聖書 ヨナ書3章1~10節 ルカによる福音書11章28~32節
説教 「悔い改めへの招き」 田口博之牧師
神様を信じるのに、神が存在することが証明できるもの、何らかの証拠を求めようとする心は誰にでもあると思います。キリスト教を信じても損ばかりするというのであれば、信仰をもったところで仕方ないのではないか、そんな思いにとらわれることもあります。
イエス様は、ルカによる福音書11章29節以下で、「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。」と言われました。ここに「しるし」という言葉が繰り返し5回も出てきます。ここでいう「しるし」とは「証拠」と言い換えてもよい言葉です。イエス様は、神を信じるためには証拠は必要だとする人々のことを「よこしまだ」と言われます。「よこしま」とは、横にそれている、正しくないという意味ですが、新しい共同訳聖書では「邪悪」と訳されました。表現がきつくなっています。
では、イエス様は誰に向って「よこしまだ」、「邪悪だ」と語られたのでしょうか。29節に「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた」とありますので、イエス様の周りにいて、しるしを見せて欲しいと求めていた人たちが対象です。もっと具体的にいえば、ここは14節以下で語られていたベルゼブル論争の続きとして語られているところです。イエス様が悪霊を追い出した様子を見た群衆は、その力に驚嘆しました。しかし、悪意をもってこれを見た人々がいました。
そのときの二通りの反応が、15節以下に記されていました。一つはイエス様の力が、神から来ていると認めようとせず、こともあろうに「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と批判した人々。そしてもう一つが、「イエスを試そうとして、天からのしるしを求めるもの」たちでした。それは、イエスに悪霊の親分の力が宿っているとは言わないけれど、もっとはっきりした証拠がなければ、「わたしゃ、あんたを認めることはできんよ」と言う人たちのことです。
今日の29節以下で、イエス様が相手としているのは、しるしを求める人たちのことです。イエスの力が神から来ていることを認めるために、もっと明確なしるし、証拠を求める人たちのことを「よこしまだ」と言うのです。でも、ここでイエスは、「今の時代の者たちはよこしまだ」と言われています。「今の時代」とは、2000年前のイエスの時代ばかりではありません。いつの時代もそうです。まさに今、この時代を指しているといってもいい。
しかもそれは、信仰のない時代ばかりではありません。信仰者の中にも、しるしを求める心があることをわたしたちは知っています。信仰をもって歩んでいても、神が共におられることをもっとはっきりした証拠をもって示してもらえれば、そう頑張って伝道しなくても、若い人だって自然に教会に集まるのではないか。洗礼を受けて信仰生活をすればこんなにいいことがあるんだよと、自信を持って言うことができれば、友達や家族も誘いやすいのに、そんなことを考えることはないでしょうか。それも「天からのしるしを求める」ことに他なりません。そんなわたしたちを見つめながら、「よこしまだ」、「邪悪だ」とイエス様は言われるのです。
そのように、どれだけしるしを欲しがったとしても「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とイエス様は言われます。「ヨナ」とは、旧約聖書のヨナ書に出てくるヨナのことです。では、「ヨナがニネベの人々にしてしるしとなった」とは、何を意味するのでしょうか。
また31節には、「南の国の女王」の話が出てきます。「この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある」とありますので、ヨナのしるしとは別の話しをされるのです。その後で、もう一度ヨナの話に戻って「ここにヨナにまさるものがある」と言って、話を終えています。話が入り組んでいて分かりにくそうです。
ただし、話しの構成自体は複雑に思えますが、イエス様の話を聞いていた群衆にとっては難しくなかったと思います。彼らにとって、ヨナの話と、ソロモンの知恵にまつわる話は、よく知った話であった筈です。皆さんの中にも、昔、教会学校で聞いたことがあるという方がおられると思います。二つの話を短くおさらいしてみます。
はじめに、「南の国の女王」とはシェバの女王のことですが、旧約の546ページ、列王記上10章に出てきます。ソロモンとはダビデの子ですが、ソロモンが王であった頃のイスラエル王国は栄華を究めていました。ソロモンの知恵と富と名声は、外国にも広まっていて、列王記上10章には、シェバの女王がソロモンの知恵はどれほどのものか試しに来たことが書かれてあります。女王はソロモンにたくさんの質問を浴びせるのですが、ソロモンは質問にすべて答えました。女王はその知恵と富に感服し、たくさんの贈り物をいただいて国に帰っていったことが書かれています。
もう一つがヨナの話です。旧約聖書の1145頁以下にヨナ書があります。ソロモンの死後、後継者争いでイスラエルは南北に分裂しましたが、およそ200年経って、北イスラエル王国はメソポタミア地方に興ったアッシリア帝国に滅ぼされました。ニネベはアッシリアの首都です。神はヨナにニネベに行って、悔い改めの言葉を告げるように命じられましたが、ヨナは敵国の首都に行って御言葉を語るなどしたくありません。主の命令から逃れるためニネベとは逆方向に向かう船に乗ります。その結果、ヨナは嵐の海に投げ込まれ、巨大な魚に呑み込まれてしまうのです。つい最近も、アメリカのダイバーがザトウクジラに飲みこまれたというニュースがありました。ダイバーは逃れるすべはなかったと思ったけれども、およそ30秒後にクジラは海面に上昇して吐き出されたという証言をニュースで聴きました。
ヨナの場合は、30秒ではなく三日三晩魚の中にいた末に吐き出されました。今度は主が命じたとおり、ニネベで御言葉を宣べ伝えます。すると、ニネベの人々は、ヨナの告げる言葉を聞いて神を信じ、断食をして自らの罪を悔い改め、その結果、神は、ニネベを滅ぼすことを止められました。これが、「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなった」という出来事です。
つまり「しるし」といっても、ヨナはニネベの町で、人々を驚かせるような奇跡を行ったわけではないのです。ヨナは悔い改めへと招く言葉を語っただけです。けれども、ニネベの人々はヨナの言葉を聞いて信じたのです。ニネベの人は「お前の語っていることが、神の言葉であるなら、その証拠を見せろ、だったら信じてやる」などとは言わなかったということです。そこに、「今の時代」のあなたがたとの違いがあるのだと、イエス様は言われるのです。
ニネベは異邦人の町ですが、大帝国となったアッシリアの首都です。その王が断食し、「おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ」と呼びかけ、町全体が悔い改めました。ソロモンを尋ねたシェバの女王もまた異邦人です。エジプトからエチオピアを支配した権力者です。はじめは評判のソロモンなるものを試す目的で来たのに、ソロモンの知恵が神から与えられたものだと信じたのですから、これも異邦人の悔い改めだといえるでしょう。両者は神の前に謙遜です。イスラエルの人々は神に選ばれ、救われるのは自分たちだけであり、異邦人を差別していましたが、イエス様は、異邦人は悔い改めたことが聖書に書かれてあるではないかと話されたのです。悔い改めるとは反省するということではなく、生き方を変えるということです。28節で「幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である」とありましたが、悔い改めた人は、神の言葉に聞き従う生き方を始めます。
もう一箇所、今日の並行記事であるマタイによる福音書12章40節以下を読みたいと思います(新約の23頁)。福音書にいくつか並行記事がある場合がありますが、それを合わせて読んで違いを見つけることができたなら、メッセージが立体的に浮かび上がってくることがあります。ここではマタイも、ヨナのしるしを語っていますが、違う切り口をしていることに気づきます。
マタイ12章40節に「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」とあります。マタイはルカと同じく、ヨナの説教によりニネベの人が悔い改めたことは語っていましたが、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたことを語るのです。しかも、マタイはこの不思議な出来事を語ると共に「人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」と語ります。「人の子」つまりイエス自身が十字架にかかり、墓に葬られた後、三日目に復活される出来事を、ヨナの出来事と類比しながら語っているのです。
「今の時代の者たちはよこしまだ」これは、わたしたちへの言葉であると言いました。イエス様の話を聞きながら、なおしるしを求めた人たちは、イエス様が死んでよみがえられることは知りません。しかし、わたしたちは知っています。教会はキリストが復活された上に立っています。死者がよみがえる。これ以上のしるしはどこにもありません。聖書の言葉は、復活されたイエス・キリストの言葉です。わたしたちが、どれだけ天からのしるしを求めようとも、キリストが復活された以上のしるしはどこにもないのです。
イエス・キリストの復活の証人が、福音を宣べ伝えました。ペンテコステの日、使徒として生まれ変わったペトロの説教を聞いた人々は、大いに心を打たれ「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねます。するとペトロは、「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と言いました。
悔い改めるとは、ただ反省することでなく、心の向きを変え生き方を変えることです。それは自分の力や決心でできることではなく、神に変えていただかねばできないことです。その第一歩が洗礼です。ここからが始まりです。洗礼も自分で授けることはできません。しかし、よこしまな時代に生きるわたしたちは弱く、古い自分に戻させようとする、まさにベルゼブルのような力に襲われます。でも、そんなわたしたちのために、主は洗礼だけでなく聖餐の礼典を備えてくださいました。洗礼は一度きりですが、聖餐を受けることで、新しくされていることを確かめることができます。聖餐のパンと杯は、十字架に死なれ、よみがえられたイエスの体と血です。ここにこそ、ソロモンにもヨナにもまさるしるしがあるのです。