2021.5.30 ローマの信徒への手紙10章9~13節
説教  「主の名を呼び求めて」田口博之牧師

ペンテコステの出来事はヨエルの預言の成就だと言われています。
「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。
わたしの僕やはしためにもにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。」

ここでいう、「預言」も、「幻を見る」も、「夢を見る」も、広い意味でいえば、御言葉を語るようになるということです。聖霊が注がれることで、誰もが神の言葉を語れるようになる。証ができるようになる。名古屋教会が、聖霊降臨節に入って、牧師だけでなく信徒の証を礼拝で行うのは素敵なことだなと思っていました。眞野久さんが、教会へと通い始めるきっかけが与えられたことからこれまでの人生を10分で語ることは大変だったと思いますが、神が共にいます恵みが、よく証されたと思います。これからお疲れが出ないことを祈ります。

ローマの信徒への手紙10章9~13節は、今日のために眞野さんが選ばれた箇所ですが、わたしたちの信仰にとって、とてもたいせつなことが語られていますので、そのまま説教のテキストとしてみました。9節に「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」とあり、この言葉が10節で、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と言い変えられています。順序の話をするならば、10節にあるとおり、わたしたちは心に信じることが先で、信じたことを、口で公に言い表しています。

けれども、よく分っていないままに洗礼を受けるという人も少なくありません。わたしなどは、礼拝に通い始め最初に覚えたのは使徒信条でした。言葉で言い表すほうが先でした。信仰を告白して洗礼を受け、洗礼を受けたことが支えにして信仰の道を歩んでいる。そんな方も少なくないのではないでしょうか。でも、ここでは順序の話をしているのでなく、「心で信じること、口で公に言い表す」とは、表裏一体、一つのことを言っているとも言えます。

あるいは、このように思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。口で公に言い表すことよりも、行動に移すことの方が大事ではないか、どれだけ信仰深くても、行動しなければ意味がないのではないかと。わたしたちはそういうことを言われたり、またそのような場に立たされることがあります。

でも、その場合の信仰による行動と、このテキストで「心に信じ」と言われている時の信仰には明らかな違いがあると考えます。9節には、「心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら」と書かれてあります。ここでは復活の信仰が語られているのです。

イエス様は、「平和を実現する人々は幸いである、その人は神の子と呼ばれる」と言われました。もしイエス様が、「平和を実現する人々は救われる」と言われたとすれば、平和のために行動する人でなければ、救われないことになってしまいます。それでは律法主義と変わりありません。ローマの信徒への手紙で語られてきたことは、人は律法の行いでは救われないということです。パウロは「律法による義」ではなく、「信仰による義」の話をずっとしてきたのです。

「平和を実現する人々は幸いである」の御言葉も、その人の幸いが語られているのであって、救いを語っているのではないのです。行動が救いの条件となったとき何が問題になるかといえば、行えない人に対する裁きが起こってしまうことです。イエス様が律法学者らと対決したのは、彼らが律法を行えない人々を裁いてしまっているからです。それは律法の本質とは違うもので、律法でもっとも重要なのは何かという問答を通して、神を愛し、隣人を愛することを教えられました。自分が律法の完成であるとも言われました。

そして、今日のテキストで大切なことは、復活の信仰が語られていることです。わたしたちが口にする信仰の言葉は、復活よりも十字架のほうが圧倒的に多いのではないでしょうか。なぜそうなるのでしょうか。わたしたちはイエス様の十字架の死を見てはいませんが、人が死ぬということを現実に見て知っているので、十字架は可視化できるのです。ところが復活については、死んで復活した人を見たことがありません。だからよく分からないし、信じることも難しい。誰かに質問されても明確に答えることが難しい。

聖書を読んでいても、イエス様の十字架の死は、イエス様を主と信じた人もそうでない人も見ていることが分かります。ローマの百人隊長のように、十字架の死を目撃して「本当にこの人は神の子だった」と信じ告白した人もいますが、たいていは、死んで葬られたのを見て終わりです。けれども、イエス様の復活を目撃したと証言した人は、全員イエス様を信じたのです。見なければ信じないと言っていたトマスですが、見て信じることができました。信じていない人々は、イエスの復活を噂としてしか聞いていません、結局は信じていなのです。

わたしたちはイエス様の復活を見たわけではありませんが、イエス様がトマスに言われた「見ないのに信じる人は、幸いである」との祝福の言葉が与えられています。この言葉が、わたしたちの復活の信仰を支えています。

また、ここで「神がイエスを死者の中から復活させられた」とあるように、復活が父なる神の御業として語られていることにも注目したいのです。それは、「イエスが死者の中から復活した」と言ってしまえば、復活はイエス様だけの特別なものであって、自分とは関係のない話になり、わたしたちの復活の初穂とはならないからです。十字架は信じられると言いましたが、十字架の死はイエス様でなければ担うことはできません。

でも、復活はそうではない。わたしたちはイエス様の復活に続くのです。ですから、「心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたがたは救われます」とは、まさにそのとおりで、わたしたちの救いは、復活によって完成します。そのことが約束されていて、そのために、これをしなければならない、ということはないのです。まさに「よい子になれないわたしでも」です。

これほどの驚くべき恵みが与えられていること信じるならば、この恵みを黙っているわけにはいきません。「心に信じた」ことを「公に言い表す」のです。「洗礼を受ける」という行動につながります。聖餐式の際に、「心に信じ、口で公に言い明らかなる信仰をもって受けるべきもの」言うとおりです。

この「公に言い表す」と訳された言葉ですけれども、以前の口語訳聖書、また新しく翻訳された共同訳聖書でも、ただ「告白する」となっています。10節でいえば、「実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです」と訳されています。説教に続いて、今日は使徒信条をもって信仰を告白しますが、信仰告白とは、わたしたちが何を信じているのかを、公に言い表す行為なのです。

「信仰告白」という言葉は、新約聖書のギリシア語では「ホモロゲイン」です。「ホモ」は同じ、ロゲインは「語る」を意味しますので、「同じ言葉を語る者になる」ということになります。「イエスは主である」という同じ信仰に生きていることを表明する行為、それが信仰告白です。洗礼式の誓約の中で「あなたは日本基督教団に言い表された信仰を告白しますか」と問いますが、言いかえれば、この信仰に生きている者たちと同じ言葉を語る者となりますか、名古屋教会の仲間になりますか、ということなのです。

教会の仲間になった者がどう生きていくのか。それは11節に「主を信じる者は、だれも失望することがない」とあるとおりです。もう失望することのない歩みが与えられるというのです。絶望なき信仰を支えるのが、復活の信仰です。そこに救いがあります。

12節には、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」とあります。同じ信仰を告白することによって、多様な人生経験に生きているわたしたちが、主のもとに一つにされるという恵みにおかれる。そこに教会の交わりの祝福があります。

そして、今日語られたことをまとめるかのように、13節で「『主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです』」と語るのです。「信じる者は救われる」とは、世俗化した言葉にもなっていますが、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」とは、キリスト教独自の言葉だといえます。キリスト教が信仰告白的宗教とも呼ばれるゆえんです。

もちろん、呼び求めればよいというものではありません。十戒に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という掟があるように、わたしたちは、信仰をもって主の名を呼ぶのです。主なる神ご自身が、「悩みの日に我を呼べ」と言ってくださいます。なぜなら、「わたしは、あなたたちの神であり、あなたはわたしの民となる」と言ってくださる神だからです。この神の呼びかけに誠実に応えていきたい。

わたしたちは、この礼拝でも主の名を呼ぶのです。主の名を呼ぶ祈りがあり、主の名を呼ぶ賛美があり、主の名を呼ぶ証があり、主の名を呼ぶ説教があり、主の名を呼ぶ信仰告白がある。でもそこには、聖霊なる神のご支配があることも忘れてはなりません。コリントの信徒への手紙一12章4節に、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主であるとは言えないのです』」とあるように。