詩編27:1~4 ヨハネ17:1~3
「永遠の命とは何か」  田口博之牧師

洗礼式の喜びはどこにあるのでしょうか。洗礼を受けておられる方は、自分が洗礼を受けられた日のことを思い出されるでしょう。ここには洗礼を受けて70年位経った人も、何人かいらっしゃいます。わたしも、洗礼を受けて44年が経ちましたが、その時の記憶は鮮明に残っています。但し、洗礼式で水をかけられて罪が清められたという記憶はあまりありません。今もよく覚えてういることは、ひざまずいていたとき、礼拝に出られていたたくさんの人のすすり泣く声が聞こえてきたことでした。でも、何で泣いているのだろうと思いました。あの時の涙が、教会員の感動の涙であったことが分かったのは、しばらく経ってからとなりました。

ひとりの人が洗礼を受けるということは、その人が新しい命に生きはじめるということです。ニコデモという人が、イエス様を求めてやってきたとき、イエス様は「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と言われました。ニコデモは、その意味が分からず「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と率直に問い返しました。するとイエス様は、「はっきり言っておく、だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国を見ることができない」と、洗礼について説かれましたが、洗礼により生まれる新しい命の喜びは、赤ちゃんが誕生するに等しい喜びがあります。神の子が誕生する喜びです。

そして、洗礼を受けるということは、新たな人生を歩み始めるということです。そこを強調すると、今日はご主人の慎太郎さんも来ておられるので、自分の妻がどこかに連れて行かれるのではないかと心配してしまう。そのようなことはないと思いますが、この場にいてくださったことを感謝しています。これは、誰もが経験することではありません。このことで祝福が増しています。

「新たな人生」とか「新しい命」と言っていますが、これは人生の方向が変わるということです。寿命という点では、人は生まれた時から死に向かっていますが洗礼を受けた人は、肉体は死に向かっていても、神に向かう命、死を越える命が与えられるのです。

以前に何かの本を読んでいたときに、「宗教は永遠への憧憬である」という言葉と出会いました。宗教とは永遠へのあこがれを抱かせるもの、ということです。特にわたしたちは、愛する者との死別を経験する中で、命には限りがあることを知ります。と同時にどこかで生きていてほしい、そんな願いを持つものです。あるいは、わたしは死んだらどうなってしまうのか、すべてが終わってしまうのか。自分という存在は消えて無くなってしまうのだろうか。そんなことを考え始めると、恐ろしくなって眠れなくなるということもあります。575番「球根の中には」の讃美歌を心の内に賛美しましたが、永遠に生きることについて、1節では具体的に、3節は神学的に深い意味合いが込められています。

わたしたちは、いつかは命の終わりが来ることを経験的に知っていますが、この世界、この宇宙はいつまでも存在すると思っているところがあります。ところが聖書は、そんなことは言っておらず、この世にも終わりがあることを伝えています。だとすると、魂だけがどこかで生きたとしても、それは永遠とは言えません。

では、永遠なるものは存在しないのでしょうか。そうではない。聖書が、創世記で始まり黙示録で終わっていること、「わたしは初めであり終わりである」、「アルファでありオメガである」の御言葉は、神こそが永遠であることを宣言しています。神は世を創造し、世を終わらせる方です。世の初めも世の終わりも御手の中に支配しておられます。「わたしはアルファでありオメガである」とは、そういうことです。「宗教は永遠への憧憬である」という言葉に照らせば、キリスト教ほど永遠なるものへの憧憬を深くする宗教はありません。

今月末に『Arc アーク』という映画が封切られます。(芳根京子という女優が主役です。)この映画の原作が、ケン・リュウという中国系アメリカ人の短編小説集『もののあはれ』の中に「円弧」(アーク)」という題で収められています。これは近未来のSF小説です。小説では、主人公の名はリーナ。防腐処理した遺体を立体造形に仕上げる会社のアーチストです。やがてこの会社は、生きている人間の肉体を健康で若いまま保つ、いわば不老不死を可能にする医療を手掛けるようになります。リーナはその処置を受け、30歳の肉体を手に入れました。実年齢71歳で出産し、100歳のときに再び恋をします。肉体は30歳を維持しています。皆さんは、そういう人生に憧れを持つでしょうか。リーナが治療を受けて70年が経ち、その頃には不老不死の治療を受ける人がかなり増え、世界は二分化していました。ではそこで何が生まれたのか。現実に不老不死を手に入れた仲のよい夫婦が得たものは「変化ではなく退屈」でした。リーナが恋した青年は、不老不死を否定した人でした。彼は「死を意識することで、大事な選択をすることができる」と語ります。

もっと生きていたい、死を越えるものを望む思いは誰にでもあります。インディージョーンズの「最後の聖戦」では聖杯が、ロード・オブ・ザ・リング「王の帰還」では指輪が永遠の命を手に入れるためのお宝になっています。ケン・リュウも後書きで「われわれが死を克服するところを見たい。生はあまりにも貴重な贈り物で、それが終わらねばならないのはただ残念で仕方がない」と、この作品を書いた動機を述べています。

もちろん、キリスト教でいう「永遠の命」とは、寿命が尽きないこと、不老不死を意味するのではありません。では「永遠の命」とは、死んだ後で手に入る命のことを言っているのでしょうか。わたしたちはよく分からないままに「永遠の命」という言葉を使うことが多いのではないでしょうか。

永遠の命という言葉は、新約聖書で40回ほど出てきますが、ヨハネによる福音書では、いちばん多く17回出てきます。たとえば、さきほど紹介したニコデモとの会話の後半には聖書が何を語ろうとしているか、聖書全体を要約する言葉が出てきます。ヨハネによる福音書の3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」イエス様は、永遠の命を与えるために世に来られたと言われるのです。永遠の命を得た者は、一人も滅びることがないと言われるのです。では、そこで言う「永遠の命」とは、どんな命なのでしょうか。肉体は死んでも魂だけは永遠に残る。そういう話をしているのでしょうか。

このところコロナの問題から出来なくなりましたが、一昨年まで、名古屋で説教塾のセミナーが年に2回泊りがけで行われていました。あるとき、講師の加藤常昭先生が、参加者一人一人に「永遠の命とは何か」を順番に語らせたことがありました。そこで印象に残っていることは、参加した牧師が「永遠の命とは何か」、必ずしも明快に答えたわけではなかったということ、その答えを聞いていた加藤先生が、それを責められなかったことです。そんなことでは、御言葉を取り次ぐことはできないではないか、そのようなことは言われず、自分自身も不確かな思いにさせられると言われたことをよく覚えています。

その中で引用されたのが、ヨハネによる福音書17章3節でした。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。父なる神を知り、イエス・キリストを知ることこそが、永遠の命であると、イエス様は言われるのです。

わたしたちは「永遠の命」と聞く時に、死んでもすべてが終わるのではなくて、天にいます神の御もとで生き続けることができるとか、そういうとらえ方をしていることはないでしょうか。それが、永遠の命であり、復活であると。そういう面から検証することは必要なのですが、聖書はそのような語りをしていないのです。では、イエス様はそうおしゃっているのか。ここで使われている「知る」という言葉ですけれども、知識として「知る」ことではありません。「信じる」とも違って、強いて言えば「愛する」と言い変えられる言葉。その人と肉体が一つになるような、深い交わりをもって「知る」。そういう意味の言葉です。もうこの人なしで生きていくことはできない、イエス様なしの人生なんて考えられない、わたしの人生はイエス様のもの。そう生き方を求めるようになれば、もはや死を克服しています。それが永遠の命に生きることだというのです。

宗教改革者カルヴァンは、カテキズムによる信仰教育を重んじました。スイス、ジュネーブ教会の信仰問答を作るとき、問1を「人生の主な目的は何ですか」としました。そう問われれば、色んな答え方が考えられると思いますが、カルヴァンは「神を知ることです」を答えとしました。シンプルな答えですが、ヨハネの17章3節に導かれていることは間違いありません。「人生の主な目的」というのですから、死んでからの話をしているのではありません。今をどのように生きるか、唯一まことの神を知り、神が遣わされたキリストを知ることができれば、この世でどんなに苦しいことがあっても、乗り越えられる試練として受けとめることができる。それは死の恐れさえ克服する。それが生きる目的となる。

誰一人として、楽な人生を生きている人はいません。笑っていても、背後には誰にも言えない重いものを抱えている人がいます。たとえ、そうであっても、どれほど苦しくて辛い人生であっても、神が独り子イエス・キリストを世に与えてくださった。イエスの人生が苦難と死と復活であり、それがわたしのためであると知ったとき、それがわたしの救いのためであると知ったとき、わたしたちの人生は変えられます。神の愛に包み込まれ、新しい命に生き始めます。洗礼を受けることは、永遠の命を生き始める証しです。聖餐を受けるということもそうです。聖餐は、私たちと父なる神そして主イエス・キリストとの交わりを示しています。洗礼を受けた人は、この聖餐を食するようなあり方で、父なる神と、イエス・キリストを知る命が与えられているのです。