エゼキエル書2:1~3:3
神に召されることを「召命」という言います。日本で由緒あるとされる、平凡社の「世界大百科事典」によると「召命」は、次のように説明されています。「神に召されて新しい使命につくことを意味するキリスト教用語。召命と訳される外国語vocatio(ラテン語),Beruf(ドイツ語),calling(英語)などは〈呼び出すこと〉を意味する。もともとは神に選ばれ,呼び出され,救われることを意味した。しかしまた,呼び出され,これまでとは違った新しい使命を与えられることをも意味した。そのため,とくに神に召され,教会の職務である牧師(司祭)職を与えられることを意味することが多くなった。」そう記されています。
先ほど話をしたガリラヤ湖の4人の漁師たちも、イエス様に呼ばれて、新しい使命が与えられました。旧約聖書に出てくる、アブラハムもモーセも、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルら旧約の預言者たちも皆、神に召命を受けた人です。神はその人に特別な能力、資質があるからご自身の働きのために選ばれたのかというと、そうではありません。神様はご自分のためではなく、いつも人間のことを考えられています。わたしが自分自身を振り返って思うのは、その人にもっともよい人生を与えるために、その人を呼ばれたのです。先のペトロとアンデレも、ヤコブとヨハネも同様です。
ただし、召命とは伝道者の専売特許のように用いる言葉ではありません。むしろ、そのように限定する考え方は、中世のキリスト教会の理解です。ルターやカルヴァンら宗教改革者たちは、召命という言葉を、すべてのキリスト者についてのものと理解し強調しました。
それは二つの意味で言えることです。一つは、牧師のように教会の働きに就く者に限らず、洗礼を受けてキリスト者になった人は、その人が洗礼を受けようとする思いよりも先に、神が色んなきっかけを通して、キリスト者になるよう呼ばれたのです。二つ目は、すべての職業がそうです。「職業召命観」とよばれる考えは、M・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に著されているように、近代精神を大きく形づくるものとなりました。
天職と思える仕事をされた方は少ないかもしれませんが、どんな仕事でも与えられていることは感謝です。またどんな境遇や状況に置かれたとしても、神の御手からこぼれているものはありません。この世は不条理に満ちていますが、たとえ短く辛い人生であったとしても、それは地上での旅の期間が短く、険しかったということであって、わたしたちの本国は天にあります。本番はこれからです。永遠の命への希望が、今を生きる力となります。
さて、今日のテキストに入ります。預言者の召命のうち、おそらくエゼキエルの召命については、取り上げられることが少なかっただろうと思います。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルが三大預言者と呼ばれますが、召命の場面にも特徴があります。エレミヤは召命を受けた時、「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と言って召しを辞退しようとしました。イザヤの場合、「わたしがここにおります。わたしを遣わして下さい」と答えます。尻込みしたエレミヤに対して、イザヤは積極性のある人です。神はその人の性格、気質を見て呼ばれるのではありません。
エゼキエルはどうだったでしょうか。実はエゼキエルの召命の記事というのは、1章から3章まで続くのですが、この間、エゼキエル自身は一言も語らないのです。神はエゼキエルに数々の命令を出しますが、エゼキエルは一言も答えず、ただ命令を受けるだけなのです。
1章に記されてありますが、エゼキエルの前に立つ、主のお姿は独特で、四つの顔を持つ生き物として語られています。ここで読むことはしませんが、エゼキエルはその姿に主の栄光の姿を見ました。そして主の声を聞くのです。
主は2章1節で、「人の子よ、自分の足で立て、わたしはあなたに命じる」と言われます。旧約で「人の子」という場合には、主には「神から愛された子」という意味で用いられています。ここではエゼキエルを指しています。「自分の足で立つ」とは、神の前にしっかりと立って生きる人間となることを意味します。しかし、その足を立たせるのは、自分の力ではなく、エゼキエルを召される神の力です。2節で「霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた」とあるとおり、エゼキエルは主の霊の力によって、自分の足で立つ者とされたのです。イエス様が四人の友人により担架で運ばれてきた人に「起きて、床を担いで歩きなさい」と命じられたように、寝たままでも、座ったままでもないということです。
そして、主はエゼキエルを「反逆の民に遣わす」と言われました。「恥知らずで、強情な人々のもとに遣わす」と言われます。この人々は、誰のことを言うのでしょうか。先にお話しすべきだったかもしれませんが、エゼキエルはバビロン捕囚期の預言者です。エレミヤの活動時期と重なっていますが、エレミヤがバビロンにより陥落したエルサレムに残って預言したのに対し、エゼキエルは捕囚民とともに
では先の「反逆の民」、「恥知らずで、強情な人々」とは誰かといえば、バビロンではなく、イスラエルの人々のことです。出エジプトから捕囚された今日にいたるまで、イスラエルの民は主に背き続けました。バビロン捕囚は、イスラエルにとって、もっとも厳しい時期であり、世界史的な出来事となっていますが、聖書はバビロン捕囚も、背信のイスラエルに対する裁きの結果ととらえています。エレミヤがどれだけ悔い改めを語っても、聞くことをせず、エレミヤを涙させた民こそが反逆の民なのです。
ここで、主はエゼキエルに、「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうとも、あなたはわたしの言葉を語らなければならない」と命ぜられています。具体的に何を語れとは書かれていません。目的は、バビロンという捕囚の地にも、御言葉を響き渡らせるためです。彼らがどんな反応を見せても、「恐れてはならない、たじろいではならない」と命ぜられています。
日本基督教団では、わたしのように教会に遣わされた牧師だけでなく、キリスト教学校で働かれる教務教師がいます。再来週のペンテコステ礼拝でお呼びする松谷先生もそうです。それまでは牧師として召されていた人が学校に遣わされる。
わたしもたまに学校で話をする機会がありますが、そこで教会で説教する場合と大きな違いがあります。学校の場合、御言葉を聴くためにそこにいるのではないということです。一生懸命聞く人もいますけれど、そうでない人もいるというところに教会との違いがあります。教務教師には、教会で牧師をしているだけでは知り得ない苦労もあることを思います。それでも、神はそこで語るために遣わされています。
イエス様が故郷ナザレの会堂で御言葉を語られたときに、「預言者は故郷では歓迎されないものだ」と言われました。聞いていた故郷の人々が憤慨して、イエスを町の外へ追い出し、崖から突き落とそうとしたのです。それでも預言者は語らねばなりません。反発を受けようが、語るために遣わされていく。彼らが反逆の民であったことを知り、悔い改めて新しく生きるために、そのためにも先ずはエゼキエルが自分の足で立たなければならなかったのです。
そんなエゼキエルに、主は面白いことを命じました。「口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」と。主が食べなさいと命じたのは、食べ物ではありません。エゼキエルに与えられたのは、「表にも裏に文字が記された巻物でした。」「それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった」と書かれてあります。「人の子よ、わたしが与える巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ」と言われ、エゼキエルが「それを食べると、それは蜜のように口に甘かった」とあります。これは、「人はパンだけで生きる者ではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とあるように、比喩として語られていることですが、「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」なのですから、食べたとしても苦いと思います。でも、蜜のように甘かったと言うのです。
わたしたちも聖書を読んでいて、苦しくなってしまうような御言葉と出会うことがあるでしょう。味わって苦いと思うような御言葉であれば、ひと口食べて、美味しくないと食べるのをやめてしまう。いや見た目だけで食べず嫌いとなってしまうでしょう。でも、「胃袋にしっかりと入れて腹を満たす」程にしっかりと食べたなら、御言葉に対する味わいは、全く変わってくるはずです。御言葉の甘さが味わえるようになったならば、御言葉がいのちの糧となるのです。そのときに、たとえ、わたしたちの現実がどれだけ厳しくても、苦い者が甘く感じられるほどに、現実への受け止め方が変わってしまう。
わたしたちは聖書を読みはじめても、すぐには何を言っているのか分からないものです。新約聖書の初めから読むといいと言われて読み始めても、系図を見るだけでしまい込んでしまうことがある。わたしもそうでした。そこは飛ばして、他のところから読み始めても、最初を読んでいないから、どこか分かっていない気がしてひっかかりを持つのです。ヨハネ福音書を読み始めたときもそうでした。「初めに言があった、言は神と共にあった、言は神であった。」そこで宇宙空間に放り出されたような気がしてどうも落ち着かない。ところが、マタイの系図もヨハネのプロローグも、旧約の創世記から読んでいくうちに分かるようになる。教会で皆さんと歓談しながら、甘いものを食べられないのは残念なことですが、このように御言葉を味わうことができるのは幸いなことです。
主は今朝も皆さんを呼ばれました。教会は主の恵みによって召された者の集いです。コロナも三度緊急事態宣言が発せられました。昨年の今頃、また冬場以上に、厳しい状況になっていると思います。苦しい時期ですが、これが永久に続くわけではありません。解き放たれるときが必ずやってきます。年度聖句にあるように「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」御言葉に押し出されて、1週を歩んでまいりましょう。