マタイによる福音書6章28~34節
「野の花と神の国」 田口博之牧師

今朝は花の日家族感謝礼拝として、子どもも大人も共に集って献げています。花の日は、今から100年以上前、アメリカの教会で、子どもの宗教教育のために特別な礼拝を行ったことをきっかけに始まったと言われています。やがて、6月第2日曜日に、子どもたちが神さまに感謝の気持ちを表すのにふさわしいものとして、教会堂に花を飾るようになったことから「花の日」とか「子どもの日」と呼ばれるようになりました。

今日は雨です。わたしは雨降りが好きではありません。そのために予定が狂ってしまうのは迷惑です。でも、雨が降らなければ草花は育ちません。そもそも雨が降らなければわたしたちは生きていきません。名古屋には木曽川を中心とした水源が豊富なので、あまり気づかないことですが、雨が降らなければ川の水も干上がり飲み水がなくなってしまうので。

かつて四国の松山というところに住んでいました。もう30年くらい前のことですが、雨がまったく降らなくて松山の水がめであるダムの水がなくなってしまって、1日5時間しか水道水が出ないという日が何日も続きました。たいへんだということで、知り合いからペットボトルの水がたくさん送られてきました。ところが、実は大変だったのは、飲み水よりもトイレの水でした。水が出る間にできるだけ水をためて、トイレのタンクに水を入れて流すことを続けました。

しかし、近年多いのですが大雨が降り続けるのも困ります。親子礼拝室、学童には迷惑をかけていますが、先月怪しい部分を処置しましたので、いいかげん天井を何とかしなければと思っています。豪雨災害に遭われた人たちがいます。またウクライナではダム決壊は人為的なことですが、大変なことになっています。何よりも大切な命が守られることを祈ります。わたしは祈るときにその場所にイエス様が共にいてくださることを想像して祈るようにしています。イエス様は、大勢の人の前に出たときに、大勢いる中の一人に向き合って癒してくださったように、戦争や災害で大変なことになっている地域にイエス様が訪ねてくださって、一人一人の肩に手を置いてくださっている、そんなイメージをもって祈るようにしていますので、皆さんもそのように祈ってみてください。

さて、今日読んだ聖書は「山上の説教」といって、イエス様がガリラヤ湖のほとりで、弟子たちに語られた「山上の説教」の中の一部です。実は正面のプロジェクターに写っているのが、イエス様が山上の説教を語られた祝福の丘と呼ばれているところの写真です。ガリラヤはイスラエルの中では自然豊かなところですが、必ずしも野に咲く花が爛漫に咲き乱れていたのではないと思います。とても地味な草花ではなかったでしょうか。聖書には「花は枯れ、草はしぼむ」という言葉がありますが、草花ははかないものの代表でした。

ちなみにこの写真はどうでしょう。とても綺麗ですねが、こちらは野原の花ではありません。これは名城公園のお庭で撮ったものです。自然に咲いているのでなく、お金と人手をかけて、美しい花壇に整備されています。

講壇の花はどうでしょう。昨日、お花屋さんが持ってこられ、この場でたくさんの種類のお花を一本一本生けてくださいました。ここにあるフラーポットは、昨日、名古屋教会幼稚園やはこぶね学童や名古屋教会のCSのお友だちが作ってくれたものです。中のお花は野原で摘んだものではなく、こちらは買ってきたものです。このまま飾ってもらってもいいし、花を育てるのが上手な方は、お家で植え替えると長く楽しんでもらえます。昨日、後から家で聞いたのですが、ここにあるサルビアの花の蜜を吸っている友達がいたと聞いてびっくりしました。サルビアの花の蜜はとっても甘いそうなのです。

さて、イエス様は、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と言われました。花を愛することにかけては、牧野博士にも負けなかったと思います。ただしイエス様は植物学者ではありません。なぜ、そう言われたのでしょう。そう言われる前に、「なぜ、衣服のことで思い悩むのか」と言われています。イエス様のお話を聞いていた人は「何を着ようか」と思い悩んでいたのです。みなさんも、「今日、何着て行こうかな」と悩んでしまう人がいるかもしれませんが、それは贅沢な悩みです。イエス様の話を聞いていた人たちはそういうことではなく、とても貧しい人たちでした。食べるもの、着るものを、やっとの思いで手に入れていて、明日からどう生きていけばいいのかと悩んでいる。そんな人たちでした。だったらどうして、「思い悩むな」なんて言われたのでしょうか。

イエス様は「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と言われています。キリスト教信仰とは何かといえば、わたしたちが生きるために必要なことを神様はすべて知ってくださっていると信じること。そう言ってよいと思います。そのことは聖書を読んで、神様のことを知れば知るほど、よく分かってくるのです。あるえらい神学者は、人生のいちばんの目的は「神様を知ること」と言いました。神さまを知れば知るほど、不思議なことに思い悩むことはなくなります。

人生で一番の大敵は、「思い悩む」ことと言っていいかもしれません。思い悩んで、夜、眠ることができないとすれば、とても辛いことです。幸いなことに、わたしはあまり思い悩むことはありません。だからでしょうか、夜、眠ることができないという経験をしたことがほとんどないのです。もちろん、思ったり考えたりすることはたくさんありますし、悩みもあります。一つ話せば、「牧師先生、それってたいへんなことじゃないですか」と言わます。それでも、思い悩んで心が塞がれてしまうことはありません。それは、神様がすべてを知っていてくださっているという安心感があるからだと思います。わたしを愛してくださっている方が知っていて、今日も命を与えてくださっている。そう思うと勇気が出てきます。自然と思い悩みから解き放たれます。

聖書に「神は耐えられないような試練に遭わせることはされない」と書かれてあります。「神は乗り越えられない試練は与えられない」と言って、試練に立ち向かおうとするスポーツ選手がいます。聖書の神様を知って、そう言われているのかどうかは分かりませんが、誰であっても、自分の限界と向き合う中で、わたしよりも強いお方に希望を見出すことはあると思います。わたしは、自分には耐えられない部分は、神様が担ってくださっていると思っています。十字架を負われたイエス様が背負ってくださっておられるのだと。

今月の名古屋教会幼稚園の聖句は、「主は、わたしたちを造られた」という詩編の言葉です。わたしたちは特別な存在として造られました。すべてのものを造られた神様は、造られたものを見て「これで良し」と言われました。野の花や草も、神様が作られた素晴らしい作品です。「明日は炉に投げ込まれる」としても、今日装っていてくださっている。以前のことですが、教会と隣のコインパークの間に生えていた草が伸びていて、「名古屋教会幼稚園」の看板が見えなくなっていたのが気になって、草を刈っていました。たまたま園長先生がそれを見られて、「雑草が伸びているから」と言ったら「雑草なんて草はない」と言われてしまいました。でもそうだよなと思い、それ以来「雑草」とは言わなくなりました。草むしりをするときにも、ごめんねという思いの中でしています。

今は教会に牧師館がないので、北区に住んでいるのですが、住んでいるところの向かいのマンションの敷地にある黄色い花が目立つようになりました。この花です。綺麗なので摘んで帰ろうかと思って、グーグルカメラで撮ってみると「オオキンケイギク」と出てきました。そこでこの花は特定外来生物と定められ、固有の在来種を脅かすという理由で駆除の対象となっていることを知りました。持ち帰ることが禁じられているのです。それから、今月からミドリガメとアメリカザリガニも特定外来生物に指定され、こちらは取るのはいいけど、誰かに渡したり、再び水路に放すことが法律で禁じられたので、皆さんも気をつけてください。

それにしても、オオキンケイギクも、ミドリガメもアメリカザリガニも、売られていたこともあるのに何だかなあと思います。先週、日本に住む一部の外国人に厳しくする、入管法の改正案が国会で通りました。これに対して何とも言えない思いを持っています。これに反対する人たちも大勢います。しかしそこで思うことは、これには反対するのに、外国から来た植物や生物については、日本の生体系を崩すことで何も言わなくていいのか、いっとき、生物多様性ということが、主張されました。人間だけでなく、共に生きるということがもっと考えられてよいのではないかと思いますし、子どもたちにはそういう関心をもってもらいたいと願っています。

野の花は自分で何かするということはできません。枯れてしまう前に引き抜かれてしまうこともある。それでも悩んだり恐れたりすることなく与えられた場所で生きていると思う時、わたしはこんなことで思い悩んでいるのかと思うようになります。渡辺和子というシスターは「置かれた場所で咲きなさい」と勧めました。良い環境で生きられるとは限りません。受験を乗り越えても、就職しても、結婚しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。とても咲くことなんて無理というときもあります。そう言う時には下に根を張るときなのです。わたしたちを愛し、いつくしんでくださる神様が、それぞれにふさわしい花を開かせてくだいます。

イエス様は言われました。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
お祈りします。