出エジプト記8章12~15節 ルカによる福音書11章14~26節
説教 「神の指」 田口博之牧師
聖書を読むといくつかの奇跡物語が出てきます。聖書からよい教えを学びたいと思う人にとっては、奇跡物語というのは、余計な話しとして受け取られるかもしれません。
ひとつ踏まえておきたいことは、新約聖書が書かれた時代、聖書の舞台となった世界において、いやしの奇跡、悪霊追放と思われる出来事が、しばしば起こっていたということです。当時から、病気を治療する医者は存在していました。旧約聖書、創世記にすでに医者は登場しています。彼らは医師免許をもっていたわけでも、科学的な治療法があったわけでもないでしょうが、人の体のしくみに詳しい職業としての医師は存在していました。12年間、出血が止まらなかった女性は、多くの医者にかかり全財産を使い果たしたあげく、イエス様にすがりました。
ですから、奇跡物語がたくさん語られていること自体、不思議なことでも何でもありません。悪霊追放と言われても、皆さんの中にはピンと来ない方がおられると思います。目に見える肉体的な疾患ではなく、精神疾患に関わることは病気とみなすことが難しく、悪霊の仕業ととらえられた。そんな考え方はしやすいかもしれませんが、そう簡単に言えることではないように思います。
教会宛ての電話やメールで、「自分はたくさんの悪霊にとりつかれているから、助けてください」そんな相談を受けることもあります。相談というかお願いされることがあります。「あなたは、どうして悪霊にとりつかれていることが分かるの」という返し方をすることもありますが、そのような表現でしか言い表せないほど苦しんでいる人もいらっしゃいます。そういう方一人と関わることは大変なことであって、聖霊の助けを祈るほかありません。
確かに、悪霊という言い方は宗教的な表現です。日本基督教団の牧師からはあまり聞きませんが、神を神としない生き方をしてきた、まことの神でなく偶像なるものを信じてきた人の目を開かせることを、悪霊追放のミッションである。そんな表現をされる方もいます。
ルカによる福音書11章14節から26節を読みました。ここに記されていることは、悪霊追放の奇跡物語そのものではありません。イエス様に批判的な人たちが、イエス様が悪霊を追い出している様子をどのように見ていたのか。その見方に対してイエス様がどう答えられたのかが述べられています。ここでのイエス様の答えは、わたしたちが聖書の奇跡物語をどう理解すればよいのか正しい見方を教えてくれる、そんなテキストになっています。
ここを読んで、わたしたちがまず踏まえておかねばならないことは、イエス様に敵対する者たちも悪霊追放をしていることは認めているということです。奇跡の有無は問題にされていないのです。このことは、わたしたちが聖書を読むうえで前提とすべきことです。
聖書を読むうえで前提になることは他にもあります。たとえば、創世記は「初めに、神は天地を創造された。」で始まります。これは、神は存在するという前提のもとに聖書は書かれていることを示しています。ですから、神の存在を確かめるために聖書を読んでも意味のないことであって、聖書は天地を創造された大いなる神が、わたしたちにどうあるべきかを語りかけている。そんな書物だということです。
大きな試練に立たされたとき、「神さまなぜですか」と問う。それも大事なことかもしれませんが、それ以上に、全能の神からどうすべきかが問われている。聖書は、わたしたちがどう生きるか、そのヒントや答えになるものがたくさん書かれてあります。
さて、ここでイエス様に敵対する人たちは、イエスが見事なまでに悪霊を追放する力を持っていることを認めています。問題は、その力の源がどこにあるかを理解していないということです。二通りの反応がありました。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う批判。もう一つは「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」ということです。後者の「天からのしるしを求める者」に対するイエス様の答えは、主には29節以下に記されています。今日の話は前者「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言った人々に対して、イエス様がどう答えられたかが中心になります。
皆さんの中にゲーム好きな方はおられないように思いますが、好きな方が家族にいらしたら、「今日の説教にベルゼブルが出てきた」と家で話すと、おそらく反応されると思います。わたしはすることがありませんが、ドラクエなどの対戦系のゲームで「ベルゼブル」という名の悪のキャラクターとして出ることがあるようです。「ベルゼブル」は、一説には「蠅の王」という意味があり、頭はハエをかたどっているようです。その力はかなり強大で、「サタンの親分」と考えていただいて構いません。「ベルゼブブ」とか「バアルゼブブ」という名で出てくるものもあると聞きました。
いくら力の強いことを認めても、「ベルゼブル」だの「サタンの親玉」とは、ずいぶん酷い言い方だと思います。ところが、イエス様は冷静に反論されます。17節以下「しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。『内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか』」。
「内輪での争い」からヤクザの内部抗争を思い浮かべてもよいかもしれません。思い浮かべることができれば逆に怖いので、想像してみるくらいでよいですが、それは「仁義なき闘い」となる。一度抗争が勃発すれば簡単には治まらず、どんどんひどいことになっていくことは想像できるでしょう。
やられた側は、一度おとなしくしたとしても、そのままでは済みません。策を練っています。26節にあるように「そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」そんなことも起こりかねません。ベルゼブルの力では、ひどくなるばかりだということです。
ではイエス様の力はどこから来ているのか。20節で「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われました。敵対者にとっては、悪魔の親分の仕業と見えたことも、それは、「神の国が来ていることのしるし」だというのです。そのように言うことで、16節にあるもう一つの批判、「イエスを試そうとして天からのしるしを求める者」への批判も退けています。
「神の指」とは、「神の御業」ということです。詩編8編の詩人は、夜の天体を見上げて「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは」と、詠いました。月も星も、神がキャンパスに描くようにして自由に配置されたものと、天地創造の神の御業をイメージ豊かに賛美しています。
また、今日もう一箇所朗読された出エジプト記8章12節以下、ここは神がイスラエルの民をエジプトから脱出させるために下した十の災いのうちの第三の災いが記されてあるところです。この十の災いには一貫したストーリーがありまあす。それはこれらの災いを下したのは神であり、対抗するエジプトの魔術師たちの敗北が決定的となるのですが、この第三の災いが大きな転機となっているのです。
つまり、第一の血の災いでは、主がモーセに命じてアロンが杖で水を打つと、ナイル川が血に染まり、川の魚が死に悪臭を放ったのですが、エジプトの魔術師も秘術を用いて同じができたのです。第二の蛙の災いにおいても同様です。主がモーセに命じアロンが水の上に手を伸ばすと蛙が這い上がってエジプトの国を覆いますが、魔術師も同じことができました。
ところが、この第三のぶよの災いで、主がモーセに命じてアロンが杖で土の塵を打つと、土の塵はすべてぶよとなり、エジプトの人と家畜を襲います。魔術師が秘術を用いて同じようにぶよを出そうとしますが、今度はできなかったのです。このとき魔術師はモーセとアロンのしていることは、人間わざではないことを認めるしかなく、ファラオに、「これは神の指の働きでございます」と語ったのです。しかし、ファラオはそれを認めず、さらに心をかたくなにします。これが神の指の働きかどうかを、ファラオが認めるかどうかが繰り返される災いの中心テーマとなり、最後に過越の災いにいたり、出エジプトの出来事に至るのです。
このファラオのかたくなさは、ファラオだけの問題ではありません。また、イエス様がなされる奇跡を神の業と認めず、ベルゼブルの仕業だと批判した敵対者だけの問題でもありません。時に奇跡を余計な話しとしてしまうわたしたちの問題なのです。今日の聖書箇所は、わたしたちが、聖書の奇跡物語から何を読み取るかが問われているのです
イエス様は「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われました。この言葉は、聴き手に選択肢を与えていると思います。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば」と、そう聴き手に考えさせる余地を与えているのです。
あるカトリックの神父の本を読んでいて、イタリア人が日常的に「マガーリ」という言葉を使うと書かれてありました。皆さんは聞かれたことがあるでしょうか。そういえば、サッカー選手のインタビューなどでも聞いた気がすると思って読んでいたのですが、「マガーリ」という言葉は、「そんなことはありそうもないことだけれど、そうであればいいのに」そんなニュアンスで使われる言葉のようです。たとえば、「今度の休みの日に会える」と聞いて、「マガーリ」という答えが返ってくることがある。それはOKの返事ではありません。「会いたいけれど、難しいな」そんな意味が込められています。ネイティブだからこそ、使える言葉なのかもしれません。
イエス様はここで選択の余地を与えていると言いました。ベルゼブルの力だと誹謗する敵対者に向って、いやそうではなく「神の指」の力によるのだ、そう説得させようとはしていない。それは聴き手の心に、マガーリであることを求めている。この奇跡が、神の指の業だと信じることができるならば、「神の国はあなたたちのところに来ている」そう言われるのです。「これが神の業だったらいいのにな」と思えるのであれば、あなたはもう神の国の住人なんだ。そんな祝福の招きがあります。
聖書にはイエス様が、目の見えない人を見えるようにした。歩けなかった人を起き上がらせた。するとその人は躍り上がって神を賛美した。そのような事例がたくさんあります。書かれてあることに対して、そんなことは信じられないと言っても仕方ないのです。聖書は事実起こった出来事を記録しています。聖書を通して、そんな奇跡に触れたときに、これがありそうもないことだけど、他のなにものでもなく、神の指の力だったらどれほど素晴らしいだろうか。そう思えるのであれば、それが希望となり、生きる力になるというのです。
信仰とは、「マガーリ」から出発します。「マガーリ」の心は前を向かせます。ベルゼブルの力だと言っているうちは、ゲームのように一時の勝利にとどまってしまいます。もっと強い相手が来ると、持っていたアイテムごとすべて奪われてしまう。
21節「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」とは、そういうことを言っているのではないでしょうか。
信仰とは、信じる世界です。聖書に奇跡物語がふんだんに出てくるのは、わたしたちへのチャレンジです。あなたはこのことを信じるかと、気持ちが楽になるよと、わたしたちを招いているのです。」
そして、そうだったらいいのにな「マガーリ」から、たしかにそのとおりです「アーメン」との告白にいたるとき、その人は救いへと導かれています。神の国はあなたのところに来ているのです。