詩編47編6~10節   使徒言行録1章6~11節
「主の昇天の恵み」田口博之牧師

使徒言行録は、復活されたイエス様は、「40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」ことを伝えています。この40日間というのは使徒言行録にしかない記述です。また次週は、ペンテコステ礼拝ですが、イースターから数えて50日目をペンテコステとしているのも、使徒言行録2章1節の「五旬祭の日」という記述が、その根拠となっています。五旬祭の旬という字は、ひと月を上旬、中旬、下旬と10日ずつ分けるように50日ということです。

使徒言行録の2章以降は、聖霊降臨後の話なのですが、復活から昇天そして聖霊降臨までの50日間の出来事を記すのは、使徒言行録1章しかありません。その意味で、とても貴重な記録だといえます。

さて、イエス様が天に昇られたということは、この地上を離れられたということです。これが一体何を意味するかということが問われることであり、これを明らかにすることが、今日のわたしの説教の課題になっているといえます。

イエス様が昇天されたとき、弟子たちはどういう思いだったでしょうか。恵みだととらえることができたでしょうか。先ほど読まれた1章9節、10節に「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」と書かれてあります。

ここを読んで皆さんはどう感じられるでしょうか。イエス様が雲の上に、空高く昇って行かれたイエス様の姿と、その姿を弟子たちは寂しそうに見つめて立っている様子が浮かんできます。すると、その様子を見ていた白い服を着た二人の天使が、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」と言っています。この言葉には、「あ~あ、イエス様は言ってしまった」と。いつまでも天を見つめている弟子たちを叱っているような響きがあります。

でも、弟子たちの寂しさは分かる気がするのです。イエス様は復活されました。最初は信じられなかった弟子たちですが、やがて大きな喜びになりました。イエス様は、「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」のです。弟子たちにとって、イエス様と共にいるこの時が、楽しくて仕方がなかったと思います。そして期待を込めて、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねるのです。

この「イスラエルのために国を建て直す」をどう解釈すればよいでしょうか。シオニズム運動が頭を巡った方がおられるかもしれませんけれども、ここを単純に読めば、ローマ帝国の支配からの解放と読むことができるでしょう。しかし、そうだとするならば、イエス様は政治的なメシアということになってしまいます。神の国の話を繰り返し聞いた弟子たちは、神の国が、地上の目に見える形であらわれるものではないことを知っていたはずです。

神の国とは、神の支配ということです。イエス様を十字架につけたユダヤ人たちが悔い改めて、イエスをキリストと信じることで、神の支配の中に生きるということです。でも、それはすぐには起こることではなく、福音が全世界に伝わり、異邦人が救いに達するまで待たねばならないのです。そして聖書全体を読むと、それは終わりの日まで待たねばならないのです。終わりの日を告げるのが、主の再臨の日です。11節に「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」とあるとおりです。

そうすると、主の昇天と再臨が、分かちがたく結びついていることがわかります。イエス様は天に昇ったままではなく、また戻って来られという約束が伴っているのです。では、その日はいつなのか。イエス様は、はっきりと「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」そう言われています。

神の国の完成、再臨の日について、たくましい想像をする必要はないのです。ですから、キリスト教を標榜する宗教の中には、何年何月にキリストの再臨があると予告するところがあれば、そこの教祖が再臨のメシアになってしまうことがある。それはまったくおかしなことであり、危険なことなのです。

わたしたちは、天に昇られた主が再び来られるという約束の時代を生きていますが、その日まで、何もしないで、ただボーっとして、主が来られるのを待っているのではありません。福音書でも、イエス様は再臨について語っておられますが、「目を覚ましていなさい」と言われました。主は突然来られるのです。福音書に10人のおとめのともし火のたとえがありますが、油を絶やすことなく緊張感をもって生きていく。

では、どうすればそのように緊張感をもって生きていくことができるのでしょう。イエス様は、もう一つ約束を伴う命令をされています。4節から5節、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」約束の聖霊が降るのを待つように命じられています。

では聖霊が降るとどうなるのか。8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われています。世界に出て行って主の証し人となるなど、途方もないことです。どれだけ、その人に力があってもできるものではありません。そこへと押し出す力が必要なのです。その力の源となるのが聖霊です。弱かった弟子たちが聖霊を受けたからこそ、復活の主の証人となり得たのです。

イエス様が天に昇られたのが、復活されてから40日目、聖霊降臨日が50日目でした。では、この10日の間、弟子たちは何をしていたのでしょうか。そこにも、わたしたちの生き方のヒントがあります。14節から15節を読むと、彼らが一つになって祈っていたことが分かります。いつ約束の聖霊が降るのかは分からないけれど、皆で「聖霊、来てください」とひたすら祈って、その時を待ったのです。そして、彼らの祈りに応えるかのように、10日後に約束の聖霊が降りました。

よく、ペンテコステを「教会の誕生日」という言い方をしますが、その前に祈りの共同体ができていたのです。生まれる前に母の胎にいた十月十日に命が育まれていたのです。そう考えると、主の昇天から教会の歴史が始まったと考えてもいいでしょう。教会史の分け方からすると、前史という言い方になるでしょうか。名古屋教会も阪野嘉一牧師が初代牧師ですが、その前には植村正久牧師、山本秀煌牧師の伝道がありました。彼らの教えを思い起こし、祈りつつ、教会創立までの期間を過ごし時があったのです。

弟子たちも40日間にわたって、主が神の国について話されたことを思い起こしながら、エルサレムにとどまって祈りました。祈りの中、でイスカリオテのユダの死によって欠員の出た12人目の使徒を選ばねばならないことが示されました。そして、くじで決めるという仕方によって、神の御心を求めたのです。

そのようにして、主の昇天から聖霊降臨までの10日間を過ごしました。次週ペンテコステを迎えるわたしたちも、今まさにこの時を過ごしています。聖書を通して、イエス様の教えを思い起し、祈りつつ聖霊を待つのです。

宗教改革者マルティン・ルターは、「キリストが一番近くある時が一番遠く、一番遠くにいる時に一番近くにいる」と言いました。わたしたちは、聖書の弟子たちのようにイエス様とお会いしたいと思うことがあるでしょう。復活されたイエス様が40日とはいわず、ずっと地上にとどまり続けたらとどれだけよいことかと。でも、そんなに単純なことでないことも分かっている筈です。会えたとしても、テレビやネットを通してとなるのか。そもそも、人となられたイエス様が、2千年間も聖書の年齢のまま生きていること自体考えられないことです。一番近くにいるようで、決して近いとはいえないのです。

では、天に昇られたイエス様は、わたしたちの遠い存在となられたのかといえば、そうではありません。天高く、わたしたちの見えないところに昇られたので、直接手で触れたり、目で見たりはできません。しかし、天に昇られたことで、天の門が開かれたのです。そして、約束された聖霊がわたしたちの弁護者、助け主として送られました。弁護者なる聖霊、真理の霊であられる聖霊については、来週のペンテコステ伝道礼拝で、北川美奈子先生がお話くださると思います。イエス様はわたしたちのものち聖霊を送られるために天に昇られたのです。ここに昇天の大きな恵みを見ることができます。

ところで、イエス様が昇られた天とは、いったいどこにあるのでしょうか。今日の使徒言行録の記述からすれば、天高いところと考えざるを得ません。しかし、空を見上げて青空のかなた、夜の星空の向こう側に天があると考える必要はありません。わたしたちの想像しうる物理的な空間のことではなく、人間の目に見ることができないところ、見えないからこそたいせつなところに行かれたことを意味します。

わたしたちは使徒信条で「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり」と告白しているように、天というのは、父なる神のおられるところと考えたらいいのです。クリスマスの日、天の神のみもとから来られたお方が、神のみもとへと帰られたのです。

けれども、イエス様は、天の父なる神の右の座にどっかりと腰を下ろされているのではありません。イエス様は、ヨハネによる福音書14章13節で語っておられるように「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と約束されました。実に気前のいい約束です。わたしたちは「イエス様の御名によって」祈りを捧げますが、これは形式的なことではなくイエス様のこの約束があるからです。イエス様としては、この約束を果たすために、神の右の席にゆっくりと腰をかけている暇はありません。わたしたちは礼拝で会衆の祈りをしますが、イエス様は、わたしの名によって、あの人祈り、この人の祈りをお聞きくださいと、父なる神に執り成してくださっています。

日曜日だけではない。あそこでそっぽを向いて、祈ることも忘れている人がいるけれど、わたしの名によってゆるしてください。洗礼を受けながらも、誘惑に負けてしまった人がいる。どうかわたしの十字架の贖いのゆえに、罪を赦してください。わたしたちは、そういう主のすがたを思い起こしながら「イエス・キリストの名によって」祈るのです。そこにも、主の昇天の恵みを数えることができます。

そして、主の昇天の恵みとしてさらに加えたいことが、これもヨハネによる福音書14章、イエス様の弟子たちへの告別説教の冒頭の言葉です。イエス様は、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と言われました。

わたしは、この言葉を納棺式の時に読むようにしています。納棺するということは、住む場所を移すことです。大切な人との別れは、誰にとっても大きな悲しみがあります。弟子たちも、イエス様が天に帰られると聞いた時、悲しみに塞がれました。そのような弟子たちに向かって、イエス様は「わたしの父の家」、すなわち父なる神のおられる天に帰って、弟子たちが住むための場所を用意しに行くと言われたのです。

信仰者の死が、イエス・キリストの昇天とは字が違いますけれども、「召天」、天に召されると表現される根拠がここにあります。信仰者は天に昇られたキリストに召されて天に行くのです。天に昇られたイエス様が、わたしたちのために「場所を用意して」くださるとは、何という恵みでしょうか。ゆえにわたしたちにとって死は空しいものとはなりません。

イエス様が昇られた天は、父なる神がいますところです。イエス・キリストの昇天は、このような素晴らしい祝福をわたしたちに約束しているのです。イエス様が天に昇られたことで、人間の罪によって閉ざされていた天に至る門が、開かれることになったのです。