聖書 申命記32章45~47節
「人生を導く言葉」田口博之牧師
わたしたちが生きるために、なくてはならないものは何でしょう。結論から言えば、先ほどの子どものための説教で話をされた一句。「人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」ここに言い尽くされているといえます。聖書は「パン」すなわち、食べ物が要らないと言っているのではありません。「パンだけで」と言うのですから、パンは必要なのです。人は食べなければ生きていけません。イエス様は「我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈るように教えられました。食べるということは、わたしたちが健康を保つために必要なことです。
イエス様の時代、多くの人々が食べ物に困っていました。イエス様は自分の周りにいる大勢の人々がお腹を空かせているのを見て憐れに思い、パンの奇跡を行われました。あの時、群衆は満たされました。でも、人々が満たされたのは、パンを食べて満腹したというのが理由ではなかった筈です。飼い主のいない羊のようだった人々が、わたしたちの人生を導き、魂を養ってくださるまことの羊飼いに出会ったのです。この方の口から出る一つ一つの言葉に心が満たされたのです。
荒れ野の40年を歩むイスラエルの民は、天からのマナが与えられたことで飢えをしのぐことができました。長い年月がかかりましたけれども、彼らが約束の地に入ることができたのは、マナを食べたからではなく、マナを降らせた神の導きに従ったからです。人々はつぶやきを重ねましたが、それでもついて行きました。離れては生きていくことができないことを知っていたのです。
申命記32章45~47節の言葉を読みました。「モーセは全イスラエルにこれらの言葉をすべて語り終えてから、こう言った」とありますが、「これらの言葉」とは、申命記でここまで語られたすべての言葉を指します。その点について、少し詳しく見てみると、申命記1章1節に「モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた」とあります。これが表題です。
「申命記」のヘブル語の書名は、「デバリーム」ですが、これを訳せば「言葉」となります。「申命記」というのは、「モーセ五書」と呼ばれる律法の最後の書ですがヨルダン川の東、約束の地に入る手前のモアブの地でで、モーセがこれまでの歩みを振り返るように民に語った言葉がまとめられたものです。出エジプト記からレビ記、民数記が40年かけて、イスラエルの歩みを記録したのに対して、申命記は40年の出来事を1日で振り返ってまとめられた書。イメージとすれば、名古屋教会が100年史以後の35年の歩みを1冊にまとめた年史のような書だと言ってよいかもしれません。
ですから、申命記を読むと、出エジプト記20章に出てきた十戒が、5章でもう一度出てくるのです。もちろん、語り直しただけではなく、申命記には心に残るオリジナルの言葉もたくさん出てきます。6章4節のシェマー「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」は、イエス様が律法の最も重要な掟の一つとして語られたものです。イスラエルの人々は、この言葉を子どもたちに繰り返し教えました。人生を導く言葉として教えたのです。
イエス様が語った「人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」も、申命記の8章3節の引用です。イスラエルの民は荒れ野の40年を、マナを降らせた神の言葉により生かされたことをモーセは語りました。
これらの言葉をすべて語り終えたところで、テキストとなる32章45節以下につながるのです。モーセの最後の勧告です。「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。」
これがモーセの遺言でした。モーセはこの後、モアブのネボ山、ピスガの山頂で最後を迎えます。34章7節によれば「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった」とあります。教会の年長の方もモーセに倣ってあと30年は行けそうです。目も体も衰え知らずのまま、最後の最後まで神に奉仕できるとすれば最高です。すべてをやり尽くしてヌンの子ヨシュアに託して死んだのです。
モーセは約束の地に足を踏み入れることはありませんでした。モーセの使命は、荒れ野の40年という長い年月、神の言葉によりイスラエルの民を導くことでした。しかし、誰よりもモーセ自身が導かれたと思うのです。預言者は神の言葉をお預かりします。モーセは常に御言葉の第一の聴き手という恵みに預かったのです。その言葉を、約束の地を目の前にあらためて語ったのです。
モーセが第一の聞き手というならば、この言葉をモーセから聞く人々は、第二の聞き手です。この人々はエジプトの奴隷時代を知りません。わたしたちはエジプトを脱出した60万人の民がそのまま40年荒れ野を旅して約束の地に向かう。どこかそんなイメージを持っているように思いますが、40年の間に世代は変わり、約束の地の担い手になるのは第三世代です。その子らは、エジプトでの過越の出来事はもちろん、荒れ野の旅もよくも知らない。モーセは御言葉の第二の聞き手に向って、この言葉を子どもたち、第三の聞き手に伝えていくよう命じたのです。そうすることで、契約の民としてのイスラエルのアイデンティティーは幾世代を越えて伝えられました。しかも、これらの言葉が申命記として書き残されたことにより、3千数百年という年月を経て、現代にも正しく伝えられています。
わたしたちの国では、教会から生み出された学校や社会施設等で、設立の精神を伝えることが難しくなっていく現状があります。この問題は数十年前から顕在化していましたが、近年ますます顕著になっています。キリスト教学校の校長、学長、理事長らのクリスチャンコードが外されています。信仰者に任せたくても任すことのできる人が、教会の中を探しても見つけにくくなっています。キリスト教主義の幼稚園や保育所、公益法人、社会福祉法人でもキリスト者の職員がいない。その組織の中ではどうということはなくても、設立に尽力した教会から見れば大きな問題です。しかし、これらの問題は、学校や団体にあるのではなく、次の世代に信仰が継承できなくなっている教会の側から起こった問題です。
もちろん「信仰の継承」と言っても、信仰とは神と人との契約が基なので、親から子へスライドするように伝えられるものではありません。わたし自身、親から継承されて信仰に入ったわけではありませんし、牧師になったことも神に呼ばれたかです。こんな割り切り方をしたことに、自分自身の問題性を感じていますが、子どもは子どもなりに、色んなことを感じていたことも知っています。
「子どもの権利条約」が幼稚園おひさまの裁判で取り上げられました。とてもよかったと思っていますが、子どもを権利主体というとらえ方をしたとき、たとえばCSに行くことが気の進まない子どもを親が連れていくことも、子どもの権利侵害ととらえられかねないのです。そのように時代が変わっていることも受けとめねばなりません。それでも、子どもたち、孫たちがイエス様を知ることで、その子の成長に豊かさをもたらすと信じているから、親、祖父母は教会に連れていこうと思うのです。
先週ブラジルの青年の葬儀を教会で行いました。面識はありませんでしたが、長老会の承認を経てお受けしました。わたしは葬儀の最中に、この青年が複雑な境遇に置かれていたこと、お母さんがとても熱心なクリスチャンであり、本人も洗礼を受けていたこと、そして、まことに残念ながら、自分で命を絶とうとしたことを知りました。葬儀で御言葉を語る時、本人を責める言葉になってはいけないし、だからといって肯定することもできない。悲しみに浸るお母さんや友人たちには慰めの言葉を語らねばなりません。悩みました。「彼の分まで生きよう」と語ることが精一杯でした。それでも、彼にはこれだけ悲しむ人がいることを知ってほしかった。優しい方だったので、この涙を知ったら踏みとどまったのではないか。残念な思いが今も残っています。
ブラジル人教会の牧師が列席していたことが分かったので、話をしてもらいました。彼は三度教会を訪ねてきていたそうです。「彼が何かを抱えていることは気づいていた。でもわたしは彼に何も言うことができなかった。わたしは救いの言葉を知っているのに」と、悔しさをにじませて語られました。
生きづらさを抱えている方に、どういう言葉をかければよいのか。今も自己啓発本は書店に並んでいます。その一方で人は「緩さ」にほっとします。「弱さ」を認め合う生き方、無理のない生き方を勧める考えが共感を集めているように思います。頑張らない生き方を勧める韓国エッセイが若者に人気です。最近、ハ・ワンという韓国の方が書いた『あやうく一生懸命生きるところだった』というエッセイを手にしました。一生懸命生きることは、わたしたちが美徳としてきたところがありますが、ハ・ワンさんは、40歳前に何の計画もなしに会社を辞め、「今日から、必死に生きないと決めた」のです。一生懸命生きる中に「無理をしている自分」がいることに気づき、無理をしている自分が自分自身を苦しめていることに気づいたというのです。確かにコロナの問題が起こったとき、実践したことは「無理をしない」でした。今は「ベストを尽くそう」などとは考えない方がいいとい思いました。
しかし、疲れた人にどれほど寄り添う言葉、その状況の中で最適な言葉を見つけたとしても、ひと時の慰めにしかなりません。その人の人生そのものを導く言葉ではないし、それらの言葉が福音にとって変わることはできません。時代により、人により、同じ人でも、プラスに受け止める人とそうでない人がいる。「頑張って」と言わない方がいいといいますが、「頑張って」と言ってもらえないことで、あきらめるしかないのかと思う人だっているのです。
教会に相談に来られる方に対して、前もって伝えておくことがあります。「わたしは牧師なので聖書の言葉でお話するしかありません。」そう言って、造り主なる神の御心、死に打ち勝たれ復活された方の御言葉を話します。生きる時も、死ぬ時も、死んでからもいつも共にいて、わたしたちの人生を導き生かす福音の言葉です。
相手に応じた言葉は必要です。しかし教会は、御言葉を語ることに大胆さを失ってはなりません。時代の言葉を求めるよりも、時代を越えて語り継がれた言葉に立つことが必要です。コロナで教会の伝道が難しくなっています。でもこういう時代だからこそ、真実の言葉を求めている人がいるのです。わたしたちの人生を導く神の言葉にこそ確かさがあります。
今日の聖書箇所、モーセが最後に主から与えられ、民に語った32章47節の御言葉を読んで終わります。「それは、あなたたちにとって、決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。」