マタイによる福音書20章25~28節
「生き方の転換」 田口博之牧師

教会の掲示板に貼られた今日の墨書に、ペンテコステ礼拝として説教題が書かれてありました。次週の墨書もやはりペンテコステ礼拝と書かれてあります。これを見た人で「間違っている」と思う人はいるだろうと思いますので、そこは丁寧に答えなければなりません。6月の名古屋教会は「ペンテコステ伝道月間」と位置付けています。6月5日にペンテコステ礼拝だけでなく、先週のペンテコステ花の日家族感謝礼拝をささげました。そして今日は紀暁恵兄の証があり、次週は鈴村惠姉の証があります。

使徒言行録は、ペンテコステの日、一同が一つになって集まっていたところに「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と書かれてあります。これは聖霊を受けた使徒たちが御言葉を語る者になったということです。ペンテコステは「あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」とのヨエルの預言が成就する時です。聖霊が注がれたなら、誰でも御言葉を語るようになる。主を証することができる。

紀さんも今日のためによく準備をしてくださいました。先週の初めに原稿を送ってこられ、アドバイスを求められたので指摘させていだたくと、昨日内容を大きく変えたものを送って来られました。大変だっただろうと思いますし、謙虚な方だなとあらためて思いました。今日もほんとうは、もっと伝えたいことがあったのです。今日は時間的な制限があるので、原稿量をぐっと減らしてくださいましたが、元の原稿もプリントして分かち合うことができればよいと思いました。あるいは壮年会などで、原稿には文化大革命のお話もありましたし、盛り上がるかもしれません。わたしの両親は大連で出会いました。母親は大連の女学校から満州鉄道に勤め終戦を迎えました。わたしも、かつての仕事で北京の会社と取引があって、何度か出張したのは天安門事件が起こる前後の数年間でした。紀さんの証の原稿を読みながら、その頃のことを思い出していました。

今年60歳になられる紀さんが、30歳になって日本に来られたということですので、生涯の半分が日本での生活になったわけです。わたしが名古屋教会の牧師として着任したとき、今小学校6年の佳成くんは幼稚園の年長さんでした。目がキラキラした何と可愛らしい子という印象があります。小学校1年の時はずっと中国で過ごされ、2年生になると同時に来た時には、日本語も忘れていてしまっていたので、もういちど1年生からではどうなのかと話したこともありました。そんな佳成くんも今は受験生です。教会の子どもとして成長することを祈っています。

紀さんとの交わりの中で、豊富な知識もそうですけれども、謙遜な姿勢は、様々な人生経験と共に聖書から影響を受けてのことだということを、証を聞きながら確かめることができました。その人生の指針に選ばれた御言葉あり、さらにはマタイによる福音書20章25節以下があると思いました。

ここでイエス様は、一同を呼び寄せて言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と。

イエス様は、偉い人が人々の上に立って権力を振るい、民を支配するというこの世の現実とは正反対の、人々に仕えるという神の国の秩序を教えられています。イエス様の弟子たちの中にも、人の上に立ちたい、偉くなりたいという思いがありました。でも、「あなたがたの間では、そうであってはならない」とイエス様は言われるのです。神の国とは、神の支配だと言われます。王的な神の支配いきわたった領域です。神の国での支配者は神のみです。その神は力ではなく、愛によって支配されるのです。

その愛の支配の極みが、イエス様の十字架に現れています。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」のです。この十字架の愛に応えて生きていくのがキリスト者です。紀さんの証の結びにあったように、身も魂も尽くして神を愛し、隣人愛を徹底して生きるようになります。その具体的な証が、皆に仕える者になり、すべての人の僕になる生き方です。

ここで誤解してならないことは、イエス様は、偉くなるための手段として、皆に仕え、すべての人の僕にならねばならないと、命じているのではないということです。「偉くなりたい」という弟子たちの願い自体を否定しているわけではないのです。この世には、人の上に立つという役割もあるのです。そうでないと社会は成り立っていきません。そのときに上に立つ者は、仕える者になりなさいと言われているのです。弟子たちは、こうした視点を持たないままで、上に立つことを求めてしまっていたのです。この御言葉が語られた前後を読むと、イエス様が三度目の受難予告をされて、エルサレムで何が起こるのかを語られていたこと。これから間もなくしてエルサレムに入城されたことが分かります。

ところが、ゼベタイの子たちの母が、「王座にお着きになるとき、この二人の息子」をと願い、他の弟子たちが、抜け駆けはゆるさんという思いで腹を立てたように、イエス様が何のためにエルサレムに行かれるのかを、誰も理解していなかったのです。このズレを心に留めておきたいと思います。わたしたち、キリスト者であるならば、キリストの弟子として従っている者ですけれども、イエス様がどういうお方であるのかをどこまで理解しているのでしょうか。

神の国には、偉くなるとか、一番上になるということ自体ありません。でも、この世にはあります。そうであるならば、ほんとうに偉いということ、人の上に立つということはどういうことなのかを、わたしたちは考えねばなりません。そんなことは、自分には関係ないこととするのも間違いです。国政選挙が近づいていますが、わたしたちがどういう指導者を選ぶべきなのか。この御言葉に触れたわたしたちだからこそ、選挙に出かける責任もあります。選ばれた政治家のために、とりなしを祈ることもわたしたちの務めです。

平和を祈り求める教会として、ウクライナのことに思いを馳せるときに、ロシアの指導者のためにも祈るのです。上に立つ者の責任として、イエス様の御言葉に聴き従う者となりますように。皆に仕える者となり、皆の僕になることができますように。神の身分でありながら、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ、十字架の死に至るまで従順であったイエス・キリストに倣う歩みを成すことができますように。主のみ名によって祈ります。