詩編23編1-3a 「主は我が牧者」
何年か前の夏期休暇の折、そこが目的地ということではなかったのですが、観光牧場に寄りました。そこで羊たちの様子をぼんやりと眺めていたのですが、羊飼いが甲高い声を出すと、羊たちは動き始めました。あまり動かない羊、他所に行きそうな羊たちには、牧羊犬が追いかけて、羊の群れに導いていました。
離れたところには、全く動かない羊もいましたので、その羊たちには別の羊飼いがいたということでしょう。子ども説教にあったように、羊は羊飼いの声を知っているので、聞き分けることができたのです。ああ、聖書に書かれてあるとおりだと思い嬉しくなりました。同時にどこかに行きそうな羊を、群れの中に戻そうと走り回っていた牧羊犬の姿を思い出し、自分は牧師といいながら実は牧羊犬として召されているのだと思い、考えさせられました。どこまで、その働きができているのか。聖書の言葉は、自分がどこにいるのか、何をせねばならないのか、立ち帰らせてくれます。その意味では、神の御心を告げる聖書の言葉もまた、わたしたちにとって羊飼いです。信仰者は、御言葉から発せられる神の御声に聴いて生きるのです。
イエス様は「わたしは良い羊飼い」と言われました。神と人との関係を羊飼いと羊との関係になぞらえる考え方は、イエス様のオリジナルではなく、旧約の時代からありました。神が羊飼いとして行動して救ってくださったことを、旧約の民は体験しているからです。
例えば、出エジプトからの脱出の出来事を語る詩編78編52節には、
「神は御自分の民を羊のように導き出し 荒れ野で家畜の群れのように導かれた。彼らは信頼して導かれ、恐れることはなかった。」とあります。
あるいはバビロン捕囚からの帰還を語る第二イザヤは、
「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」と語っています。
イスラエルの民は、エジプトからの脱出やバビロン捕囚からの解放という歴史的出来事を通して、主が羊飼いであると告白してきたのです。主が羊飼いであるからこそ、わたしはすべてに満たされる。このイスラエルの民の信仰を言い表した代表的な詩編が23編です。
今日はその前半部分、23編1節から3節aまでを読みました。旧約の854頁です。もう一度読んでみます。
【賛歌。ダビデの詩。】
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。」
多くのキリスト者が愛してやまない詩編23編です。ところが、新共同訳聖書の詩編23編の翻訳を歓迎していない方は少なくないのです。
以前の口語訳聖書で1節から3節を読んでみます。手元にある新共同訳聖書と比べてもみるとその違いが分かります。
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」
3節の終わり方も違います。この翻訳を残念に思った一つが金城学院同窓会です。「緑の牧場」が「青草の原」に変わってしまいました。あるいは、広島女学院というプロテスタントの学校がありますが、この学校の同窓会は、「みぎわ会」と言います。「みぎわ」が「水のほとり」であることには違いありませんが、その通りに訳す新共同訳聖書は、何とも説明的かなと思います。
文語訳聖書では「主は我をみどりの野にふさせ いこひのみぎわにともなひたまふ」と訳されていました。みどりの野もみぎわも、羊飼いがねんごろに用意した特別な場所という情景が浮かんできます。そういえば、松山の教会に「みぎわ」さんという名前のおばあちゃんがたことを思い出しました。明治期に信仰をもったクリスチャンの親の思いがその名には表されているのでしょう。
ちなみに新しく出た聖書協会共同訳は、詩編23編の1,2節はこう訳しています。
「主は私の羊飼い。/私は乏しいことがない。
主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる。」
かつて慣れ親しんだ訳に戻ったのは、どこかの同窓会の圧力があったわけではないと思いますが、味わい深い訳になっています。
翻訳批評のようなことは、聖書研究会でした方がよいのかもしれませんが、新共同訳の詩編23編がもっとも批判されたのは、実は「みどりの野」や「みぎわ」が消えたことではないのです。何が問題にされていたかといえば、新共同訳聖書が「主は羊飼い」と始まっていることにありました。「主は羊飼い」の何が問題なのか。ヒントは今日の説教題とした「主は我が牧者」にあります。この説教題は、文語訳聖書の「主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ」から取ったものですが、違いに気付かれたでしょうか。
もう少しいえば、詩編23編は、口語訳では「主はわたしの牧者であって」で始まり、聖書協会共同訳は「主は私の羊飼い」で始まっています。そう、「私の」という言葉があるかどうかの違いです。「主は羊飼い」というのは客観的な事実を表現していますが、原文のヘブライ語聖書にも「私の」が入っていると読むことができます。「主は私の羊飼い」、「主は我が牧舎」と呼ぶことで、主なる神と私との関係性が生まれます。
先のヨハネによる福音書の「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という言葉にも、明らかに主と私との関係性が表されています。「わたしの羊飼い」がおられるからこそ、わたしには何も欠けることがない。「われ乏しきことあらじ」という告白が、そこで生まれてくるのです。
皆さんは「エレファントマン」というイギリスの映画をご覧になったことがあるでしょうか。わたしが大学生の頃1980年の作品です。随分と話題になった映画でした。これは実話であり、あえて白黒映画の作品となっていました。この主人公はある病気で顔が象のように変形しています。母の胎にいる時に象に踏まれたと揶揄され、「エレファントマン」として、サーカスの見世物小屋にいました。普段は変形した醜い顔を隠す頭巾をかぶっています。
そんな彼を助けようと外科医が現われて、病院で保護したいと院長に取り計らいます。院長が彼を病院に置けるかどうかの判断は、彼が知的であり、回復の見込みがあるかないかでした。顔も変形した彼は言葉も思うように話せません。外科医は彼に言葉の訓練をし、院長に認められようと試みます。隔離病室で院長と対面しましたが、彼は教えられた言葉を繰り返すことしかできません。院長はここで診ることはできないと判断し、退院させるように言いました。二人が部屋を出て行くと、彼が詩編23編を朗読する声が部屋の中から聞こえてきます。驚いた外科医がどうして、この聖書を覚えているのかというと、「毎日聖書を読んでいるから覚えました」と言い、「主は私の羊飼い、私はとぼしいことがない」と唱えるのです。彼がこの詩編から慰めを受けたのは、主なる神が私の羊飼い、我が牧者であると信じたからです。あの人、この人を愛する羊飼いではなく、わたしを愛してくださる羊飼いであると信じることができた。
もちろん、新共同訳の「主は羊飼い」の「私の」はないことに問題があるというのではありません。「私の」と言ってしまうと、ヘブライ語で「私の」という言葉は所有を表すので、これを避けたのでしょう。「主は羊飼い」の後、「わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ」と続くことで、「主がわたしの羊飼い」であることは十分語られているからです。
そうであるとしても、ここには「主は私の羊飼い」と告白する信仰の言葉だと知ってほしかったからです。羊たちがわたしの羊飼いの声を聞き分けて、その声に従っているように、「主は私の羊飼い」という告白のもとに、主の御声を聞いて従っていきたいと思うのです。
イエス様は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。この御言葉のとおり、イエス様は、他の誰のためでもなく、わたしのために命を捨ててくださいました。詩編23編にうたわれている羊飼いがなさることをイエス様は越えたと言ってよいのです。このわたしを救うためにイエス様が何をしてくださったかを見つめていきたい。
使徒信条も「我は信ず」と信仰を告白します。「我は信ず」と告白する者が、集められて一つの群れになったのが教会です。わたしたちは、色んな声が聞こえてくる時代に生きています。情報に溢れています。そういう時代であるからこそ、色んな声に振り回されてしまう危険性があります。わたしたちが聞くべき声は、まことの救いを与えてくださったお方の声です。わたしの羊飼いなる主イエス。わたしを呼ぶ声に聞き従って歩んでいきたいと願います。