で、神の家族もまた難しいのです。教会の人間関係が煩わしくなって、教会から離れていくという人は少なくありません。でも、先週「一人一人が教会なのです」という話をしましたが、そこを乗り越えることが本物の信仰に通じるのです。
この後で、子ども礼拝では唱えることのない信仰告白として「使徒信条」を唱えますが、そこで「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖との交わり」という言葉が出てきます。それは聖霊を信じるということはすなわち教会の交わりを信じるということなのです。そのようにして、神の家族はつくられていくのです。
わたしは、詩編133編の詩人が「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と歌った心は、ここにいる者は仲良しだから祝福されている、そう歌っているのではないと思います。むしろ、関係を築くことが難しい一人一人を神が集めてくださった。「共に座っている」というのは、和合する姿です。喧嘩をしたり、互いに意地を張っていたら共に座っていることはできません。この詩編は、交わりの回復、家族の再建が歌われているのです。
先週、葬儀社の方が教会を訪ねて来られ、最近の葬儀事情について話しをしました。コロナが葬儀の変化に輪をかけたという話になりました。近年、「家族葬」という葬儀の形態が増えてきました。ただわたしは、何をもって家族葬と呼ぶのか、言葉のとらえ直した方がいいと思っています。それは、わたしたちがする家族葬は、世間一般で使われている家族葬と一緒にしない方がいいということです。故人または遺族の教会との関わり方によって異なることは承知しつつも、ご遺族から「家族葬で行います」と言われたときに、「教会員は神の家族ですから」と必ず言うようにしています。その上で、どのような家族葬がふさわしいかを考える。先週の長老会で、エンディングノートの話が出ましたが、全体集会などで共有してもよいかもしれないと思いました。
人が孤立化していく時代にありますが、聖書は共に生きる喜び、とりわけ神の家族として生きていく喜びを語っています。夢に思い描く理想的な家族を作るということは簡単なことではありません。また、聖書はそのことのための教科書ではありません。それでも、イエス様のところに集う時、外でなく中に入るときに、イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟」と言ってくださることは慰めです。そのように呼んでくださるイエス様に結ばれることで、わたしたちは真の兄弟姉妹となり、神の家族とされていくのです。