2022.7.3 ルカ16:19-31
「終わりから今を生きる」

人は死んだらいったいどうなるのだろうか。そんなことを考えたことがないという人は、おそらくいないだろうと思います。昨日も赤星泰夫兄の葬儀を行いました。お父さんは、おじいちゃんは、どこへ行くのだろうか、棺に花をたむけながら考えたのではないでしょうか。

一般的な日本人の考え方でいえば、善いことをした人は天国に行き、悪いことをすると地獄に行く。幼い頃、親からそんな教えを受けただろうと思います。でも、その線引きは難しい。善いことの悪いことの判断はどこでするのか、法に接するような罪を犯したのでなければそれで済むという話ではありません。

天国と地獄という言い方は日本人にとって一般的ですが、天国はキリスト教の用語で、地獄は仏教的な言葉だと言えます。極楽と地獄、天国と陰府と読みかえた方がよいのでしょうか。呼び方は違っても、古今東西様々な宗教が、幸いな死後の世界と、責め苦を負わねばならない死後の世界があることを説いていることは間違いありません。

聖書は死後の世界のことを、そんなに詳しく語っているわけではありません。今話したような分け方、すなわち死んだ人の住み家が分かれるということでいえば、多くの人が思い浮かべるのが、今日のルカによる福音書16章19節以下となります。大金持ちととても貧しかったラザロが出てきますが、二人とも死んだのです。死んだ二人は、どうなっていくのか。

22節から24節を読んでみます。「この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます』」。

貧しかったラザロは、天使に連れられて宴席にいるアブラハムのもとに連れて行かれました。ラザロは幸いな死後の世界に招かれましたが、そこはわたしたちがイメージする天国に近いのではないでしょうか。一方で金持ちはといえば、炎の中でもだえ苦しんでいます。これもわたしたちがイメージする地獄を表しているようです。では、イエス様は死後にこのような二つの世界があるということを教えようとされたのでしょうか。

愛知神学会という牧師の勉強会があり隔月で開かれています。先週の月曜日も行なわれましたが、この地域の牧師たちが15人集まりました。2年ほど前から「メイド・イン・ジャパンのキリスト教」という本を読んでいます。内容は、明治に入って西洋から入ってきたキリスト教が日本で広まっていく過程で、教理主体のキリスト教から、儒教の影響、土着化によって日本製のキリスト教に変容していったのではということを一人の宣教師が調査研究したのです。先週学んだ箇所では、日本人が死後の世界をどう考えるか、キリスト教の死生観を日本独自の祖先崇拝と霊魂信仰に適応するように形を変えていったのではという問題提起がされていました。

名古屋教会が、メイド・イン・ジャパンのキリスト教かと問われれば、そうではありません。わたしを含め歴代の牧師が語ってきたことは、聖書の教えを日本的に変容させてはいないと思っています。けれども、たとえばイースター礼拝後の墓苑礼拝、11月の召天者記念礼拝には多くのご遺族が集まりますが、正直、日本のお盆のように先祖とお会いできる時、そういう思いの方は少なくないでしょう。それは西洋から入ったキリスト教的とはいえないのです。では、二つの召天者礼拝を行うときに、教会が日本的な思いを否定しているかと聞かれればそうではなく、死んだ人を重んじるという心を大切にしながら礼拝を守っています。

植村正久も、日本人の伝道は日本人の手で行うことを強調した人です。そういう意味では土着化したキリスト教という面はもっているのです。それでも、わたしたちは仏教の年忌法要のようなことは必要としていません。それは死者を顧みていないということではなく、死んだ後は神に委ねるという信仰に立っています。

神学会での話の中で、やはり今日の金持ちとラザロの話が話題となり、天国と地獄に分かれるのか、そういう話にもなっていきました。ただわたしは、ちょうどルカの連続説教をしていたので発言できたことでしたが、イエス様は死んだ人が、天国か地獄に行き先が分かれることを伝えるために、この話をされたのではないということ。15章から16章にかけて語られたことの文脈から読みとる必要があるのでは、ということをお話しました。

というのも、15章では、見失われたものを見つけるまで捜し求める神の愛が、見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ、放蕩息子のたとえにおいて語られていました。このたとえ話は、15章の1節から3節を読むと、ファリサイ派の人々と律法学者に向けて語られています。その場には、徴税人や罪人がいましたが、彼らは三つのたとえで語られた見いだされたものたちです。他方、放蕩息子の兄のとった態度は、ファリサイ派の人々と律法学者たちのそれと同じだといえます。

そのファリサイ派の人々と律法学者たちが、金持ちとラザロの話の聞き手なのです。16章に入ると、イエス様は弟子たちに対して「不正な管理人」のたとえを語られました。イエス様はこの話を通して「あなたがたは、神と富に仕えることはできない」と教えています。

すると14節で、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」というのです。彼らにとって富とは神様の祝福のしるしでした。自分達が律法をきっちりと守り、正しく生きていることの報いとして、神様が祝福を与えられたと理解していたからです。そんな考えに支配されている彼らに対して、イエス様は「金持ちとラザロ」の話をしたのです。このことを抜きに考えてしまうと、この話は天国と地獄の死後の二つの世界を描いている。そのような受け取り方になっていくのです。

わたしが思うに、むしろこの話と響き合うのは、ルカによる福音書6章20節以下にある「幸いと不幸」の教えです。

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」

ラザロは、この御言葉のとおりとなりました。一方の金持ちは、

「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」

この御言葉が成就したといえます。

イエス様のこの教え、お金持ちが不幸で、貧しい人が幸いという教えは、とてもラディカルな教えでした。もちろん、お金をもっている人がすべて不幸になるということを断言しているのではありません。ではなぜ、この金持ちが不幸になったのかといえば、それはひとえに生き方の問題なのです。

「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」で彼は、半端ではない金持ちでした。しかも、お金というのは、懸命に働いた結果としてついてくるものだと思いますが、この人は贅沢三昧に遊びほうけている。余程いいとこの家に生まれ育った苦労知らずで、いうなればこの人も放蕩息子です。もう幸いを享受していました。でもそれが、贅沢三昧がほんとうに幸いなことと言えるのでしょうか。決してそうではなかったのです。

一方のラザロは、この金持ちの門前に横たわっています。「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた」とは、貧しさの極みです。善いサマリア人のたとえ話を思い出します。門前に横たわるラザロは、追いはぎにあって死にかけている人と同じです。金持ちはレビ人や祭司と同じように見て見ぬふりをしました。でも、貧しい人は顧みられたのです。天使がアブラハムのもとに連れていってくれました。

死んで陰府にさいなまれた金持ちは、アブラハムに憐れみを求めています。しかしもう、後のまつりです。アブラハムは言います。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」

生きているうちに、家の中にいる金持ちと門の外にいるラザロとの間に大きな淵があったように、死後の世界にも大きな淵があって、渡ることができないというのです。この淵が天国と地獄との境界線ということなのでしょうか。一つ興味深いことは、金持ちが苦しむ陰府からアブラハムとラザロのいるところが見えているということです。わたしたちがイメージする天国と地獄よりも、場所的には近いといえないでしょうか。けれども、見えているからこそ苦しむのです。なぜ向こう側に行けないのかという苦しみがあります。生きていたときのラザロも金持ちの家の前にいたのです。しかし、この二つの間には断絶がありました。その淵は深くて渡ることができない。

金持ちは、自分が向こう側に行くことを諦めました。ただしここに来て、放蕩息子であった彼は、我に返ったのです。自分は仕方ない、自業自得だ。でも、まだ地上に生きている自分の五人の兄弟を何とかしてほしいと思いました。彼らも贅沢を享受している。こんなところに来ることがないように、ラザロを遣わして言い聞かせて欲しいと、そうアブラハムに頼むのです。しかし、アブラハムは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と言って願いを拒絶します。モーセと預言者に耳を傾けるとは、聖書の言葉に聞くということです。

アブラハムは、死んだ者の言葉ではなくて、聖書を生ける神の言葉として読むことの大切さを伝えたのです。ところが、この金持ちはなおも、「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」と言います。この言葉は、金持ちが聖書の言葉を死んだ者の言葉だと見なしていたことを意味します。それよりも、自分たちが目に留めなかったラザロがお化けのように現れるほうが、効果があると思ったのです。

イエス様はこの話を、アブラハムは、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言って終えています。わたしたちが考えるべきことは、これが結論だったのかということです。その先は果たしてないのか。

わたしは、イエスは手遅れにはされないと信じます。アブラハムが無理だと言ったあの淵は埋められる。アブラハムとラザロがいるところを天国というイメージをもつでしょうが、本当にそう言えるのか。わたしたちにとっての天国はイエス様のいるところです。そこにはアブラハムもいるでしょうが、天の国は、アブラハムの判断で物事が決まるわけではありません。アブラハムは信仰の父として共にいる一人です。

裁き主はイエス様です。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまうお方です。マタイの25章が描いているように、羊飼いが山羊と羊を分けるように、祝福される人と呪われる人とをより分けられる時が来るのです。その判断基準は、正しいことをしたか悪いことをしたかとか、いけないことを考えてしまったから自分は裁かれる。そういうことではありません。

イエス様は祝福された人たちに向かって言われました。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」そんなことをした覚えがなくても、そのことを覚えていてくださって「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と言ってくださる。

イエス様は、わたしたちがなす小さな業に目をとめてくださる方です。死者の行く先に大きな淵がある。わたろうにも渡れない。でもご自身が十字架に死んでくださいました。陰府に降りましたが、よみがえられました。ご自身が死なれた十字架を懸け橋としてくださったのです。天国か地獄かということを超えて、死から命へと至る橋を渡してくださったのです。