詩編47編6~10節       マタイによる福音書28章16~20節
説教  「復活の主の伝道命令」 田口博之牧師

1853年徳川時代の末期に、ペリーが黒船と呼ばれる蒸気船で浦賀に来航し、およそ250年鎖国が続いていた日本に開港を迫ります。日米修好通商条約により開港したのが、北から函館、新潟、横浜、下田、神戸、長崎でした。このうち特にプロテスタントの宣教師が上陸したのが、1959年、当時はまだ小さな漁村でしかなかった横浜と神戸で、ここに外国人居留地が出来、町が発展します。名古屋教会にゆかりがあるのが横浜バンド。主な宣教師にアメリカ長老教会のヘボン、アメリカオランダ改革派教会のブラウン、オランダ改革派教会のJ・バラがいます。その中のブラウン塾の学生、まだ二十歳そこそこであった植村正久と山本秀煌の2名が、名古屋の有松村で伝道集会を行ったのが1878年(明治11年)12月のことであり、週報の表紙に小さく記されているように、この年を名古屋教会の伝道開始として記念しています。

植村、山本の伝道を引き継いだのが、有松出身、東京神学大学の前身である東京一致神学校で学んだ阪野嘉一でした。阪野の2年近い伝道の後、28名の信徒により教会建設の申し出が東部中会に出され、1884年5月3日(土)に奥野昌綱で教会建設式を行いました。翌5月4日に名古屋教会最初の聖日礼拝と聖餐式が行われます。

以来、5月第1聖日を創立記念日と記念するようになり、今日は創立139年記念礼拝となります。先週、浅野基明さんが天に召されました。浅野さんは太平洋戦争の翌年、1946年10月、名古屋中学校3年生、15歳の時に赤石義明牧師から受洗しました。すると戦後77年、名古屋教会の歴史の半分以上を浅野さんは生きられたことになります。

浅野さんのご両親は、戦後名古屋教会と合併した名古屋清水教会の最初期からの会員でした。昨年召天された野田道雄さんの家もそうでした。浅野基明さんは両親と、二人の姉と、兄に連れられて清水教会の日曜学校に通いました。おそらく浅野さんは清水教会をよく知る最後の方だったのではと思います。かつて、清水教会のあった場所には名古屋北教会が建っていますが、名古屋北教会のルーツは金城教会から独立した東山伝道所です。東山伝道所も戦争で焼失し、信徒宅で家庭集会を続けていたのですが、日本に戻ってきたスマイス宣教師の尽力で米軍の土地となっていた清水教会の跡地に教会を建てることができたのです。教会史はわたしの関心事の一つですが、いろんな流れがあることを思います

そういう中で、名古屋教会は創立139年の歴史を数えました。実質140年目の歩みに入っています。教会がその地に100年以上経っていくということは容易なことではありません。人間の命には限りがあります。一人の人が続ける教会生活は、長くても80年でしょう。教会は一人で、また同じ世代の者たちで担っていけるわけではありません。その間に育てられた誰かが、次の責任を負って、教会の業を担っていく。そういう積み重ねの上に、今の教会の歩みがあるのです。

今朝もここに集う一人一人が、教会の歴史の一コマを担っています。できれば多くの方と創立150年を祝いたい。教会には100歳を過ぎても礼拝に出席された方はいましたので、大いに目標としてほしいと思います。

しかし、名古屋教会がどう150年を迎えるかは課題です。わたしたちは、あと10年後の名古屋教会のイメージが出来るでしょうか。教団でも2030年問題とか将来の話がでますが、』実は2020年問題がありました。2020年までに教団の機構を変えないといけないと言われていました。ところがコロナの問題が起きたことで、その危機が先送りできたのです。わたしは「ひとえにZoomの恩恵によって」と発言していますが、交通費と宿泊費で開催するのに、1回で何百万円かかる会議や研修会が、オンラインでほとんどお金をかけずにできたのです。もちろん、いつまでもそういうわけにはいきません。

わたしたちが何年か先のことを考えるときに、目に見えるところから考えようとします。教会でも高齢化問題、ダウンサイズから来る財政問題など。確かに現実は見据えないといけません。しかし、教会はそういう考えだけでよいのでしょうか。それでは大切なものを見失ったことにはならないでしょうか。

イエス様が十字架で死なれたとき、弟子たちは散らされました。彼らはエルサレムに入れば、イエス様を王とする神の国が建設されるのではないか、そんなことも思いながら従ってきました。イエス様が真ん中の王座に座った暁には、右の座につきたい、左の座につきたい。そんなことも考えていました。ところがイエス様は死んでしまった、10年先の心配どころではない。手に届くところにあると思っていた栄光の座から奈落の底に突き落とされたような思いで弟子たちは散っていたのです。

そんな弟子たちのもとに、復活のイエスと出会ったマグダラのマリアがやってきて、「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしと会うことになる」と伝えたのです。弟子たちは思いだしたでしょうか。マタイの26章33節で「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」とイエス様は言われていたのです。この言葉はペトロの離反予告のところで語られています。印象的な場面ですので、わたしたちもペトロの離反予告とそれに対する否定の言葉は知っていても、ガリラヤでの約束は記憶に残っていないのではないでしょうか。その意味でも、聖書は何度読んでも新しいのです。

弟子たちはガリラヤに行きました。ただし、この時の弟子は11人です。イエス様を銀貨30枚で裏切ったイスカリオテのユダは、自殺していてここにはいません。11人はどんな思いでガリラヤに行ったのでしょうか。一縷の望みを持っていたでしょうか。ガリラヤはユダを欠いた11人の弟子たちの故郷でした。いちばん馴染んでいるところです。イエス様が指示しておいたガリラヤの山は、山上の説教が語られたところかもしれません。ガリラヤ湖を見下ろせる懐かしい山、11人にとっての原風景がここにあります。ルカ福音書によれば、イエスは一人この山に上って夜を徹して祈り、12人を選んだと書かれてあります。ガリラヤは弟子たちにとって再出発するのにふさわしいところでした。

11人はイエス様に会い、ひれ伏しました。つまり礼拝したのです。再出発するために礼拝から始める必要があります。「しかし、疑う者もいた」と書かれてあります。おそらく疑う者はトマス一人ではありません。皆が疑っていたのです。

わたしたちは、証拠を求めます。目に見て確かなものが差し出されないと、なかなか信じることができない、頑固さを持っています。信仰者でもそうです。教会に若い人が増えてきた、財政問題の心配もなくなってきた。希望が見えてきて初めて、10年後のことがイメージできるようになる。そういうことはないでしょうか。

しかし、11人は目の前に復活のイエス様がいるにも関わらず、しかも礼拝をささげながらも疑っていたのです。実際にイエス様を見ることができても、求めていた確かな証拠を掴んだとしても疑いは残る、それが人間です。疑うということは、イエス様の復活を信じていないということです。

ところが18節、「イエスは、近寄って来て言われた」とあります。疑いを責め、離れることなく、弟子たちに近づかれ、声をかけてくださるのです。そして「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言い、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われました。

これは驚くべきことだと思いです。まずここにいるのは11人です。これまでの聖書の救いの歴史の流れからしても、イスラエルが12部族であったように、弟子は12人でなければならなかったのです。すると一人欠けているのです。これを補おうとしていません。欠けているだけではなく、彼らは疑っているのです。

そんな疑い深い、信じていない弟子たちに向かって、イエス様は三つのことを言われます。はじめが、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」です。欠けがあり、疑いのある弟子に向かって、行けと命じます。どこに行くのでしょう。「すべての民を」とあります。これは世界中の人々をということです。マタイはユダヤ人のための福音書です。12人を選んで伝道に遣わしたときには、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と命じました。しかし、復活された主は、世界に出て行けと言うのです。

ガリラヤという地はイスラエルの中でも片田舎です。エルサレムに行けば、ガリラヤ訛りだと馬鹿にされるような人々です。11人は特別に学があるわけでもない、イエスを捨てて逃げてしまった者たちです。ここでも疑っている。そんな彼らに向かって、世界に行きなさいと言われる。志の問題でもない。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われます。しかし、自分が弟子になりきっていなければ、いや師匠から免許皆伝、師範の免状をいただかねば、弟子をつくることなどできはないのではないでしょうか。これは、かなりハードルの高い命令ではないでしょうか。

そして、二番目に「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言い、三番目に「命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言っています。これらは1,2,3の順序で考えれば逆ではないかと思うのです。なぜなら、イエス様の弟子となるためには、イエス様の教えを学ばねばなりません。指導者は、命じられていることを守るように教えるのです。そこから入って、次に「洗礼」となるはずです。洗礼を授けるためには準備会が必要です。それは弟子になるための準備だといえます。

そういう意味で、この三つの順序は逆ように思えるのです。実際にかつて言われたことがあります。「先生は伝道と言われるけれども、まずは教会員がもっと訓練されなければならないのではないか。そうでないと、伝道しろと言われてもどうしていいのか分からい。外に向かう前に、中の力を蓄えねばならないのではないか」そんな言葉でした。言うことはよく分かると思いました。けれども、洗礼だってそうなのです。どれだけ学んでもきりがないのです。よく学んだから分かったから、洗礼を受けますと言っても、それがいつのことになるかは分かりません。同じように、いつまで中の力を蓄えねばならないのでしょうか。

弟子になることについても、わたしは最終段階のような言い方をしましたが、弟子になるところから始める、そんなとらえ方でもいいのかしれません。誰々の弟子になるというとき、この人から学びたい、そう思って弟子入りを志願するでしょう。するとここでもやはり、弟子になることをスタートとしてよいのかもしれません。洗礼を受けるということも、弟子になるためではなく、弟子であることのしるしなのです。そして、洗礼がゴールとならないようにせねばなりません。そのために大事なのが、洗礼後の教育です。学校でも入試に合格すれば、それで目的達成ではなく、そこから学びが始まります。そのようにして、生涯弟子であり続けることです。

復活のイエス様が弟子たちに言われたこの言葉は、大宣教命令とか大伝道命令と呼ばれますが、ここには伝道とか宣教という言葉は出てきません。内容は、「弟子とする。洗礼を授ける。教える」この三つです。三つの順序にこだわってしまいましたが、「父と子と聖霊の名によって」とあるように、まさに三位一体、三つを一つのこととして捉えるべきなのかもしれません。しかもイエス様は、欠けのある弟子たちに本物の弟子となるように勧めるのでなく、欠けのある弟子たちに対して、出かけて行って、世界の民を弟子としなさいと言われるのです。実に大胆なこと、とてもできそうにないことです。しっかり伝道できるように中を固めてからというのではなく、不十分であってもとにかくやってみる。そこから始めなさいと言われるのです。

目に見える現実、自分と周りだけを見つめていては、いつまでたってもできませんが、イエス様を見つめればそうではないのです。復活の主は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われるからです。この権能とは、死にさえも打ち勝つ権能です。どれだけ力のある人であっても、だれ一人として死から逃れることはできません。死はこの世における最高権威者として人間を支配していました。

しかし、イエス様が死者の中から復活されたことによって、最高権威が変わってしまったのです。わたしたちに力がなくても、欠けがあり、疑いがあっても、天の父なる神からすべての権能を授けられたお方が、命じているからです。このお方は、目に見えない存在となられます。それは今の時代まで続いています。しかし、そのお方は最後に言われるのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。イエス様が地上におられる時には成就したと思えなかったイザヤの預言が、ここで成就したのです。

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」