ホセア11章8~9節、Ⅰコリント13章4~13節
「最も大いなるもの」 田口博之牧師
「愛」という言葉は聞き慣れた言葉です。しかし、愛を語ることは簡単ではなく、いつも戸惑いをいつも感じています。一つには、一般的に理解されている愛という言葉と聖書が語っている愛という言葉にはズレがあるということです。
これは、日本語聖書が「愛」という翻訳を採用する時からの問題でした。もともと、愛という日本語があり、だからこそ愛と訳されたのですが、当時の愛という言葉は、これは仏教の影響ですが愛欲という意味合いが強くあり、宣教師たちも戸惑ったようです。ヘボン式ローマ字で知られる宣教師ヘボンは、愛を「いつくしみ」と訳しました。結局は中国語訳と同じく「愛」という言葉で定着することとなりましたが、愛という言葉から受けるズレはなかなか解消できていません。
ちなみに広辞苑で「愛」を引くと、八つの説明が出てきます。「①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。②男女間の、相手を慕う情。恋。③かわいがること。大切にすること。」これらはよく分かる説明です。そして7つ目に「⑦キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと。→アガペー」とあります。そしてアガペーを引くと、「①神の愛。神が罪人たる人間に対して一方的に恩寵を与える行為で、キリストの自己犠牲的な愛として新約聖書にあらわれた思想。→エロス。②(→)愛餐あいさんに同じ」とあります。
これ以上の言葉の説明は省きますが、聖書、少なくとも、コリントの信徒への手紙一13章で語られている愛は、ギリシャ語ではアガペーです。古代ギリシャ語には、愛を表す言葉は、アガペーの他に、フィリア、エロス、ストルゲーがありますが、この三つは自分を愛してくれる人に対する感情であり、アガペーの場合は、自己犠牲を伴う無償の愛です。
元々、古代ギリシャ語でアガペーは裁判用語であったようです。借金をした人が裁判で有罪になりそうな時に、誰かが現れて「わたしが借金を払いますから、この人を無罪にしてください」と申しでる。その行為がアガペーだというのです。その意味で贖罪と深く結びついた言葉です。
このアガペーに相当する言葉が、ヘセドというヘブライ語です。ホセア書11章8節と9節を読みました。ここには愛という言葉は出てきませんが、神の民、イスラエルに対する神の愛が、最高潮に描かれているところです。少し前の11章1節に「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した」とあります。この愛がヘセドです。
神はイスラエルをエジプトの地から導かれましたが、イスラエルの民は約束の地に入ると、カナンの農耕の神バアルに惹かれ偶像崇拝の罪を犯します。しかし、神はイスラエルを愛するのです。ホセアの妻ゴメルは、ホセアを裏切り他の男性と駆け落ちしますが、やがてゴメルはその男に捨てられてしまうのです。ホセアは苦しみましたが、イスラエルに裏切られても愛した神の思いに聞き、ゴメルを探し出し、身代金を払って、買い戻します。これがヘセドの愛です。アガペーとヘセドの関係については、戸田伊助先生もたびたび引用されています。
井上洋二神父は、アガペーを日本語の「愛」では表せないとして、「悲愛」と訳しました。人間の悲しみや痛みを写し取る悲愛のこころが大切なのだと。ホセア書11章8節の「わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる」と言葉は、まさに悲愛です。慈しみや憐れみなど、愛を表わす日本語はたくさんありますが、ヘセドやアガペーを表わす言葉がないというのが、実際のところです。
そのような悲愛と呼べる神の愛をはっきりと示したのが、イエス・キリストの十字架です。神は義なるお方ですから、罪ある人間は正しく裁かれねばなりません。滅びる運命であったわたしたちを救うために、イエス様はわたしたちの罪をすべて背負われて、十字架に死なれました。そこに神の愛がります。十字架の贖罪と愛を切り離すことはできません。だからこそ、自分はどこまで愛を語ることができているのだろうかと考えざるを得ない。果たして、自分は愛を語ることができる人間なのか。そう考えていくと、愛を語るコリントの信徒への手紙一13章は、重く圧し掛かってきます。
先週学んだ1節から3節「愛がなければ」、今日学ぶ4節から7節は、「愛の性質」、8節以下は「愛の不滅」が語られているところ。そんなまとめ方ができるでしょう。
4 節から7節を朗読します。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
ある人が、ここには15の愛の性質が語られていると数えました。愛はこうだという七つの肯定と、愛はこうでないという八つの否定表現が出てくると言うのです。わたしも数えてみましたが、確かにそうです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い」は肯定表現ですが、続く「ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず」までの八つは否定表現です。そして「真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」の五つは肯定表現です。
今日は大相撲の千秋楽ですが、2連勝した後で8連敗して、その後5連勝。結局は7勝8敗で負け越しかと言えそうですが、そういうことではありません。勝ち越しか負け越しかと言うならば、わたしは忍耐強いかどうか、わたしは情け深いかどうか、ねたむ人ではないか、自慢していないか、高ぶらないか、そのようにして愛の星取表をつけてみると、自分が聖書で語られている愛の人であるかどうかが見えてくるように思います。
そして、ここでの「愛は」を「わたしは」に置き換えることができるように、ここで語られている愛はいたって人格的だということに気づかされます。次に、ここに「神」とか「キリスト」という言葉を入れてみると、まさに「神は愛なり」が分かってきます。
今日は、ここに書かれた神の15の性質の一つ一つを取り上げてお話する暇はありません。一つのことを言えば、初めに「忍耐強い」が挙げられていることです。そして7節は、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」で結ばれています。忍び耐える、まさに忍耐が語られていることに気が付きます。
どうでしょう。わたしたちは愛と何かということを考えたとき、忍耐という言葉を思い描くことはないのではないでしょうか。先ほど皆さんは、自分は忍耐強いかどうかを考えたと思いますが、それは自分に根性があるか、我慢強いかどうかを考えたのであって、忍耐と愛とを結びつけてはいなかったでしょう。でも考えてみると、わたしたちが愛の人かどうかが問われるのは、やはり忍耐強いかどうかだと思うのです。
それが顕著に現れるのは、家族を介護するようになる時です。わたし自身、親を介護するようになった時に、愛が問われました。父親は68で亡くなりましたが、今のわたし位の年齢で脳梗塞を発症し、晩年は今でいえば要介護の状態となりました。介護保険のない時代です。リハビリ施設に連れて行ったり、下の世話をすることがありました。父親との関係は複雑でしたから、それは忍耐の時であり、まさに愛が問われました。
母親は兄が亡くなってから世話をするようになりました。そのときは桜山教会の牧師でしたが、やがて介護を必要とするようになり、施設探しに奔走しました。説教で愛を語りながら、自分の愛の足りなさを見つめざるを得なくなる時がありました。でも振り返ると、そのようなときにこそ、わたしたちは神様と近いところにいることを思います。 愛の神が、わたしたちの忍耐に寄り添ってくださっている。神はいつも共にいてくださる。だから神は愛であると知らされます。
また、興味深いのが、7節の 「すべてを忍び・・・すべてに耐える」という言葉に、「すべてを信じ、すべてを望む」という言葉がはさまれているということです。ここでの「信じる」は相手を信頼し続けることであり、「望む」とは、相手との関係に希望を抱き続けることです。愛とはそのように、相手のことを忍耐し、信頼し続け、希望を失わないことだと言うのです。
さらに言えば、「すべてを信じ、すべてを望む」 という言葉から、人間同士の横の関係だけでなく、神との関係、縦関係としての「信仰」と「希望」という言葉を思い起こします。 信仰も希望もまた、人間の内から湧き起こるものではなく、神から与えられるものです。そう考えていくと、13節の 「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と言われる意味も頷けます。ここで、信仰と希望と愛の三つを比較して「最も大いなるものは、愛である」と結論づけているのではありません。信仰も希望も愛に包括されるのです。だから最も大いなるものは、愛なのだと語られている。
いつまでも残り、最も大いなるものである愛は、8節にあるように「決して滅びない」 のです。8節以下は、愛の不滅が語られています。そして「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、 預言も一部分だから。」とあります。預言、異言、知識とは、12章で繰り返し、さらには13章1、2節でも語られていた聖霊の賜物です。 コリントの信徒たちはこれらの賜物を誇りとしていたけれども、これらは部分的なものだから、やがて廃れてしまうというのです。愛は滅びることはないけれども、愛と違って永遠ではなく、地上なものに過ぎないということです。愛の主体は「神」ですが、「預言、異言、知識」の主体は、「わたしたちの知識は」とあるように、人間だからです。
信仰もそうです。わたしたちが、山を動かすほどの完全な信仰が与えられていたとしても、それはわたしたちのものですから、不完全でありこの世でのもの、部分的なものなので廃れるのです。しかし、10節で、「完全なものが来たときには」とあります。完全なものが来るとは、主が再び来られるとき、神の国が完成する時です。地上の教会は、地上にあって神の国を映し出していますが、地上にある限り不完全です。わたしたちの信仰もまた不完全です。不完全なものは廃れるから、意味がないかといえばそうではありません。「完全なものが来たときには」、もう上手に祈れないとか、信仰が足りないと思う必要がなくなってしまうのです。
11節に「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた」とありました。ここでの主語は「わたし」ですから、パウロは自分の話をしています。おそらく「幼子だったとき」とは、神を信じていたけれども、律法中心に生きていた頃のことを言い、「成人した今」とは、使徒としてこの手紙を書いている今のことです。パウロは明らかに、終わりから今を生きています。神の国の完成を目の前に描きながら、これを語っています。
12節は、わたしたちの話です。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」状態です。幼い頃、家にかなり古い手鏡があったことを覚えています。祖母の形見と聞きましたが、これで鏡なのかと思えるような、おぼろにしか映らない鏡でした。今のわたしたちも、神のことをおぼろにしか見ていないというのです。「だがそのときには」、イエス様が再び来られる時には「顔と顔とを合わせて見ることになる」という。
さらに、「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」とあります。今は、神のことをほんの一部しか知らないけれども、神がわたしたちのことを知ってくださっているように、わたしたちも神のことを、はっきり知るようになる時が来るというのです。あなたは、これほどにわたしを愛してくださっていたのですね、と喜びの叫びを上げる時が来る。このことは、神の愛を伝えきれていないと悩んでしまう、わたし自身にとっても大きな慰めとなります。
先週の礼拝で、この13章は「愛の賛歌」と呼ばれるけれども、単独で読むよりも。12章からのつながりで読む方がいいとお話しました。12章31節前半、愛という小見出しが付く前のところで、霊の賜物について語ってきたパウロが、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言い、後半で「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と言って13章に入っていることからも伺えます。
そして。13章から分かることは、コリント教会で、いかに異言、預言、知識の賜物を競い合ったとしても、それは地上のものであり、やがて廃れてしまう。けれども、愛は完全で永遠のものだから、「決して滅びない」こと。山を動かすほどの完全な信仰に生きたと思っていても、実はほんの一部、おぼろにしか分かっていない。しかし、イエスが再び来られる時、すべてが明らかになる。神の国が完成するとき、それはすなわち、愛が完成するときです。
パウロは13章を通して、もっとも大きな賜物、いや賜物の源である愛こそが最高の道であると伝えました。そしてこの章の結びで、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と結んでいます。信仰と希望を生むのも愛なのです。そして、「愛を追い求めなさい」と14章につながるのです。どれほどの賜物があったとしても、愛がなければ、すべてがむなしくなってしまうからです。
パウロは伝道する中で、ヨハネのように「神が愛である」という言い方はしませんでした。しかし、言葉にせずとも、パウロの中に神の愛が宿り、愛に支えられて生きてきました。ことに忍耐を要する場面で、愛の賛歌を歌うことで悩みに耐え、望みと信仰に生きたのだと思います。その御言葉を、コリントの信徒たちに、そしてわたしたちびも贈られているのです。