イザヤ書25章6~10節 使徒言行録1章12~14節
「その時を待つ」

次週は聖霊降臨日、ペンテコステです。名古屋教会では、神奈川の地より山北宣久先生をお迎えして、ペンコステ伝道礼拝Ⅰを行います。この日からペンテコステ伝道月間に入り、3回の伝道礼拝と花の日家族感謝礼拝を親子で祝います。そのためのチラシを作ったり、午後の囲む会の計画をしたり、色んな準備をしています。ペンテコステとはギリシャ語で50を意味する言葉です。ユダヤ教では過越祭から数えて7週目、すなわち50日目に刈り入れの祭りが行われますが、この日、信じる者の群れに聖霊が注がれました。ゆえに、わたしたちはイースターから数えて7週、すなわち50日後にペンテコステ礼拝を祝うのです。

ペンテコステに向けて準備を開始するのは、2月の長老会、次年度の伝道計画案を出す時です。その時に説教や証しする人、候補者を決めて、色んな準備を重ねてきました。そして、伝道計画が承認された3月の第一次総会の頃には、午後に先生を囲む会を行う。そこでは食事も出せそうだということになり、係の方たちはとても張り切ってメニューを決めて、準備万端整ってきているようです。教会の交わりというのは、何といっても礼拝の交わりですが、教会は初めの頃より、皆で共に食事をすることをたいせつにしてきました。

カトリック教会に晴佐久正英という司祭がいます。もう15年以上経ったと思います。晴佐久神父が行くところの教会が、どんどん受洗者を生み出しているということで、いったいどんな説教をしているのかと説教塾でも分析したことがありました。わたしは原稿を作って話をしていますが、晴佐久神父は原稿なんか作りません。まったく自由に喜びをもって福音を語っています。

コロナ前2019年の秋のこと、中部教区の教師部が主催する教区一泊教師研修会の講師として、晴佐久神父をお呼びしました。そのときの主題は「福音家族」でした。かつて出版もされた「福音宣言」も話題となりましたが、それの発展形だと思い、わたしも期待して参加しました。晴佐久先生は、二日間の講演会、普段の説教がそうであるように、原稿なしで自由に語られました。

ところが、「福音家族」というテーマで何が語られたのか。それは「一緒にごはんを食べること」でした。これがいかに素晴らしいことであるのかを、二日間ひたすら語られたのです。家族であれば何の疑問もなく、一緒に食事をしている。聖書にも、イエス様が罪人を招いて食事した記事がいっぱい出ている。では、教会ではそれが出来ているのか。この実践に生きること、誰とでも家族になること。これが現代の問題に向きあうためシンプルな答えとなる。神の国にいたる道なのだと言われたのです。

どうでしょう。想像できたかもしれませんが、晴佐久神父は教会の愛餐会の話をしたのではありません。一緒にごはんを食べる人には幅があるのです。その意味で挑戦的なメッセージです。名古屋教会では受け入れられないような話のような気がします。誰がそれをするのか、牧師にそんな時間があるのか、場所はどこでするのか、そんな話にきっとなるだろうな。そんなイメージしかわきませんでした。神父とは対面で夕食を囲みましたが、難しいと分かっているようなことを言うと、ほんとうにそうなのかと残念そうな顔をされました。福音家族になるチャンスがそこにあるのに、それでいいのかと。事情も分からないのに、そんなこと言うなと思いつつも、ポストコロナで教会の食事会を再開しようとする段になって、あのときの神父の言葉と表情を思い出しています。

ところで、わたしたちは、ペンテコステ礼拝があと1週間後にあることが分かっているから相応の準備ができています。今週の火、水は中部教区総会です。4年振りの二日間の総会ですが、よく準備をしてきたつもりでも、色んな抜けがありそれを埋めねばならない状況が生まれています。そんなさなか、金曜の朝早くに川村詩子さんの訃報が入りました。ご家族にとっては準備が出来ていたわけではありません。今日明日と前夜式、葬儀をしますが、どういう葬儀にするか決めていたわけではないのです。いつかこの日が来ることが分かっていても、楽しいことと違って、悲しいことは先延ばしにする。人間はそんな自己防衛力をもっています。しかし、その日その時は突然やってくるのです。

使徒たちは復活されたイエス様と40日間過ごしました。ここでもう神の国が来ると思いました。しかし、イエス様は天に昇って行かれたのです。使徒言行録は1章6節以下にイエス様昇天の記事があります。そのときにイエス様は、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と約束されました。

ここでイエス様は、聖霊降臨を約束されました。しかし、それがいつ来るかは何も言わなかったのです。わたしたちとの違いがそこにあります。ペンテコステを迎えることは分かっていても、聖霊がいつ降るのかはまったく知らされていなかったのです。

弟子たちはどうしたのか。それが語られるのが今日の12節以下です。イエス様が天に昇られたオリーブ山からエルサレムに戻った使徒たちは、「泊まっていた家の上の部屋」、つまり二階に上がりました。ここはイエス様が十字架につけられる前夜に弟子たちと過越の食事をしたところ、最後の食卓を囲んだ部屋です。ここの部屋でいったい何をしていたのか。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」とあります。ペトロ以下、ここに名前の出ている使徒たちのだけでなく、婦人たち、すなわちイエスの十字架と復活を目撃したマグダラのマリアら何人かの婦人たち、そしてイエスの母マリアやイエスの兄弟たちも一緒に、「心を合わせて、熱心に祈っていた」というのです。

この「熱心に」と訳されたギリシャ語には、固着するとか持続するという意味があります。新しく翻訳された共同訳では、「ひたすら祈りをしていた」と訳されました。これはいい訳だと思います。「ひたすら」とは、その一点に集中するということです。この祈りの姿勢は、一時的、熱狂的なものではありません。熱くても、炭火のようにいつまでも燃え続けている、粘り強い祈りをしたのです。

このように集まった者たちが、心を一つにひたすら祈り続けたことが、ペンテコステ、聖霊が降ることへの準備となりました。ペンテコステは教会の誕生日と呼ばれますが、何もないところ、突然、爆弾が落ちるようにして、聖霊が降って教会が誕生したのではありません。すでに祈りの群れがあったことを忘れてはならないのです。子どもが誕生するときも、母の胎の中で10か月間過ごす。命はすでに宿っています。この間、親、家族は子どもが元気に育って、生まれてくることを祈っているのではないでしょうか。そして時が満ちて、赤ちゃんが生まれる。そういう祈りの準備があるからこそ、誕生が喜びとなるのでしょう。

このとき、皆が心を一つに何を祈っていたのか。約束の聖霊を待つ祈りでしたが、祈りの中で示されたことがありました。今日は読みませんでしたが、この後で使徒の一人となるはずであったイスカリオテのユダの死が語られています。ですから、13節で「ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった」と使徒たちの名が記されていますが、数えたら11人しかいないのです。

教会の創立記念礼拝でマタイ福音書の最後、28章16節以下を説教しました。イエス様を礼拝したのは11人で、イエス様は欠けのある11人に「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と大伝道命令を出したというメッセージしました。だから、わたしたちは欠けていることを恐れる必要はないのだと。

しかし、今日のテキストから、この命令を聞いた彼らは、欠けのある11人ではだめであることが、祈りの中で示されたことが分かるのです。神の民、イスラエルは12部族でありました。ですから、使徒は12人いなければ、新しいイスラエルこと、新しい神の民は築くことができないのです。ゆえに彼らのうちの「だれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」と発言し、彼らは12人目の使徒マティアを選んだのです。

これは祈りの中から生まれた行動です。わたしたちの中には、行動的な人にあこがれることがあるかもしれません。それに比べて自分は何もできない、祈ることしかできないと嘆くことがあります。しかし、それは間違いです。祈るということ自体が行動ですし、このときも祈りの中から、使徒を選ぶという行動が生まれたのです。その一方で、祈りのないところから生まれる行動は、言葉は悪いですが、ろくなものではないと思います。祈りなしの行動がいったい何をもたらし、世を混乱させているのか。

そのことを思うときに、願いと祈りの違いが分かってきます。確かに、祈願という言葉があるように、願いという祈りはあるでしょう。しかし、わたし自身は「祈りと願い」を使い分けています。すくなくとも、自分の目的をかなえることが表に出ているもの、ああしたい、こうなりますようにというのは願いであって、祈りではない、そう思っています。今月の名古屋教会幼稚園の聖句は、「主よ、お話ください。僕は聞いております」です。これは少年サムエルの祈りです。サムエルのように、祈りは神の声に聞くことが最初です。自分の思いに聞くのでなく、神の御心に聞く。誕生会に出席している親にも、自分の子がこういう子に育つことを願う前に、この子がどういう子に育つことを神様に聞いてほしいと話しました。であれば、自分の願いを子どもに押し付けることはなくなります。ゲツセマネ、ルカの表現ではオリーブ山ですけれども、イエス様はこう祈りました「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」この祈りから十字架への行動が生まれました。

彼らの祈りなしに、この祈りによって12人目の使徒を選ぶことなしに、新しい神の民が誕生することはなかったのです。そして、聖霊が降ることもありませんでした。彼らの熱心な祈りが神を動かしたと言ってもよいかもしれません。では、彼らの祈りはすべてかなえられたのでしょうか。

実は、イエス様が昇天のときの約束は、聖霊降臨だけでなかったことを知る必要があります。その約束とは11節です。「白い服を着た二人の人」すなわち主の天使を通して、神は「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」そう約束されたのです。聖霊降臨に加えて主の再臨が約束されていた。

わたしたちは今、聖霊の時代を生きています。聖霊の時代とは再臨前の時代です。それがもう2千年近くも続いています。しかし、主は再臨の約束を遅らせているわけではないのです。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」。そういう神の時を、わたしたちは生きています。ペンテコステに生まれた教会は、主の再臨の日に向かって歩み続けます。

使徒言行録2章12節以下に、ヨエルの預言があります。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊のすべてを注ぐ」で始まります。神が言われるわたしの霊とは、聖霊です。ペンテコステによって誕生した教会は、終わりに向かう時代に生きています。そして、終わりの日の完成、聖霊がすべて注がれるとき、「すると、あなたの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見ると」いうのです。この言葉からも、聖霊の時代は、始まっているが完成はしていないことが分かります。わたしたちは、この運動を止めてしまうことはできません。その時を待つ、祈りという運動を続けるのです。

イザヤは預言しました。25章9節「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」と。その日が来れば、何が起こるのか。8節にあるように、神が「死を永久に滅ぼしてくださる」のです。「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる」のです。そこに教会の希望があります。わたしたちは、その日が来ることを待ち望みつつ、生きていくのです。欺くことのない、聖霊によって与えられる希望を生きるのです。