2022.7.24
詩編86編1~4節 、カによる福音書17章5~10節
説教「信仰と奉仕」
ルカによる福音書17章1~10節は三つの段落に分かれています。この三つは小見出しに「赦し、信仰、奉仕」とあるとおり、先週学んだ4節までは「赦し」を主題に語られ、今日は5節以下をテキストとしていますが、5,6節は「信仰」、7節から10節は「奉仕」にまつわるイエス様の教えが語られています。説教題もこのとおり、「信仰と奉仕」としました。
これは聖書学的に考えれば、福音書記者のルカが、イエス様の弟子たちへの教育的な教えをここにまとめたと考えることができます。福音書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人の福音書記者が、それぞれが持つ資料をもとに編集されたものですが、しばしばそういうやり方が取られています。たとえば、マタイによる福音書5章から7章にある「山上の説教」も、イエス様がガリラヤの山の上でこれを一気に語られたのではありません。普段からイエス様が語られていた語録集のようなものがあって、これを福音書記者のマタイが一つのまとまりとして編集したという考えです。同じように、ルカは「エルサレムへの旅の途中」という文脈の中で、これまでイエス様が弟子たちに語られた「赦しと信仰と奉仕」にまつわる三つの教えをここにまとめたのです。
けれども、三つの独立した言葉が語られているといっても、決してバラバラではなくつながりがあります。具体的には、イエス様は4節で「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と言われました。これは簡単なことではありません。1日に7回どころか、7日で1回でも、気に入らない態度を取られれば、いつまでも覚えているのがわたしたちです。まして、1日に7回というのです。職場であれば1日に7回も嫌なことがあれば、もう行きたくないと思うのではないでしょうか。嫌なことをした人が7回悔い改めて、赦したとしても、明日も同じことが繰り返されるならば煮え切らない思いが残る。本当に赦したことにはならない。本当にその人は、悔い改めたのかという話にもなります。
赦すというのはとても難しいことです。イエス様の十字架の赦しが、このわたしのためだったことを心から信じることができなければ、赦すことは不可能です。だからこそ、「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく 我らの罪をも ゆるしたまえ」と祈るのです。それでも、なかなか他者の罪を赦せないこと、自分の罪は赦されるのかという確信を持てないわたしたちが、自身の信仰が足りないのではないかと考えます。そこで5節が関わってくるのです。
ここで弟子たちはイエス様に「わたしどもの信仰を増してください」と頼んでいます。信仰が増せば、罪を赦すことができる、罪赦されていることに確信が持てると考えたのです。ここで分かることは、弟子たちは自分たちに信仰があるとは思っていたということです。でも、信仰の量が足りないと思ったのです。「信仰を増してください」と頼んだということはそういうことでしょう。
そして、ここで語られていることは、エルサレムに向かう弟子たちの物語ではなく、地上の旅を生きるわたしたちの物語だということです。5節は「弟子たちは」ではなく、「使徒たちは」で始まっています。「使徒たち」が出て来るのは、福音書の続編として使徒言行録を書いたルカの特徴ですが、「使徒」とは、イエス様の復活の証人となった弟子のことです。聖霊降臨によって生まれた教会が背景にはあるのです。
教会の交わりの中で、つまずきとか赦しの問題が出てきます。そして教会に生きる主の弟子たちは、赦しを「信仰」の問題としてとらえ直すのです。わたしたちも、「信仰」を持つとか、持っていないという言い方をすることがあるでしょう。それは信仰を所有の問題ととらえているから、信仰を大きい小さいで計ることはないでしょうか。信仰が増せば、もっと聖書のことが分かる、もっと信じることができると。あの人は信仰深い、それと比べてわたしは信仰が浅い。そんな考え方をすることがあると思うのです。ところが、イエス様はそうは考えないのです。「信仰を増してください」と頼む弟子たちに対して、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と言われるのです。
からし種とは、「小さいもの」を表す代表です。からし種は、ものの本によれば、750粒集めてようやく1グラムになるほどの小ささだそうです。750粒で1グラムということは、一粒だとどうでしょう、0.0013グラムとなります。塵よりも小さなものです。ところが、見た目にはあるかどうかわからないからし種一粒ほどの信仰さえあれば、「この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。』」と言われるのです。そんなことは、からし種どころか、どれほど重量級の信仰があったとしてもあり得ないことですが、そのようになるのだとイエス様は言われるのです。
このからし種の話からわかることは、イエス様は、信仰の量は問題にされていないということです。問題は信仰の大小とかではなく、信仰そのものがあるかないかです。量でなければ質なのかといえばそういうことでもありません。「山椒は小粒でもぴりりと辛い」とは、体は小さくても才能があれば侮れないことのたとえですが、からし種は一粒でも、質が高いからと言われているのではないのです。わたしたちが問うべきことは、自分にはどれだけ信仰があるかとか、どれほど増したかではないということです。きっと、そのように考えるとき、わたしたちは誰かと比べてそう言っているのではないでしょうか。聖書の知識が豊富だから、いいお祈りをすると思う人がいたとしても、その人の信仰が豊かであるとは限りません。朴訥でたどたどしい祈りしかできなくても、そのような信仰者のうめきに神は働いてくださるのです。
信仰は神が与えられるものですが、あの人にはたくさん与えて、わたしは少ないということはありません。信仰は「ある」か「ない」かです。からし種一粒の信仰があればそれで十分。信仰のあるところに神は働かれるのですから、自分の信仰が大きくなることを求める必要はありません
7節以下には、「僕」の話が出てきますが、ここは信仰者の生き方、「奉仕」について語られているところです。イエス様は、「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。」と語られています。
このところを読んで、皆さんどう思われるでしょうか。自分が主人であれば、僕に対してこんなに厳しいことは言わないし、感謝もするではないか。自分が僕であれば、こんな主人のもとでは働きたくないのではと思われたかもしれません。現代であれば、こんな言い方をすれば、パワハラと訴えられかねない。少なくとも、こんな社長のいる会社はブラックだ、そう受け取られそうな気がします。ただし、ここは雇用関係の話がされているのではありません。この「僕」と訳された言葉は「奴隷」と訳すことができます。現代は奴隷という制度は認められていないので、イメージしにくいだろうと思います。いやむしろ、奴隷と聞けば、食事も満足に与えられずひたすら働かされる。そういうイメージを持たれる方もおられるのではないでしょうか。イエス様が奴隷制度をなくそうとはされなかった、キリスト教会は戦ってこなかったと、批判されることがありますが、当時の価値基準でいえば、奴隷であることによって、衣食住が確保されます。賃金が支払われないこともない。最低限の人権が守られていたともいっても過言ではないのです。
イエス様は主人と奴隷の話をしながら、信仰者がなすべき奉仕についての話をしているのです。わたしたちは奉仕というと自主的にするものだと考えるかもしれませんが、イエス様の見方はそうではないのです。10節に「『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と言われています。信仰者は誰もが主の僕です。牧師だけでなく、長老も教会員も同じ、それぞれに主から託されたものがあります。それらは、「しなければならないこと」だとイエス様は言われるのです。
ここで大事なことは、僕は雇い人ではないということです。主人と僕は、雇用関係にあるのではありません。聖書には僕以外に雇い人の話も出てきます。たとえばイエス様のたとえ話に、ある家の主人が、1日につき1デナリオンという約束で、ぶどう園で働く労働者を雇おうとする話が出てきます。そこでは朝の9時から働いた人も、昼の12時から働いた人も、夕方5時から働いた人も皆1デナリオンもらったのです。これを読むわたしたちは、夕方の5時ですから、ほんの1時間足らずしか働かなかった人も、朝から8時間働いた人も同じだなんて、不公平ではないかと感じます。しかし、主人からすれば朝から働いた人も、1日1デナリオンという約束で働いてもらったので、文句を言われる筋合いではないのです。いずれにせよ、あのたとえ話は雇用関係に基づく話です。1デナリオン報酬をいただいた人は、雇い人であって僕ではありません。雇い人なので文句も出てきます。
わたしたちが教会でする奉仕は、これだけのことをしたからこれだけ支払われるということはありません。皆が主の僕として、それぞれ託された奉仕の業を無償で担っています。牧師の場合には謝儀が支払われます。謝儀はこの世の手続き上、給与と言い換えられ源泉徴収もありますが、あくまでも謝儀であって、牧師職という労働の対価として支払われているのではありません。もう少し言えば、牧師は教会から雇われているのではありません。ヨハネによる福音書10章で、イエス様が「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われた後で、「羊飼いではなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」と語られています。でも牧師は、大牧者であるイエス様から「わたしの羊の世話をしなさい」と牧会の務めを命ぜられた羊飼いです。雇い人ではないので逃げることはないのです。でも、教会が「牧師を雇っている」という意識を持ってしまうと、話は変わってきてしまいます。
教会の財政がだんだん厳しくなる。「このまま献金がどんどん減っていけば、牧師を雇えなくなる」そういう危機感を、教会の長老あたりは考えることがあるかもしれません。でも、「雇えない」と考えること自体に危機があります。「招くことができなくなる」ならば話は違います。「雇えない」と「招くことができない」ではただ言葉のあやではなく、意識の問題です。教区では謝儀の目安を出していますが、たとえその目安の半分の謝儀しか出せなかったとしても、半分になるという理由で牧師を招くことができなくなることはありません。だとすれば、日本の教会は無牧ばかりとなります。牧師は主の羊を託される僕だからです。それでも、教会が牧師をこれだけの額で雇いたいと言ったとすれば、見た目どれほどの好条件であったとしても、来る牧師はいないだろうと思います。
最近あることがきっかけで、名古屋教会に着任した頃のことを思い起こすことがありました。わたしが専任となったのが2016年の7月、暑い夏でした。もう6年経って、7年目に入ったことを思うことがありました。もし招聘のときに、たとえば5年契約とする、5年目に更新するかどうかを見直すというお話であったとすれば、お断りせねばなりませんでした。何年契約という形を取っている教会は、少ないわけではありませんが、それは招聘制度として健全ではありません。この世的にはそれは労働基準法に基づく有期雇用契約となります。そうであれば、教会は雇用保険に入らねばならないでしょう。そうしていないことも雇い人でないことの証です。幸い、そういうことではなかったので、わたしは名古屋教会での働きに主の召しを感じ、前任地の教会も、この牧師を新しい働きに遣わされるべきだと信仰をもって送り出し、北の国から二人の牧師を招くことができました。招聘という出来事をとおしても、主は豊かに働いてくださるのです。
イエス様は、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と言われました。とても厳しい言葉に聞こえるかもしれませんが、わたしは生涯の終わりにこう言えたとすれば、それは主に喜ばれる歩みをしたことの証であり、僕冥利に尽きると思います。この言葉ですが、口語訳聖書では、「ふつつかな僕です。すべきことをしたに過ぎません」となっています。「ふつつか」というのは、古風な言葉ですが、「気が利かない」といった意味でしょう。原文からすれば、適切ではありませんが、わたしも古いタイプの人間なので、日本語の響きとして悪くないと思います。
実際にこの僕も中途半端な働きをしたのではありません。イエス様は、「自分に命じられたことをみな果たしたら」と言っています。すべきことはすべて果たした後で、「ふつつかな僕です。すべきことをしたに過ぎません」そう言えることに、奉仕の喜びがあります。どれほど幸いなことだろうと思う。牧師としての務めを果たし終えたときに、牧師だけでない、今日一日の礼拝での奉仕、1年間の奉仕を終えた後で、「ふつつかな僕です。すべきことをしたに過ぎません」主の御前に立って、そう言える者になりたいと思います。