詩編139編11~12節 ルカによる福音書11章33~36節
説教 「まことの光を受けるために」 田口博之牧師
聖書を読むと、「光」という言葉がよく出てきます。その場合の「光」は、「闇と光」との対比で語られることもありますが、多くは神の本質を言い表す言葉として用いられています。父なる神は、混沌とした闇の中、「光あれ」の言葉によって創造の御業を始められました。先ほど朗読された詩編139編の11‐12節では、「わたしは言う。闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち 闇も、光も、変わるところがない」と、闇をご自身の秩序の中に置かれる主の御業を語られています。
「キリストよ、光の主よ」という讃美歌を歌いました。新約においては、イエス・キリストが「光」のイメージで語られていきます。それが顕著なのがヨハネによる福音書です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」で始まっていますが、わたしはこの部分を「光のプロローグ」というイメージで読んでいます。
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
これらはヨハネの詩的な言葉ですが、8章では、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と、イエス・キリストご自身が、「わたしは世の光」と示されています。
ミサ曲と呼ばれる声楽曲があります。バッハのロ短調ミサなどが有名ですが、クラシックの巨匠らはおおよそミサ曲を作っています。ミサ曲は5部に分かれますが、第3部のクレドーの部分は二ケア信条が歌われるのが多いです。その日本語訳は讃美歌21でも知ることができます。讃美歌21の93-4,使徒信条の隣には二ケア信条(ニカイア・コンスタンティノポリス信条)が出ています。ここには、父と子と聖霊の三位一体の神を信じる信仰が言い表されていますが、御子への信仰のところで「主は神のみ子、・・・光からの光、まことの神からのまことの神・・・父と同質であって」と続きます。使徒信条にはない言葉が連なりますが、この信条が採択された背景には、イエスは模範的な人間であるけれども、神そのものではないと主張する強い勢力との戦いが背景にありました。イエス・キリストは「光からの光、まことの神からのまことの神」と言い表され、イエスが神と同質であることが正統教理として確立しました。わたしたちの教会も、この線に立っています。
イエスがまことの神であることを、「光からの光」と言い表わしています。「光」と聞いて、現実に見たことのある何らかの光とイメージを重ねる方がおられるかもしれません。では「キリストの光」とは、どのような光でしょう。煌々とした光でしょうか。直線的に進む光なのか、四方八方に広がる光なのでしょうか。あるいは温かで優しい光をイメージするでしょうか。今は人工的な光が溢れていますが、電気による光は大昔からあったわけではありません。日本で初めて電灯がともったのは、1882年東京銀座だと言います。140年前のこと、名古屋教会の草創期と重なります。
昔の人たちは、「光」と聞いても、わたしたちが思い浮かべるような光は想像しなかったでしょう。ネット検索で「光」と入力して出てくるのは、光回線の広告でした。でも昔の人は、「光」と聞くと、今日のテキストで語られているような「ともし火」によって、暗い部屋を照らすあかりを思い浮かべたのではないでしょうか。それは、不夜城を生きる現代人があまりもたないイメージのように思います。
さて、ルカによる福音書11章33~36節とテキストは短いのですが、ここは二つの話が結びつけて語られています。それは「体のともし火は目」という小見出しの下の括弧の中に、マタイ5:15と6:22-23と別の箇所が記されているように、二つの話が合わせて語られているのです。マタイでは5章で、有名な「あなたがたは世の光である」という言葉の後で「ともし火は燭台の上に置くもの」という話が語られ、6章の方では「体のともし火は目」という話が語られていました。ルカは、この二つの話を「ともし火」という一句をキーワードにまとめて語っています。
はじめに33節「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とあります。この話そのものは難しくありません。ともした火は燭台に置かれてこそ、部屋の中は明るくなるのであって、それを穴蔵の中や、升の下に置いてしまっては、ともし火をともす意味がないのです。
「入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」と言われています。ここに入って来る人がいることが想定されて語られています。そして、入って来る人に光を見せなさいと、イエス様は言われるのです。確かめておきたいことは、入って来る人はどこに入って来ようとしているのかということ。ただ漠然と、どこかの家の中の話しをしているのではないのです。そして、この「ともし火」についても、そこらにある「ともし火」のことを言っているのではありません。というのも、はじめに「キリストの光」のイメージの話をしましたが、当時の人々が知っている光といえば、太陽の光、月の光以外には、ともし火のように、火によって周りを照らすイメージしかなかったのです。
ここでは、「光からの光」であるキリストのことが語られています。そして「入って来る人」とは、「キリストの中に入って来る人」のことであり、具体的に「キリストの体なる教会に入って来る人」の話をしているのです。であれば、ともし火をともす者とは、教会の中に生きているわたしたちの話をしていることが分かってきます。
教会の礼拝に新しい人が来ることがあります。その方のために、教会員は配慮をします。それが足りていると思うこともあれば、どうかな、と思うこともあります。でも大事なことは、聖書や讃美歌を開いて親切にすることではありません。来られた方が、ここにキリストがおられることが分かる、そういう礼拝であるということです。ところが、わたしたちの教会の礼拝堂はシンプルです。キリストの絵やマリア像もなければ十字架すらありません。礼拝堂に入って、宗教的な厳かな雰囲気を感じられる方は少ないと思います。
では、どこでキリストの臨在を感じるかといえば、わたしたちが礼拝する姿勢です。礼拝奉仕者の立ち居振る舞いも、新しく来られた方はよく見られています。かつて、礼拝後にある方と話をしたとき、讃美歌を歌う時に、年長の方の背筋がきっちと伸びていえることに驚かれた方がいました。その方は、神様に引き上げられているようだと思われたのです。そのようにとらえなおして、33節を読むと、ここに語られている「ともし火」とは、教会に生きるわたしたち自身のことだと思わせられます。わたしたちが穴倉の中や、升の下に隠れているようであっては、キリストを証しすることはできません。キリストの光が見えるように燭台の上に置かれなければならないのです。
そう言うと自分はそのような者ではないという声が聞こえそうですが、そんなことはありません。マタイでは、「あなたがたは世の光である」と言われた後で、この話が続きます。イエス様は、そのようにわたしたちを見ておられるのです。なぜなら、救いに与ったからです。聖書でいう「光」は「救い」と同じです。救われた者は光とされています。土の器にしかすぎない者が、神の光を受け、神の栄光を映し出す者とされています。だから、マタイではこういう言葉が続くのです。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と。
キリスト者は、神に選ばれたものです。それは罪の闇の中に埋もれているわたしたちを神が憐れんで光の中へと導き出してくださったからに他なりませんが、それだけが目的ではないのです。神の計画は、わたしたちを用いて、わたしたちの周りにいる方を救いの道へ歩ませようとすることにあります。「伝道」とは「伝え導く」の伝導ではなく、「道を伝える」から伝道です。そこにキリスト者としての務めがあり、わたしたちが導こうとしなくても、後のことは神様にお任せすればよいのです。
そして、イエス様がもう一つ語られたのが、「体のともし火は目である」という話です。何だか不思議な言葉のように思います。「体のともし火は目」とはどういうことでしょうか。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」とあります。
「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」というのが望ましい状態であり、「濁っていれば、体も暗い」というのは、望ましくない状態だということは想像できます。では、「目が澄んでいる」、「濁っている」とはどういう状態を言っているのでしょうか。一般的に「目が澄んでいる」という時は、純粋だとか、嘘偽りがない、という状態でとらえられると思いますが、この「澄んでいる」という言葉には「単純である」という言葉が使われています。「目が単純である」と言うと、いい気持にはならないように思いますが、まさに、真っ直ぐに、まことの光であるイエス様を見つめるということが言われているのです。そうすれば、全身が明るくなるというのです。
一方で「目は濁っている」と言えば、一般的には、どよんとして、覇気がない状態を言うように思いますが、「濁っている」の原文は「悪い」とか「よこしま」という意味です。29節で「今の時代の者たちはよこしまだ」とありますが、同じ言葉が使われています。「単純である」とは反対に、見るべきものをまっすぐに見ていない状態を言っています。すると体は暗くなる。だから、暗くならないように「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と言われているのです。そのために、目が肝心なのだと言われている。あなたがたが世の「ともし火」となれるかどうかは、あなたがたがイエス様のことをしっかり見ることができているかどうかで決まる。そういうことが言われているのです。
わたしたちに光を自家発電できるような力はありません。とても明るく輝いて生きているように見える人がいます。でも、その方たちは、わたしたちが考えもしないような大きな挫折を経験しています。そうでない人は、表面上のメッキが貼られているにすぎません。
どれだけ全身が明るくても、自分で光を放っているわけではなく、外からの光を浴びて、光を内に蓄えることで明るくなります。わたしたちは、太陽の光を受けて輝く月のような存在として闇の世に光をともすわけですが、そのために光をしっかりと見ることのできるよい目を持つのです。
そこでいう光は、御言葉の光です。御言葉は聞くものですから、ここでいう目は耳でもあるのです。よい目、よい耳をもって、土の器にすぎないわたしたちの中に御言葉をたくわえるとき、わたしたちは外からも内からも照らされます。それでわたしたちの体がともし火となって、世の光とされてゆく。
「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」。
わたしたちは聖書を複雑にとらえようとする傾向がありますが、シンプルでいいのです。そんなに難しく考えないで、単純なまなざしを神に向け続ける。そうすれば、どれほど厳しい状況に置かれたとしても大丈夫です。よい目を持って光の主を見れば、神がわたしにどのように働こうとされているかを知ることができます。わたしたちの表情は変えられ、体全身が明るくされていくのです。
詩編139編11‐12節の御言葉をもう一度読んで終わります。「わたしは言う。闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち 闇も、光も、変わるところがない。」アーメン。
神は、わたしたちが闇の中にいるときにも、変わることなく神でいてくださいます。