イザヤ書61章1節   コリントの信徒への手紙一12章4~11節
「聖霊の賜物」 田口博之牧師

今日の聖書箇所は「賜物にはいろいろありますが」で始まっています。「賜物」という言葉を聞いて、皆さんはピンとくるでしょうか。少なくとも悪い意味で使われることはありません。日常的には、何かを達成できたときに「苦労の賜物」とか「努力の賜物」と言うことがあります。あるいは、「○○先生のご指導の賜物です」と言って、目上の人に感謝を述べるときなど、良い結果が得られたときに使う言葉となっています。聖書でも良い意味で用いられますが、もっぱら「神から人への贈り物」という意味です。「神の賜物」とか「恵みの賜物」という表現で出てきます。

「賜物にはいろいろありますが」と言われるように、わたしたちは様々な賜物を持っています。わたしたち一人一人の違い、個性は、それぞれが与えられている賜物の違いと言ってよいでしょう。中には生まれたもっての賜物、才能と呼び変えることのできる賜物もあります。豊かな賜物を持ち合わせている人もいます。しかしながら、わたしには賜物なんて何もないという人は誰もいないのです。

いい笑顔をされる方、それだけで素晴らしい賜物です。優しい方もそうです。わたしは口下手だからと言われる人も、話をしない分、聞き上手です。周りをよく観察して、物事を冷静に考えることができます。それはとても豊かな賜物です。得意なことがたくさんあったとしても、それを隠していたり、良いことに生かすことがなければ、それは賜物とは呼べません。

自分ではよく分かりませんが、わたしは声がいいと言われます。昨日、一昨日と、日本キリスト教社会福祉学会が開催され、開会礼拝で司式をしました。済んでからある方に、これは賜物ですねと、言われました。声自体は大きくありませんが、マイク乗りもよいせいか、耳が遠くなった方でも聞こえやすいようなのです。

これは牧師としては長所になると思っていました。ところが初めて説教塾に参加した時。加藤常昭先生から言われた言葉は忘れることができません。「君は声がいいので注意した方がいい」と言われたのです。それは、説教を聞く人が心地よくなってしまって、気が付いたらみんな眠っていることになりからと言われたのです。それは心当たりもあることでしたので、あまり聞き心地のいい説教にならないように、そのためにどうすべきかを問うようになりました。

キリスト教、聖書で語られている賜物は、「神から人への贈り物」だと言いました。神様はわたしたち一人一人を大切に思っておられます。大切な人にプレゼントをするのに、その人が気に入らないものを渡す人がいるでしょうか。その人にこれが与えられたらよいことになる、そういう賜物が一人一人に与えられています。

聖書には、恵みという言葉が何度か出てきますが、新約聖書が書かれた元々のギリシャ語では「カリス」です。カリスと関連する言葉に「カリスマ」があり、カリスマが日本語では賜物と訳されたのです。英語の聖書ではギフトと訳されています。

かつて、カリスマ〇〇とか、○○のカリスマという言葉が流行ったことがありましたが、それは本来のカリスマとは明らかに違うように思うのです。わたしがカリスマという言葉を最初に意識したのは、尾崎豊というミュージシャンでした。「若者のカリスマ」とか「反抗のカリスマ」と呼ばれました、私よりも五つ位若かったと思いますが、独特のオーラがあったと思います。彼が10代のデビュー時のアルバムに「僕が僕であるために」という曲がありました。「僕が僕であるために勝ち続けなければならない」という歌詞が出てきます。この言葉に尾崎のカリスマ性が表れていると言われました。しかし、勝ち続けることが恵みの賜物と言えるでしょうか。負けない人生などあるはずがありませんし、勝ち続けられなくなった時のことを考え始めたら、恐ろしくて仕方がないのではないでしょうか。「僕が僕であるために勝ち続けなければならない」とは、危険な言葉だと思いました。

言葉の話をもう少しすると、2節に「偶像」という言葉が出てきました。かつての偶像崇拝が語られているところですが、偶像は英語ではアイドルです。アイドルは独自の才能を持っていることから一部の人に崇拝されます。実はコリント教会のカリスマ論は、偶像論から発生したのです。コリントの人々は賜物を競い合いました。それはわれこそがアイドルになる、偶像として拝まれることを目指すものでもありました。それはとても愚かなことです。だからパウロは、「イエスは主である」という正しい告白に導くものが聖霊なのだと語ったのです。

つまり賜物は、偶像ではなく、聖霊から発せられるのです。そのことを受けて、4節に「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」と言うのです。ここでの霊とは聖霊のことです。同じ一つの霊から、一人一人に様々な賜物が与えられていのであり、それを競い合うのでなく認め合う必要を述べています。

そして、パウロは「賜物」のことを、「務め」や「働き」という言葉で言い換えていきます。それは、賜物を誇示することよりも、与えられた賜物を用いて、仕えることの重要性を伝えたかったからです。4節から6節をもう一度読んでみます。
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」

教会に集う一人一人には、いろいろな霊の賜物が与えられています。このことは、教会にいろいろな務めが与えられていること、いろいろな務めが与えられていることからも分かります。牧師、長老執事、CSスタッフ、各委員会、係や担当といった様々な務めがあります。礼拝の中でも、司式、奏楽、受付、献金、様々な奉仕があります。これらの務め、働き、奉仕は、それぞれが自分の思いで、バラバラにしているわけではありません。全体を通して統一されています。それは同じ主から、同じ神から出ているからです。

「務め」という言葉は、元々の言葉ではディアコニア、「奉仕」とも訳されます。仕えることです。これらの務めは、賜物と同じくすべて与えられるものです。牧師や長老の務めに就きたいと思ったとしても、自分で立候補して出来ることではなく、選ばれて初めてできることです。人が選ぶとしても、そこに主の御心があらわされていると信じるときに、初めてその務めに就くことができます。

6節の「働き」という言葉ですが、これは原文のギリシャ語では「エネルゲイア」。この言葉から「エネルギー」という言葉が生まれました。力を持った働きです。ではその力は自分の内から溢れ出てくるのかといえば、そうではありません。「働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」とあるように神の力です。自分が働くといっても、その働きは神が担ってくださっているのです。であれば、自ずと謙虚になります。一人一人が与えられている役割は神から託されたものと捉えて仕えることで、その働きが全体の益となる。主の体なる教会のためになるというのです

8節以下を読んでみます。
「ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」

ここを見ていくと、8節に「同じ“霊”」、9節には「同じ“霊”」と、「この唯一の“霊”」、また11節で「同じ唯一の“霊”」という言葉が出てきます。パウロは一人一人に与えられている賜物は違っても、同じ“霊”から出ているので、バラバラなものにならず、全体の益となるためです、と語るのです。このように言うということは、コリント教会の信徒一人一人を通して発揮されている霊の賜物が、全体の益になっていなかった。むしろ賜物を競い合うことで、教会はバラバラになり、かえって不利益がもたらされていたことを意味します。

では、コリントの教会で具体的に挙げられている霊の賜物は何だったのでしょう。8節から順に読んでいくと、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、種々の異言を語る力、異言を解釈する力が出てきます。但し、ここに挙げられている言葉は、わたしたちにとってピンと来ないものが多いような気がします。特に後半部分の異言を語る力、異言を解釈する力と言われても、よく分からない。これは宗教的エクスタシーにおいて語られる言葉で、異言を語る本人は霊に導かれて語っていたとしても、それを聞く人は何を言っているのか分からないのです。だから困るということで、語られた異言を通訳したり解釈したりする人も表れたのです。

名古屋朝祷会という集会があります。1960年から3月に始まった超教派での集会です。日本基督教団の信徒が中心となって、毎週月曜日の朝、今は7時半から行われています。ここでの祈りから十字ヶ丘復活苑が生まれました。わたしは1年に一度だけ奨励を頼まれたときに行っていますが、10年以上前のことですが、異言で祈られる人が参加されていました。というか、これが異言なんだろうと聞いて思いました。霊に導かれてそのまま祈っているのだと思いました。次に参加したときもその方がお見えでした。このときにも異言で祈られました。ところが、祈ったあとで、その異言の意味を通訳するように語るのです。異言と通訳を何度も繰り返しながら祈られます。翌年その方はおられませんでした。お尋ねすると、朝祷会の世話をされるなさる方が、「あなたのその祈りは、この集会に相応しくないから、来ないでほしい」と言われたそうなのです。そう言われたことがどうなのかなと思いつつ、主催者としては苦渋の決断であったのだろうと思いました。教会の聖研祈祷会にその方が参加されたらどうしたのかを今も考えさせられています。

9節後半と10節に、「ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力」と書かれてあります。いやしと奇跡については分からないというよりも、その力が目に見えるものなので分かりやすいと言えるかもしれません。イエス様も多くの病人をいやしたり、悪霊を退けられたりしました。また嵐を静めたり、五つのパンで5千人の人々を満腹させたりするなど、たくさんの奇跡をされました。使徒たちも行いました。

しかし、今日の教会ではあまり見ることがありません。それは教会に霊的な力がなくなったということなのでしょうか。そうではなく、そこに重きを置かなくなったと言っていいのです。教会史を見ても、キリスト教が国教化され、教会が制度として整えられるにつれて強調されなくなりました。近代でも教会は、教育や医療や福祉について先駆的な働きをしましたが、次第に国家や社会、専門分野で担うようになっていきました。

それでも、いやしや奇跡を宣教の働きとして強調する教会もあります。異言を語ることが尊ばれる教会もあります。20世紀にアメリカで生まれたペンテコステ運動によって広がったペンテコステ派、カリスマ派と呼ばれる教会がそうです。そこには聖霊の息吹に満ちた初代教会に帰ろうという祈りがあるのかもしれません。ワーシップソングなど新しい歌も歌われています。それら教会について外からあれこれ言うことはできませんが、教会の指導者が教祖化する危険性が、カルト化する恐れをはらんでいる気がしています。カリスマ牧師が生まれかねない。聖霊の賜物が健全に表される言葉は、何といっても「イエスは主である」です。このことを感情的でなく、秩序正しく伝えていく知恵の言葉、知識の言葉、そして信仰の賜物が求められていくようになりました。

そもそも、今日のテキストに挙げられている霊の賜物は、コリント教会の特質と問題性が挙げられているのであって、これを手本とする必要はないのです。パウロはローマの信徒への手紙12章3節以下でも聖霊の賜物について語っています(291p)。6節以下を読んでみます。
「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」

気づかれたと思いますが、ここには奇跡、いやし、異言、異言の解釈などは出てきません。預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善という七つの賜物が挙げられています。代々の教会はこれを手本としてきました。そして、わたしは、ここまでのことをしていると誇るのでなく、それぞれが与えられている信仰の度合いに応じて、慎み深く受け止めていくことが求められているのです。信仰に入って間もない人に、牧師が語るように語れと言っても無理なことですし、オルガニストのように奏楽しなさいと言っても無理なことです。

神は一人一人に、その人に応じた賜物を与えてくださっています。これを与えてくださった神様のために用いていくとき、教会は神に喜んでいただける教会として整えられていくのです。