聖書  詩編115編1~3節  使徒言行録12章1~17節
説教 「祈りの共同体」田口博之牧師

今日は名古屋教会の創立137周年を記念する礼拝です。1884年5月3日に信徒28名で教会建設式を行ったという記録があり、それゆえにこの日を創立日とし、以来5月第1聖日を創立記念日礼拝としてきました。わたしも数年前より、この日の礼拝を創立記念日礼拝という意識をもって話すようになりました。教会史作成を発案したことが理由です。そして、今年の1月に「名古屋教会100年史」に続く、35年の歩みを記録した「教会史」を発刊することができました。

3月の第一次総会で、100年史以降の35年間、名古屋教会がどう歩んできたかを、9月の全体集会で振り返りの時を持つことが新年度計画でも承認されました。教会史が出来てよかったね、で終わりにしてはいけないのです。9月ですから4か月後です。各委員会や団体で、あるいは個人でも振り返って全体集会に向けた準備を始める必要があると思っています。

たとえば教会史の2017年度のページには、牧師館解体のことが小さく記されています。先週の教会総会で、牧師館に関する質問がありましたが、そこもテーマとしていいでしょう。解体した直後の全体集会でも牧師館のことをテーマとしましたが、その時はまだ15階建のマンションが建つ前であり、今も窓を開けると見えますが、9階建てのビルが工事中です。牧師館の佇まいという表現が委員会報告にありましたが、教会周辺の佇まいもこの4、5年の間で随分変わってきたのです。

総会でも意見をいただいた牧師館の役割については、裁判でも大きな争点となりました。判決言い渡しの前に事前記者レクという時間を持ちました。そのときに、NHKか共同通信の記者かどちらかでしたが、「牧師館という言葉を初めて聞いた」と言われ、「寺社でいうなら社務所ですか」と聞かれました。社務所はガリラヤかなと思ったので、「庫裏に当たると思う」と答えました。

11月の裁判の弁護士の主尋問で「牧師館は最初から教会と共にあったのか」と聞かれることが想定されていました。偽証はできませんので、調べました。解体した牧師館がいつ建ったのかは登記簿で分かりました。1972年、この会堂ができる後のことです。では、建つ以前はどうだったのか、複数の方に聞き取りをしましたが意外に曖昧で、結局は記憶でなく記録頼りとなりました。それと共に「最初から教会と共にあったのか」と問われれば、130年前はどうだったのかも調べたおく必要があります。100年史をよく読むと、第一会堂が完成したとき、すでに牧師館が併設されていたことも分かりました。ではなぜ、教会と牧師館が一緒にあったのでしょうか。実はその問いについては、聖書から分かることなのです。

使徒言行録12章5節に「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」と書かれてあります。ここでいう「教会」は、いったいどういう教会だったのでしょうか。場所はエルサレムです。エルサレムには今もいくつか教会が建っていますが、聖書の時代の教会を改修したというところはありません。たとえば聖墳墓教会がありますが、ゴルゴタの丘がここにあったと言われるところを記念して後の時代に建てられた教会です。他にも聖書の物語にちなんだ教会がいくつかありますが、そこは聖書に「教会」として出てくる教会とは異なります。

教会はペンテコステ、聖霊降臨の出来事によって誕生しました。そこで誕生した教会はエルサレム旅行で見学できる教会のようではなく、また名古屋教会ほど立派な造りの教会ではありませんでした。そもそも建物はなかったのです。最初のペンテコステの日のペトロの説教を聞いて、その日のうちに3千人ほどが仲間に加わったと聖書(使徒2:41)は記録しています。彼らは洗礼を受け、エルサレムの教会の教会員となりました。しかし、3千人が集える建物を持つ教会があるはずがありません。

では、どうだったのか。使徒言行録2章の終わりを読むと、「信者たちは・・・毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」とあります。彼らは神殿での礼拝を続けていましたが、それと共に「家ごとに集まって」書かれてあるように、当時の教会は家ごとの集まりでした。

ですから、裁判で牧師館のことが問われたときにも、時間さえあれば教会の成り立ちのことから話をしたかったのです。教会の中心メンバーの家に仲間が集まって礼拝し、やがてその家に牧師が住むようになりました。教会の成り立ちからいえば、そこが始まりでしたので、そもそも、一体のものだったのです。

「教会では彼(ペトロ)のために熱心な祈りが神にささげられていた」とありますが、この教会がどこかといえば、12節にある「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」でした。「そこには、大勢の人が集まって祈っていた」のです。この家は、今もエルサレムに旅行すれば、コースに入っています。13世紀の十字軍の時代に再建されたところで、この2階の部屋に使徒たちが集まり祈っていたときに聖霊が降った。また最後の晩餐が行われていたのもここではないかと言われています。現地でもそのような説明がされています。

この「マルコと呼ばれていたヨハネ」その人が、初代教会にとって大切な働きをしました。バルナバとサウロが第一次宣教旅行をしたときに同行した記録が出てきます。マルコによる福音書の著者だとも言われています。また彼の母の名がマリアだと記されているとおり、エルサレム教会の中で大切な働きをした女性であったと思われます。日本でもいくつかの教会で、ほんとうに頼もしい「教会のお母ちゃん」と呼べる方がいます。そのような方の働きにより、教会が支えられているというケースが少なくありません。

大勢の人が拠点となる家(教会)に集まって祈る姿は、祈りの共同体としての原点を見る気がします。しかも、このときの祈りは深刻でした。皆は投獄されたペトロのために祈っていましたが、その背景に教会への迫害があったのです。12章の初めに「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」とあります。殺されたヨハネの兄弟ヤコブとは、十二使徒の一人、ゼベタイの子ヨハネの兄弟のヤコブです。使徒の中での最初の殉教者となります。しかも、ヘロデ王による迫害なのですから、ユダヤ教ではなく国家権力による宗教弾圧と呼べるものです。11章26節に「このアンティオキア教会で、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」と書かれてあります。クリスチャンという言葉が生まれていました。エルサレムとアンティオキア、場所は違うとはいえ、ユダヤ教の一分派としてでなく、新しい教えと捉えられた上での迫害です。

ヤコブに続いてペトロが殺されるとなれば、教会は大きな柱を失うことになります。皆が教会に集まり熱心に祈りました。祈りの共同体としての原点であり、皆が集まって祈ることにおいて祈祷会の原点ともいえます。家での集まりということで、もより会の原点ともいえます。心を合わせて一生懸命に祈ったことでしょう。迫害に対して、武器ではなく祈りで抵抗するしかなかったのです。

6節以下にはペトロ救出劇が記されています。絶体絶命のペトロを主の天使が助けてくださるくだりは、現実離れしていて、あまり歓迎されない話しのように思います。ペトロ自身、天使の言われるままに行動しましたが、現実のこととは思えず、幻を見ていると思ったほどです。ペトロは天使が離れ去って初めて、「主がわたしを救いだしてくださった」ことが分かりました。大事なことは、こうした奇跡的な出来事の背後に教会の祈りがあったとことです。

祈られているということは、大きな支えとなります。牧師になってかなり経ちましたが、どうにかこうにかであっても、毎週説教をしています。不思議なことですが、あるときに、これは教会員の祈りがあるからだと気がつきました。説教を作ること自体は苦しいですが、自分のために祈ってくださり、そして説教に耳を傾けてくださる人たちとの再会が待ち遠しくなりました。ペトロもまた、教会の皆がヨハネ・マルコの母マリアの家で祈っていることが分かっていました。行ってみると、大勢の人が集まって祈っていました。

実は、わたしがこの箇所でいちばん興味深かったこと、これは皆さんにも是非覚えて欲しいいことですが、聖書はこの箇所を「祈りの共同体」としての信仰深さ、力強さを語っているのではないということなのです。「祈りが聴かれた」というような言葉もまったく出てきません。この先、13節から16節を読んでみます。

「門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。」

気づかれたでしょうか。教会の人々は、ペトロが帰ってきたのを見て、「祈りが聴かれた」と歓喜したわけではないのです。祈っていた人々は、女中ロデの証言を信じていません。ペトロがドアのところに立っているのを見て、ただ驚いただけなのです。つまり、ペトロが解き放たれることを熱心に祈りながらも、実際にこんな祈りが聴かれるとは思っていなかったということです。

これは他人事ではないのではないでしょうか。先週も「希望をもって祈る」ことの大切さをお話しましたが、このとき皆は一縷の望みは持っていたでしょう。と同時に、祈りが聴かれなかったことの失望から逃れるため、過度のショックを和らげるような安全地帯も設けていたと思うのです。実際に祈っていたのにヤコブは殺されてしまった。教会にとってそのショックは大きく、ペトロもとなると耐えれそうにない。わたしたちも、上手く行かないことを前提にして祈ることはないでしょうか。それが健全な祈りかといえば、そうだとはいえません。祈りは呼吸だといっても、どこか息が上がっています。祈りは対話だといっても、どこかに後ろめたさがあります。

しかし、だからこそです。熱心に祈ったと言っても、どこか中途半端で、口先だけになることもある。大事なことは、そんな祈りであっても、神はご自身の憐れみ深さのゆえに聴いてくださっているということです。ペトロが助けられたこともそう、また先の裁判もそうなのです。その意味で「祈りが聴かれた」というのは、決してわたしたちに手柄などというものではないのです。そうでなく、神がそのような祈りであっても耳を傾けてくださっているからです。

わたしたちが希望をもって祈ることができるのも、わたしたちの思いを越えて素晴らしいものを与えてくださる神様に希望があるからです。だからこそ、祈りに生きることができるのです。