2023.6.18 コリントの信徒への手紙一12章1~3節
「イエスは主なり」 田口博之牧師
ペンテコステ伝道月間の最終週に与えられた聖書は、コリントの信徒への手紙一12章1~3節。中心聖句は、3節後半の「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」という言葉です。キリスト教信仰の確信とも呼べる言葉です。
パウロは1節「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」と語り始めています。「霊的」という言葉を聞くと、超自然的な力とか、そんなイメージを持つかもしれませんが、そういうことではありません。ここで語られている「霊的」とは「聖霊」のことです。ですから「霊的な賜物」とは「聖霊の賜物」ということです。そう言われても、まだピンと来ないかもしれません。「賜物」、原語ではカリスマですが、神より賜った恵みの贈り物というという意味です。しかし「聖霊についてよく分からない」と思われる方は少なくないからです。
聖霊は霊ですので、目に見ることができません。目に見ることができないのは、神様もイエス様も同じです。旧約では「神を見ると死んでしまう」と言われており、御顔を向けてくださることを求めつつ、直接神の顔を見た人はいないのです。イエス様は人として生きられましたが、直接見た人は、2千年前のごく一部のユダヤ人です。しかし、どことなくイメージはですることはでき、イエス様を描いた絵画もたくさんあります。たいていの絵では、髪の毛は肩まで伸びていて、ひげを蓄えて、顔は面長で凛々しく、優しい目をされている。頭の禿げたイエス様、太ったイエス様を想像する人は誰もいない。こういうお姿であって欲しいという理想が投影されているのかもしれません。
ところが聖霊については絵に描くことができない。イメージしにくいです。それでも、ペンテコステの日、集まっていた弟子たちのもとに聖霊が注がれて、イエスを主と信じ、宣べ伝える群れ、教会が誕生したことは知っているはずです。ほんとうは、それさえ分かれが十分だと思うのです。
山北先生は「インマヌエル・アーメン」と語られました。目には見えないけれどもイエス様が共にいてくださると信じることができるのは、聖霊の賜物以外の何物でもありません。パウロは同じ第一コリント6章19節で、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり」と言っています。目に見えないのは聖霊がわたしたちのうちに宿っているからともいえるのです。「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と言われます。自分自身のものでないとは、神のものとされているということです。だから「自分の体で神の栄光を現す」のです。
父、子、聖霊なる三位一体の神と言います。それは三つの神がいるのではなくて、三つにいまして一人の神ということです。祈るときに、父なる神と呼びかけ、イエスの名によって祈ります。それはイエス様が「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」との言葉によるのであって、「聖霊なる神さま」に向かって祈ったとしても、全く間違いではありません。わたしたちが今、ここに座っているのも、今日は礼拝に出ようと決めたことですが、そのようにわたしたちの心を向かせたのは聖霊の賜物なのです。
コリントの教会の信徒たちの中に、聖霊がよく分からないという人はいなかったでしょう。信徒の皆が霊に燃えていたのです。それはとても結構なことのように思いますが、熱いからこそ、競い合い、裁き合うことまで起こっていました。それはコリントという土壌がそうさせたともいえます。コリントの信徒たちは、もともとはギリシャの神々を信じていました。2節「あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう」とは、そのことを表わしています。
古代ギリシャ宗教は多神教でした。預言者も経典も教会もありません。個々人が神々の像の前で、恍惚状態になって踊ったりして直接、神託を受ける。そういう信仰だったのです。パウロはコリントに行ったとき、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることに集中し、教会が建てられました。しかし、これまで多くの神々と直接向き合ってきたコリントの信仰的気質は教会にも入り込んだのです。憑依現象というものは、古来よりどこでも見られました。神に憑かれたような状態になっている人は霊的な人と見られました。キリスト教信仰は、そのようなものは認めていませんが、霊的恍惚状態に陥る中で、「イエスは神から見捨てられよ」などと口走る人がいても不思議ではなかったと思うのです。そんな状況の中で、本人にしか分からない異言や、本人にしか分からないはずの異言を解釈する人もたくさん表れて、教会の中が混沌としてきたのです。パウロはそんなコリント教会の秩序を持つために、力を込めて「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と告げたのです。
「イエスは主である」、「イエスは主なり」。誰にでも分かる、シンプルなこの言葉にこそ信仰の真髄があります。これこそが信仰の言葉。聖霊による言葉だとパウロは言うのです。イエス様を誰と言うか。ペトロは弟子たちを代表して「あなたこそメシアです」と告白しました。これは人間の思いから出た言葉ではなく聖霊による言葉です。ところが、イエス様がご自分の死と苦難を予告すると、ペトロは「そんなこと言ってはなりません」とイエスを諫めます。これは常識的な言葉です。ところがイエス様は、「サタンよ引き下がれ」とペトロを一喝しました。サタンとは悪霊の親玉です。信仰深い人ほど、サタンの標的になります。
最後の晩餐の後、イエス様がペトロの離反を予告したとき、ペトロは力を込めて否定しました。「死んでもあなたに従います」と。しかし、イエス様が捕らえられたとき、ペトロは自分可愛さから、呪いの言葉さえ口にして「知らない」と三度否認しました。先ほどの「イエスは神から見捨てられよ」という言葉ですが、新しい共同訳聖書では「イエスは呪われよ」となっています。わたしたちの信仰はそれほど脆いです。イエス様は、そんなわたしたちの弱さを知っているからこそ、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈るように教えられました。
「イエスは主なり」と告白するということは、自分が主ではなく、主に仕えて生きるということです。自分中心に生きようとするのがわたしたちです。それは自分を主としていること、神になろうとしていることに他なりません。アダムとエバが「神のようになれる」とサタンに唆されてその気になったように、自分を主とするときに罪が芽生えます。「何とかは死ななきゃ治らない」と言われますが、そんなわたしたちのすべて罪を背負ってイエス様は十字架に死んでくださいました。イエス様の十字架を信じる者が救われるという言葉は、ユダヤ人には躓きであり、異邦人には愚かでしかありません。しかし、そこに救いがあります。これは理屈ではなく、信じるしかないことです。このことを信じるように導かれるのが聖霊なる神様です。
「イエスは主である」。とてもシンプルなこの言葉を教会は大切にしてきました。パウロはローマの信徒への手紙10章9節で、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」と言いました。また、フィリピの信徒への手紙2章、キリスト賛歌を引用した後で、11節「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」と勧めました。2000年前、ペンテコステの日に誕生した教会は、「イエスは主なり」と告白する共同体として歩んできましたし、これからも歩んで行きます。聖霊なる神の導きの中で。