聖書 申命記28章1~6節 ルカによる福音書11章27~28節
説教 「主の御声を聞くことの幸い」田口博之牧師
「あなたは人の話を聞いていない」、とか「ちゃんと聞いてますか」と言われたことはないでしょうか。そのように言われたとすれば叱られた気分になりますが、わたしはあります。正直、うわの空で聞いていたなと思うことがあります。あるいは、ちゃんと聞いていても、頼まれていたことをやっていなければ、相手からすれば、それは聞かなかったことと同じであり、「聞いていないでしょ」と言われても仕方ないことになります。
わたしたちは自分の思いを誰かに伝えるとき、必ず言葉で伝えます。その手段は、直接会って話をするのがいちばん確かですが、電話で伝えることがあります。時間がかかっても大切なことは手紙で伝えます。今はメールの時代となっています。直接話ができる距離にいてもメールでというおかしなことにもなっていますが、メールの場合には、反応によって複雑な状況を生んでしまう場合もあります。
アダムを創造した神は「人が独りで生きるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われ、アダムのあばら骨の一部から、女、エバを造られました。孤独に生きるのではなく、向かい合う存在、対話できる存在が必要なことを誰よりもご存知でした。
ユダヤ人の宗教哲学者マルティン・ブーバーという人の「我と汝・対話」という本があります。「対話の哲学」と呼べるブーバーの思想によれば、「我」にとって「汝」は対象という一方的な捉え方ではなく、「我と汝」という関係性で捉えていく、おのずとそこには「対話」が生まれます。ブーバーの考えでは神もまた「汝」です。ブーバーによらずとも、キリスト教信仰とは、いたって対話的だと思います。だから祈りがあり、賛美があります。祈りは独り言ではありません。
聖書を読んでいると「聞く」という言葉がたくさん出てきますが、「読む」という言葉はほとんど出てきません。理由は聖書の時代には、書かれた文字を読むという機会がほとんどなかったからです。わたしたちのように、本になった聖書を手にすることができたのは、近代以降です。聖書の時代、文字を読み書きできる人も、ごく一部の人しかいなかったはずです。ごく一部の人が会堂に巻物としてある聖書の写本を読み、人々は、話された言葉から御言葉を覚えたのです。
わたしたちの場合、聖書に書かれた言葉を実際に読んで知るのですが、これは実際には語られた言葉です。聖書の言葉は常に対話的です。だから聞くというのです。そこには応答性があります。今日はルカによる福音書の短い箇所を読みましたが、ここには福音書を書いたルカの情景を語る言葉があり、群衆の中から一人の女性が発した言葉があり、これに対するイエス様の言葉があります。それらはすべて、今ここにいるわたしたちに語りかけられている言葉です。そのような話をしている説教も一方通行ではありません。
説教もまた、神と説教者との対話の中から生まれていきます。いい説教というのは、神の語りを牧説がよく聞き取れているものでしょう。いい話を聞いたという感想が聞かれたとしても、それが牧師の主観で語られたものであれば、それは神の言葉とは言えず、人の言葉にすぎません。また、どれだけ正確に御言葉が解き明かされたとしても、それが聖書の解説にとどまっていれば、その説教は我と汝の対話になっていないのです。
旧約聖書の律法の書は、神がモーセを通してイスラエルの民に語られた言葉です。律法の中心である十戒は、出エジプト記20章と申命記5章にあります。十戒が語られる最初のところを見ると、出エジプト記の方では「神はこれらすべての言葉を告げられた」で始まっています。申命記では、「モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた」で始まっています。
神は一方的な恵みにより、旧約ではイスラエルという小さな民を選び、契約を結ばれました。律法とは、法律というより契約の言葉です。あなたがたはわたしの民、わたしはあなたがたの神、我と汝の契約が土台となって結ばれています。あなたがたはわたしの救いの民なのだから、この契約の言葉が破られる筈がない、というのが原則となっています。神はこの言葉を守ることを条件に救おうとされるのではなく。あなたは救われたのだから守られるはずだ、といった前提があるのです。
最初に読まれた申命記28章も、この契約が前提になっています。28章1,2節、「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。」「守るならば」、といっても、救われたあなたは喜びと感謝をもって主の御声に聞ける、ということが前提となって、祝福が語られます。
「あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される」。とは、祝福は場所を選ばないことを示します。「あなたの身から生まれる子も土地の実りも、家畜の産むもの、すなわち牛の子や羊の子も祝福され、籠もこね鉢も祝福される」とあります。生を受けるすべて、人間だけでなくすべての生き物が、そして日常的に使われる道具、日常の些細な行為の一つ一つまでもが祝福されるというのです。「あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される」とは、日常の生活のどんなときでも、企てのすべて、初めから終わりまで祝福されるという幸いが語られています。
主の祝福の言葉は。このあと14節まで続きますが、では主の御声に聞けなかったときにはどうなるのでしょうか。申命記 28章 15節「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう。」今度は呪いが語られます。そして19節までには先ほどの祝福と対のように呪いが語られていますが、その後、68節に至るまで、祝福よりもはるかに多く呪いが語られているのです。
神は呪いをかけようとしているのではありません。これらは本来、あり得ないこと、あってはならないものです。ところが、あり得ないことをしてしまうのが罪ある人間です。しかし、神は愛ですから、呪いのままでは終わりません。「わたしの話を聞いていない、あなたたちはダメだ」では終わらず、聞き従えない者を救い出すために、さらに救いをユダヤ人だけでなく世界の民に広げるために、独り子イエスを送ってくださいました、イエスは罪人の贖いとなって、「木にかけられた者は皆呪われている」の御言葉を受けるために十字架に架かって死んでくださり、滅ぶべき者を呪いから解き放ってくださいました。わたしたちが聖書から聞き取ることは、この神の思いです。
ルカによる福音書11章28章で、イエス様は「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と言われました。先ほどの申命記28章と響き合う言葉ですが。この言葉は何を契機に発せられたのでしょうか。
27節に「イエスがこれらのことを話しておられると」とあります。これらのことは、14節以下で、イエスが悪霊を追い出しているところを見た敵対者たちの「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という批判を、権威ある言葉で斥けていくイエス様の語りを受けています。そんな様子を見ていたひとりの女性が、群衆の中から極めて唐突に声を挙げたのです。
「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」この言葉に周りの人々は驚いたでしょう。この女性は、イエスの言葉を聞いて賞賛しているのですが、なぜかイエスの母マリアに思いを向けてマリアの幸いを語っています。不思議な言葉だと思いますが、考えてみると、こうした言葉はわたしたちの間でも聞くことがあるのではないでしょうか。今風に言えば、「こんな立派なお子さんを持ったあなたは幸せね」という感じです。親にとって自分の子どもが賞賛されるのを聞くのは嬉しいものでしょう。
そういえば、ルカによる福音書において、マリアが褒められるのはこれが初めてではありません。それがどこか、アドベントの時期によく読まれるところに出てくると言えば、ピンとくる方がおられるかもしれません。それはイエスをお腹の中に宿したというお告げを天使から受けたマリアが、親類であるエリサベトのもとを尋ねた時のことです。マリアがエリサベトに挨拶すると、エリサベトの胎内の子が踊りました。そのときのことをルカはこう記しています。
「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」ここでエリサベトはマリアを賞賛しマリアの幸いを語っています。これらの言葉は、カトリック教会や東方正教会のようにマリア崇敬につながる根拠となる言葉といえるかもしれません。
今日の聖書テキストにおいて、なぜイエス様の話に感心した女性はマリアをたたえたのでしょうか。マルコによる福音書を読むと、ベルゼブル論争の後に出てくるのは、イエスの母と兄弟たちがこの場に来るシーンです。福音書というのは、十字架の記事もそうですが、複数読むことでその時の情景が立体的に浮かび上がるものです。すると女性は、その場にマリアがいるのを見つけて、そう賞賛したのかもしれません。
しかし、イエス様はそこで、血縁によるつながり以上に幸いなものがあることを語りました。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と言って、血縁によるつながりよりも。霊的、信仰的なつながりを強調したのです。ルカによる福音書では、この場ではなく8章21節で、母と兄弟がイエス様のもとに来たことが語られています。この時イエス様は、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と答えられました。
幸いなのは、肉によるのではなく霊によって、神の家族とされ生きる者にされることです。神の言葉を聞いて行う人、神の言葉を聞き、それを守る人が幸いなのです。また申命記28章2節で「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう」と祝福の言葉が与えられた人です。
マリアの幸いもイエスの母になったからではありません。むしろシメオンが預言したように、イエスの母となったことで「剣で心を刺し貫かれた」のです。胎にイエスを宿したから、乳を飲ませたから幸いだったわけではないのです。マリアの幸いが何かといえば、「お言葉どおりこの身になりますように」と天使を通じて語られた神の言葉を受け入れ、エリサベトのもとに出かけて行ったことにあります。そしてマリアは、エリサベトから祝福の言葉を受けた後で、自身の幸いを賛歌として歌うのです。「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者というでしょう」と。
主の御声を聞くことで、主の思いを聞き取って生きることに人生の幸いがあります。御言葉に聞き従う人、神の国、神の恵みの支配をもたらしたイエス様を受け入れた人は、主の守りの中に置かれます。そこにこそ、まことの幸い、祝福があるのです。