ペンテコステ花の日家族感謝礼拝
「花の日」というのは、聞き慣れない方が多いかもしれません。「19世紀、アメリカのメソジスト教会の牧師が、子どもの宗教教育のために特別な礼拝を行ったことをきっかけに始まりました。その後、6月第2日曜日に、子どもたちが神さまに感謝の気持ちを表すのにふさわしいものとして、教会堂に花を飾ったことから、6月第2日曜日を「花の日」、あるいは「花の日・子どもの日」と呼ぶようになりました。
さて、今日のお話は石原先生のお話で十分だった気もしますが、残られている親御さんもいますので、今日は子育てのお話をしたいと思います。最近、あるカウンセラーの本を読んでいると、あることをきっかけに、母親の子育てが一変した出来事を紹介していました。作者であるカウンセラーが、友人の家を訪ねていた時のことです。友人の夫も一緒に三人での食事が済んだ後で、友人(妻のほう)が、ちょっと片付け物があるからと席を立ったとのこと。夫の方にも電話がかかってきて席を外したので、友人の片付けのお手伝いをしようと立ち上がった。すると14歳の息子の部屋からガサゴソ音が聞こえてくる。彼女が散らかった息子の部屋を片付けているのです。
「何をしているのか」と声をかけると、「見ればわかるでしょ、息子の部屋を片付けているの、どうしてそんな顔をするの」という答えが返ってきたらしい。作者はためらいがちに「息子さんの将来の奥さんが気の毒」とボソッと口にしました。友人はその言葉を聞くと固まり、部屋を出ていくと、立ちすくんでいる。しばらくすると彼女は「そんなふうに考えたことは一度もなかったわ」と答えたというのです。
おそらく、その彼女は世話好きだったのです。部屋がきれいになって息子のためにもなると思い片付けるという行為は、彼女にとって自然なことでした。放任主義の親なら、部屋がちらかっていたってほっておくでしょう。厳格な親であれば、子どもを叱って片付けさせることをしたでしょう。
子育てには介入が必要です。問題はどう介入するのかです。手を貸すのか、何もしないのか、厳しくするのか。皆さんはどういうタイプでしょうか。問題は、それらの介入を子育てと意識しているのかということなのです。実はそうではなくて、先ほど紹介した女性にしても、単にキレイ好きという性格からしてだけなのかもしれません。親から受け継いだやり方をそのまましている。でも、それが介入になっているのです。
今の話は、「子どもの将来は今にある」という章立てで書かれてありました。彼女は「息子さんの将来の奥さんが気の毒」と言われたことで、自分が愛情表現のつもりでしていることが、子どもの将来のマイナスとなる子育てをしていたことに気づいたのです。そして、それ以降は子どもの将来に寄与する子育てをするようになったというのです。
ここには子育て真っ最中の方も、過去にそうだった方もいらっしゃいますが、どこまで子どもの将来のことを考えたでしょうか。子どもを塾に通わせたり、習い事をさせるということも、確かに子どもの将来のことを考えてと言えるかもしれません。いい学校に行かせて、いいところに就職させたいという思いがある。そこで問題になるのは、そのようにしたい目的は何なのかということです。仮にいいところに就職できたとして、それがゴールではありません。たいへんなのは、むしろそこからです。エリートと思われた人が、詐欺事件に手を染めることだってあるのです。
じゃあ、大人になってから先は、本人次第ということでいいのでしょうか。特に大人になってから問われてくるのは、その人の人間力です。それは、親がどうこうできることではありません。人間力と言ったのは、責任を人に押し付けない、最後までやり通す力を持つ。人との接し方、思いやり、問題解決能力などです。それらは、塾とかで勉強して得られることではありません。でも、そういうことを見越した子育てはあるのではないでしょうか。
いや、そんなこと言われても、今のことが必死で、先のことを考える余裕などないというのが、正直なところかもしれません。けれども、将来こういう子になってほしい、そう思うだけで、子どもとの接し方は変わってくるはずです。それは必ず、子どもにも伝わるのです。
今日は、子どもも大人も大勢集いましたが、内容も盛りだくさんとなりました。礼拝が始まる前にロビーにガチャガチャがあり、幼稚園の子やCSの子がしていましたが、今は学童の子たちが盛り上がっているでしょう。昨日、ここにも置いてあるフラワーポットづくりをしましたが、これを100円で売ってあしなが育英会に寄付しようとしています。100円で売るといっても、花だけで税抜き98円とのことでしたので、CSはもうけるわけではないのです。でも、売った代金を寄付することで、親が死んでしまって学校に通うのに労苦している友だちの役に立つのであれば、CSの子たちは嬉しいと思います。寄付することの尊さを教えるということは、家庭ではなかなかできないことではないでしょうか。
また、ロビーでは、さふらん会のクッキーの産直販売をしています。さふらん会というのは、名古屋教会の祈りから生まれた知的障碍者の施設です。CSに通っていた子どもが、中学校を卒業してからのことを祈りはじめた教会の有志の人がいて、最初は二人だけの施設で始まりました。その後4年目には、定員30人のさふらん生活園という授産施設を建てると同時に、社会福祉法人さふらん会ができ、それから35年が経ちました。今はパートを含めると120人以上が働く社会福祉事業所となっています。
今、さふらん会が抱えている課題の一つは高齢化対策です。35年以上経ちましたので、入ってきたときに中学卒業した子どもらも、今は50歳を過ぎています。亡くなられる親御さんも増えてきました。先日もあるお母さんと話をする機会がありましたが、どれだけ年を取っても、子育て奮闘中というばかりに、子どもへの心配が尽きない様子でした。また、ずっと息子さんの将来を心配されていたお父さんが、4月に亡くなられました。お父様の死をきっかけに、息子さんはホームに入られることになりましたが、これで7つのホームすべてが満室になってしまいました。これから新しく建てるのか、どうするのか、課題は山積しています。
子育てというのは、子どもが生まれたときから、幼稚園、小学校、中学、高校はもとより、場合によっては死ぬまで続きます。それだけ長いスパンでとらえることかもしれません。
最後に「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」という聖書の言葉についてお話ししたいと思います。ここにある「わたし」とは、キリスト教を最初にヨーロッパに伝えて、教会を建てたパウロのことです。パウロはコリントにとどまらず、アポロに教会のことを任せました。ところが、人間の集団には派閥というのがどこでも起きることですが、コリント教会の中で、パウロ先生とアポロ先生のどちらがえらいか。そんな争いが起こっていることがパウロに知らされて、パウロはこういうことを書いたのです。
お世話になった人を特別に感じるのは、人としては自然な感情なのかもしれません。けれども、パウロにしてもアポロにしても、神様のために働いただけであって、ほめたたえられるべきは、わたしやアポロをあなたがたのもとに遣わしてくださった神以外にないのだと。そのことを、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」という言葉で伝えたのです。
わたしも3人の子どもが与えられ、それぞれ独立しましたが、子育てをしたという感覚はありません。妻はそうではないと思いますが、根本のところで、この子どもたちは神様から預けられた者であり、神様が育ててくださるという安心感があり、子どもたちの様子を見ていると、それが伝わったのかもしれないと思いもしています。
草花に水をやることは必要ですが、やりすぎれば根は枯れてしまいます。植え方も浅すぎても、深すぎても上手くいかない。失敗もします。草花の場合は、その失敗が次に生かされます。子育てもそうなのです。親が失敗したと思っても、取り返しがつかなくなるということはありません。そのように思うこと自体が傲慢です。自分だけの力で育てているのではないのですから。今はたいへんだとしても、一生は長いのです。子どものほうがそれをちゃんと取り返すことがあります。
自分に力はなくても、失敗しても、神様がこの子を育ててくださっている。それが心のゆとりにも通じるのではないでしょうか。幼稚園も、学童も、さふらんも、建ててくださったのは神様です。今も根本のところでそれが息づいているのです。