詩編16編7~11節、ルカによる福音書16章10~18節
「富からの自由」 田口博之牧師
ルカによる福音書16章の「不正な管理人のたとえ」は、イエス様のたとえ話の中でも、もっとも理解しにくいものです。主人のお金を管理していた人が不正を重ねます。ところが主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたというのです。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とまで言われています。不思議です。これほど不思議で、解釈が難しいたとえ話をイエス様がされたことの面白さを先週の礼拝でお話しました。
世の中にはほめ上手な人がいます。たいていの人は、自分がほめられると気分のよいものです。叱って育てるのではなく、ほめて育てることが推奨される時代です。人はほめられることで、多少は天狗になるかもしれませんが、叱ってシュンとされたり反発されるよりも、機嫌よく育ってもらったほうがいい、そんな思いにもなります。この主人がほめ上手と言ってよいのかは分かりませんが、気前がいいことは事実です。何とご褒美まで用意してくださっているからです。しかも、永遠の住まいに迎え入れてもらえるという最高のご褒美です。
ある牧師は、このたとえ話を説教するとき、「もう一人の放蕩息子」という説教題をつけると言っていました。確かに、主人の財産を無駄使いしているということで15章の放蕩息子としていることと変わりありません。特に悔い改めたわけでもない。力仕事もしたくないし、物乞いするのもプライドがゆるさないと思ったのです。それでも彼は何とかしようと考えたのです。放蕩息子もそうでした。雇い人でもいいからお父さんのところに戻ろう、そう考えたのです。このことについて、放蕩息子は言い訳を考えただけだと言った牧師もいます。でも、実際には言わなかった。そういう意味でもずる賢いのだと。でも、そんな息子を父は丸ごと迎えたのです。この管理人の主人も同じです。そんな主人のおおらかさが、このたとえを通して語られているのだと言ってもよい。
わたしたちは、この話を理解しにくいと考えますが、それとは別の反応を示す人がでてきます。14節のファリサイ派の人々です。「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」とあります。彼らは放蕩息子のたとえ話を苦々しい思いで聞いていましたが、その場を立ち去ってはいなかった。イエス様が弟子たちに話していたことを聞いていて、今度は一体、何てくだらない話を弟子たちにしているのかとあざ笑ったのです。
皆さんはあざ笑われたという記憶があるでしょうか。わたしはあります。はっきり覚えているには中学3年のとき、名古屋から四国の松山に転向したとき、言葉の問題でした。どういうシチュエーションであったかも鮮明に覚えています。でもあざ笑った方は、次の瞬間には忘れてしまったでしょう。それほどのことなのです。やられたことを忘れないのは、人間の執念深さなのでしょうか。
聖書でこの「あざ笑う」という言葉が出てくるのは、十字架につけられているイエス様を見た人々があざ笑う場面です。かなりの侮辱だといえます。そのように嘲笑うファリサイ派の人々に対して、イエス様は言われます。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」と。ファリサイ派の人々は、自分を正しい者と見なすばかりでなく、それを見せびらかしました。神によってではなく、信仰によってでもなく、自分で義とされると思っていたのです。イエス様はそんな彼らに警告を発します。
不正な管理人とファリサイ派の人々の違いはと言えば、管理人は自分の正しさを主張するようなことはしていないということです。人は自分に非があったとしても、そのようにしたことの正当性を見つけて言い訳しようとします。でも不正な管理人は言い訳しない。彼がしたのは、不正な富を用いて自分の将来に備えるということでました。
「不正にまみれた富」という言葉が、9節と11節に出てきます。この言葉を聞いてわたしが思ったこと。皆さんとは違うかもしれませんが、それでは「不正にまみれていない富」があるのかということでした。確かに正当に働いて得た収入であれば、不正にまみれた富だとは思えないし、思いたくもないでしょう。人をだまして得たお金であれば、不正にまみれたといえるかもしれません。
先週来、山口県で4千何百万かのお金が町から誤送金されて、ネットカジノで使い果たした青年の事件が話題となりました。そこで消えたお金は、ギャンブルに使ったから不正なのか、いや間違って振り込まれた時点で不正なのか、いやそもそも、手にしているお金を眺めて、これは不正でこれは不正でないなどという区別ができるものでしょうか。「不正にまみれた富」とは、わたしたちが、この「地上で得た富」のことだと考えればいいのです。
その地上で得た富の中から、わたしたちは献金として捧げます。以前のことですが、「献金の祈りで『清めてご用のためにお使いください』という祈りがされることがあるが、とても気になる」と言ってこられた方がいました。その人は、「まるで、わたしたちがする献金には不正なものがあるかもしれないので、清めて用いてくださいと言っているように聞こえる」と言われたのです。そういう意味ではありませんとお伝えしました。献金は神様に捧げるために取り分けられた時点で、わたしたちは聖別しているのです。わたしたちが今週も生かされて神の前に進み出ることができた。そのことへの感謝と、この1週間もあなたに従って歩みますという献身の思いを、献金というしるしをもって神にささげるのが献金といういたって信仰的な行為です。それを神様の栄光があらわされるようにお用い下さい。そのような捧げものです。
献金はどのくらいすればいいのかと聞かれることがあります。これも昔のことですが、自分は年金生活になったから半分にしますと言われた方がいました。それを聞いて、あんたは退職金のどれだけを感謝献金したのか、わたしは下げることをしないと言われた方もいました。でも、あまり信仰的な会話だとは言えません。献金が感謝の捧げものではなくなってしまいます。
献金は、これをささげると痛いと思えるくらいがちょうどいいのです。イエス様は13節で「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われました。「富」とは、ギリシャ語では「マンモン」ですが、お金に代表される「頼りになるもの」という意味の言葉です。その頼りになるものの総称が、「富」であり「お金」です。富は、わたしたちを神から離れさせる力にまみれています。その意味で不正なのです。富をたくさん持てば、自分が神になったような錯覚をしてしまうほどです。そのような富を自分の手から離して神にささげる、それが献金なのです。
繰り返しとなりますが、「不正にまみれた富」と対比されるのは「不正にまみれていない富」というものではなく、11節にある「本当に価値あるもの」のことを言うのです。また、「不正にまみれた富」とは、10節の「ごく小さな事」に対応しています。そしてこの「ごく小さな事」と対比されるのは「大きな事」です。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」と書かれてある通りです。
イエス様はこのたとえを通して、わたしたちの人生は、富に支配されがちだけれど、富というのは実は小さな事にすぎないことを伝えているのです。あなたがたは、その小さな事に右往左往していないか。そうするあまり、大きな事であり、本当に価値あるものを見失っていないか。イエス様は、そういうことを問われているのです。
わたしたちは、これはあくまでもたとえ話だということを忘れてはなりません。イエス様はこのたとえに出てくる管理人の不正をほめたのではなくて、先のことを考える抜け目なさをほめたのです。その先のこととは、9節の「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」ことを言っています。それが大きな事であり、本当に価値あるものです。
イエス様は、この管理人のしたことを通して、光の子であるあなたがたは、この世の子らのような知恵を持ちなさい。地上での命を終えて、神のさばきを受けるときのことを見据えながら生きることのたいせつさを教えられたのです。それこそが大きな事なのであって、その時にどう備えるかを考えながら生きることで、わたしたちの地上での生活の在り方が変わってきます。それが終わりから今を生きるという生き方です。
現実問題として、富の問題は、わたしたちの人生においては小さな事ではなく、大きな問題だといえるでしょう。でもその大きさは人によって違います。それはその人がお金を持っているか、持っていないかということで違うわけではありません。その人の心の中に、どこまでお金の問題が比重を占めているかなのです。その比重が多い人ほど、会話の中でお金の話が出てきます。それだけお金の問題に心を奪われているということでしょう。
イエス様は13節の終わりで「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とはっきり言われています。これまでの言い方だと「富に仕えることができれば、神に仕えることができる」と考えたくなりますが、忠実であることと仕えることには明確な区別があります。
イエス様は富の問題が人間にとっては、いかに大きな事でも小さな事ととらえているのは、富はこの世のものに過ぎないからです。しかし、神はこの世を超えています。わたしたちの生も死も支配しておられます。ですから「神と富に仕えることはできない」というと両者が対立しているもののようにも思えますが、そもそも比較できるものではないのです。だから同じように仕えることはできない。
実はファリサイ派の人々があざ笑ったのは、たとえ話ばかりではなく、イエス様が最後に言われた「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」という言葉に反応したからです。なぜならファリサイ派の人々は、神に仕える者は、その報いとして富を得ることができると教えていたからです。彼らにとって、富を所有できることは、神の祝福のしるしだったのです。確かに旧約聖書には、そのように読める記述もあるのです。
しかし時代は変わったのです。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ」と言われるとおり、新しい時代がやってきました。マルコ福音書によれば「ヨハネが捕らえられた後」、イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教を始められました。
18節で妻を離縁する話が出てくるのは、何か唐突に思われるかもしれません。でもここにイエス様の新しさがあります。旧約聖書には再婚についての規定が出てもありますが、夫が妻を離縁させることは難しいことではなかったのです。ファリサイ派はそのことを肯定していたのです。イエス様がここで言われていることは、離婚問題の是非ではなく、結婚は聖なるものであるということです。ファリサイ派の人々が、その基礎になる部分を軽んじていることの問題性を指摘したのです。
わたしが結婚式のオリエンテーションをするのはただ一点。「神が合わせられた二人であるかを、信じることができるかどうか」です。信じることができないと、誓約できないはずだし、それではとうてい司式することはできない。そして、お金との問題の兼ね合いでいえば、離婚問題と財産の問題は密接に絡んでいることは、わたしたちも想像がつくことではないでしょうか。
友人の結婚式に出たとき、クリスチャンの先生がされた祝辞を今も覚えています。健やかな夫婦生活を続けていくうえで、健康のたいせつさを語られました。そしてお金の大切さも語られました。健康を損なったとき、お金がないと医者にもいけない。でも、それ以上に大切なものは愛なのだと。「信仰と、希望と、愛」を置き換えるかのように、「健康と、お金と、愛」その中で、もっとも大いなるものは、愛であることを伝えられました。
このあとで全体集会が行われますが、教会のこれからについて、それぞれの思いを語り合います。教会はキリストの体であり、わたしたちは教会の体の一部です。わたしたちが教会に何を期待し、何をしてほしいかではなくて、名古屋教会が神の栄光をあらわす教会であるために、わたしたちできることは何かを深めていければと思います。
わたしたちの健康もわたしたちの富も、わたしたちのものではなく、神から預かっているものです。神から管理を委ねられているものとして、神と教会のために用いていただく人生を歩みたいものです。富に支配されるのでなく、富から自由になって。