詩編51編1~6節、ルカによる福音書17章1~4節
「悔い改めと赦し」田口博之牧師

わたしたちは誰かとの関係性の中で生きています。朝起きて夜寝るまで、誰とも言葉を交わさないことの方が稀です。お一人暮らしの方で、丸一日外に出かけることがない、メールや電話で誰とも連絡を取らない日というのは、稀なことでないかと思います。たいていは、家族をはじめ誰かと触れ合っています。喜びの日もあれば悲しみの日もありますが、それらは他者と触れ合うことの中で起こっています。嬉しいこともそう、傷つけられたと思うこともそうです。

少なくとも、ここにいるわたしたちは、今日は誰かと触れ合っています。新型コロナウイルスの感染者が広がっていますが、コロナで制限を受けたのは移動と集いでした。キリスト教というのは、集まる宗教です。「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」とあります。名古屋教会というと名古屋教会というこの建物を思い浮かべるかもしれませんが、神に呼ばれたものが集められているところに教会があるのです。わたしたちは、神を賛美、礼拝しますが、一人で礼拝するのではなく、集められて礼拝しているので、必ず人との触れ合いがあります。

「教会につまずいた」という言葉を聞くことがあります。「教会につまずいた」と言われる人は、建物ではなく、人の集まりとしての教会を念頭に置いているでしょう。つまずきは、集まるからこそ起こります。「教会の誰々さんの言動で教会につまずきました」と言われたら、教会に行かない理由として正当化されてしまうことがあります。人間は罪がありますので、集まるときにつまずきが起こってしまう。わたしは牧師として、いったいどれだけの人をつまずかせているだろうかと思うことがあります。面と向かって「先生の言葉につまずきました」と言われたことはありませんが、それは言わないだけだと思っています。どれだけ謝れば済むのか分かりません。

ただし、自己弁明するわけではなく、教会にはそもそもつまずきがあるのだということが、今日の聖書箇所、ルカによる福音書17章1節で分かります。イエス様は「つまずきは避けられない」と言われました。この「つまずき」という言葉は、スカンダロンというギリシャ語ですけれども、「わな」と訳されることもあります。英語のスキャンダルの語源となったとも言われます。「わな」にかかり、つまずいたことで、健やかな歩みができなくなってしまうことがある。

イエス様は「つまずきは避けられない」と言われた後で、「だが、それをもたらす者は不幸である」と語られます。「不幸」というだけでなく、「そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」と言われています。かなり厳しい言葉で、つまずかせることを非難しておられます。

なぜここまで厳しく言われるのでしょうか。多くの場合、つまずくのは、小さい人、弱い人です。強い人は、つまずいたとしても立ち直ることができます。強い人は、自分の強さが基準になっているので、誰かがつまずいた理由を聞いて、「あの人はこんなことでつまずいてしまったのか」と驚くようなことがあります。往々にして、強い人は弱い人のことが分からないものなのです。

信仰のことでなくても、たとえばお酒の強い人は、弱い人にも関係なくお酒を勧めます。それは意地悪でなく、こんなに美味しいんだからという親切心で勧めることもあります。でも、弱い人は少し飲んだだけで顔が赤くなって、気持ちも悪くなってしまう。そういうことは、お酒の強い人に分かれと言っても難しいことです。逆にお酒の弱い人は、強い人が美味しそうにお酒を飲み、楽しそうに酔っぱらっている姿を見てどう思うでしょうか。冷めた目で見ている人がいるかもしれません。しかし、あんな風に自分も飲むことができたらいいのにと、うらやましく思う人は少なくないのではないでしょうか。そういうことは、強い人はよく分からりません。そんなギャップから、つまずきが生まれることがあります。

教会の中にも、コロナ感染症への対応が慎重な人がいれば、そうでない人もいます。ワクチンに対する考え方も違います。緊急事態宣言が出ているのに、集まるのはおかしいのでは、と思う人もいたでしょう。あるいは、わたしたちは今も教会で食事を出していませんが、ほぼ毎週、食事をしている教会もあるのです。

オンライン礼拝が行われるようになりましたが、それに対応できる人がいれば、対応できない人もいます。名古屋教会がYouTubeでなく、Zoomでもなく、ライン電話いう方法を取ったのは、それがもっとも対応しやすいツールだったからです。配信する側も、受ける側も。しかしラインですら難しい方が大勢いることを忘れてはなりません。それでも、礼拝に出て来られる方は強い方なのであって、弱い方は何もできないのです。それは体の弱さとだいうこともあれば、機会に弱いということであり、信仰の弱さということもあります。大事なことは、弱い人たちのことを放っておかないことです。パウロがコリント書の中で、キリストの体である教会について語ったとき、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言われたことに目をとめたいと思うのです。

イエス様は、今日のルカ17章3節で「あなたがたも気をつけなさい」と言われました。これは、今言った「つまずき」に関する注意喚起と捕らえることができますし、次に述べる「兄弟が罪を犯した」ときにどう対処すればよいのかを教えていると、二つのことを指していると考えることができます。

イエス様は言われます。「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

キリスト教の根本は何かと問われたとき、わたしは「罪の赦し」と答えます。キリスト教というのは「集まる宗教」だと言いましたが、より本質的なことをいえば「罪を赦せる」宗教です。けれども、無条件に何が何でも赦せばいいと言っているのではないのです。「一日に七回罪を犯しても、赦してやりなさい」と聞くと、余程気前がよいように思いますが、ただで赦せとは言われません。

そして、赦しへと至るプロセスがあることがイエス様の言葉から分かります。イエス様は、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」と言われています。今日は「悔い改めと赦し」という説教題でお話していますが、悔い改めなしの赦しで、ほんとうに赦したことにはなるのでしょうか。曖昧にしたまま、妥協したことにはならないでしょうか。それで新しい関係性を築くことができるのでしょうか。

実は、説教の準備をしながら、「悔い改めと赦し」という説教題をつけたけれども、もう一つ加えねばならないことがあったと思いました。イエス様は「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」と言われています。そう、「戒めなさい」と言われていることです。あらためて説教題をつけるとすれば「戒めと悔い改めと赦し」にしたでしょう。そして、この「戒める」ということが、わたしたちは苦手なのではないかと思わされています。感情的に相手を批判するか、あるいは何も言わずにいて、相手が罪に気づき悔い改めてくれるのを待つかどちらかではないでしょうか。感情的な批判であれば、相手も頑なになるだけです。何も言わなければそのままとなり、それでは悔い改めもなく、罪の赦しに至ることはあり得ないからです。

どこの法人でも就業規則に「懲戒処分」という規定があります。たいていは、戒告から、減給、出勤停止、いちばん重いもので解職という段階を経ます。実は教会にも「戒規」という項目が日本基督教団の教規に定められています。(戒規の戒は戒める、規は規則の規という字)。信徒であれば、戒告、陪餐停止、除名の三つがあります。陪餐停止というのは、礼拝に出ることは禁じないが、聖餐を受けることができないということです。それは聖餐の交わりから外すということです。また、教師の場合には、戒告、停職、免職、除名の四つがあります。この戒規というのは、フランスの哲学者フーコーが用いたとされていますが、英語ではディシプリン、訳せば訓練、しつけ、規律であり、処分ではないのです。

今日の聖書箇所に照らしても、戒規はまさに戒めるためです。悔い改めへと導くための戒めです。そして悔い改めれば速やかに赦し、そこで免職は解かれ、現任教師に復帰できるのです。わたしは大学生の頃に、その先生が牧師をされている教会に何度か行きました。関係のある先生です。そこで思うことは、その先生を支援している周りの人たちの声が大きくて、逆に引き下がれなくしているということはないか。わかりませんけれども、そんなことも考えるのです。

詩編51編1-6節を読みました。詩編51編というのは、悔い改めと罪の赦しを求める詩編の代表的なものです。表題とも言える1,2節に、「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」とあります。このことの背景となる出来事については、サムエル記下11−12章(旧約495p以下)に詳しく語られています。

書かれてあることを要約します。ダビデは、部下ウリヤの妻バト・シェバに心惹かました。そしてウリヤを、戦線の激しい場所に送り、結果ウリヤは戦死したのです。ダビデは未亡人となったバト・シェバを自分のものにします。批判されない手をダビデは打ったのです。ところが、ダビデ王に仕えていた預言者ナタンは、ダビデの罪を見逃しませんでした。ナタンは、豊かな男と貧しい男のたとえを用いて、ダビデを戒めたのです。ダビデは自分の罪に気づき、悔い改め、ナタンに「私は主に罪を犯した」と告白しました。

詩編51編3-4節は、そのときのダビデの思いを語っています。
「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。
わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。」
罪が赦されるために、ひたすらに主の憐れみを祈り求めるのです。

実はわたしは、この詩編51編をほぼ暗唱できます。さや教会の礼拝で、毎週この詩編51編を交読していたからです。旧讃美歌についている文語訳の交読文を用いていました。

「ああ神よ、願はくは汝のいつくしみによりて我を憐れみ
汝の憐みの多きによりてわがもろもろの咎を消したまへ
わが不義をことごとく洗い去り
我をわが罪よりきよめたまへ
われはわが咎をしる
わが罪はつねにわが前にあり
我は汝にむかいて ただ汝に罪をおかしみまえに悪しきことを行えり
されば汝、ものいうときは義(ただ)しとせられ
汝、さばくときは咎めなしとせられたもう・・」と続きます。

ダビデはイスラエルの理想的な王として尊敬されていましたが、それはダビデが偉大な王としてイスラエルを繫栄にさせたからではありません。王であるにも関わらず、罪を認め、神の前に悔い改めたからです。人は罪を犯さないから偉大なのではなく、罪を犯したとき、その罪を心から悔いることのできる人が偉大なのです。

そして、ここで忘れてはならないことを二つ加えます。一つは、預言者ナタンの勇気ある戒めなくして、ダビデが悔い改めることはなかったということ。そして悔い改めたダビデが、これは「わたしは主に罪を犯した」と告白したこと。詩編51編5節から6節、文語訳でいえば、「わが罪はつねにわが前にあり、我は汝にむかいてただ汝に罪をおかし」と、ウリヤへの罪であるのに、「主のみに罪を犯した」告白としたことです。

説教のはじめに、わたしたちは誰かとの関係性の中で生きているといいましたが、実はそれだけではありません。わたしたちは教会生活をする中で、神との関りの中で他者との関りが生まれ。他者との関りを支えているのは神であることを知ります。それは主の祈りで「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく 我らの罪をも ゆるしたまえ」と祈るとおりです。

わたしたちが、他者との関りの中心に神がいてくださることを知ることができるのは、とりわけ「罪の赦し」ということにおいてです。主の祈りは、「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく」とあるように、わたしたちが他者の罪を赦せますようにと祈るのではないのです。そうではなく、わたしたちが他者の罪を赦すように、神にわたしたちの罪を赦してくださいと祈り求めているのです。

そのように祈ることで、十字架に架けられたイエス・キリストによって成し遂げられた罪の赦しを見つめ直すのです。わたしたちは神に罪赦され人としてこの世を生きています。罪の赦しの恵みに心底生きているならば、「あの人のことが赦せない」と思う自分は、いったい何者なのかと顧みることができる筈です。罪の赦しを知る者は、罪の世にあって和解の使者として生きてゆくのです。