ルカによる福音書16章1~13節
「管理者のつとめ」田口博之牧師

ルカによる福音書15章で、見失った羊、無くした銀貨、放蕩息子の三つのたとえを通して、失われたものは見つかるまで探し出される途方もない神の愛を学びました。ところが、16章に入るとこの世的な話になってきます。具体的にはお金の話です。16章は、イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた」で始まります。14節は「金に執着するファリサイ派の人々が」で始まり、19節も「ある金持ちがいた」で、話が始まるのです。15章がルカの頂点、山の頂きだとすれば、16章は俗世に一気に駆け下りたかのようなギャップを感じます。

さて、今日の「不正な管理人のたとえ」という小見出しがついたイエス様のたとえ話ですが、皆さんはこれを読んでどう思われたでしょうか。イエス様のたとえ話の中でも理解しにくいという評価の高いたとえ話です。8節の「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」という言葉。さらに9節の「不正にまみれた富で友達を作りなさい」という言葉。キリスト教とは、こういう教えをするのかと思われてしまうと困ります。信仰生活の長い方にとっても、イエス様は何を言おうとしているのか、よくわからないというか、不思議な気がするのではないでしょうか。

わたしの言葉で内容をおさらいしてみます。あるお金持ちにお金の管理をしていた人がいました。ところがこの管理人は、主人の財産を無駄遣いしていたのです。そのことが主人にバレてしまいました。主人は管理人を呼びつけて、チェックするために会計報告を出すよう命じたのです。不正が明らかになれば、管理人の仕事も続けることができなくなります。

この管理人は、どうしようかと考えました。仕事がクビになったら、自分には力仕事は出来ないし、だからと言って、物乞いをするのも恥ずかしい。考えた末に「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」と、次の食い扶持を探すために、この管理人は主人に負債のある人を呼んで、油百バトスの借りのある人には、借用書を百バトスから、五十バトスに書き直させ、小麦百コロスの借りのある人には、八十コロスに借用書を改ざんすることで、負債を減額させたのです。

小見出しのとおり、この管理人は不正を働きました。ところが「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」と言うのです。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とまで言っています。この主人、たとえ話なので神様のことですが、神様は不正を奨励しているように思ってしまいます。これをどう考えればいいのでしょうか。

わたしは聖書のこのテキストに触れたのは信徒だった頃ですが、そのときのことをよく覚えています。イエス様がこの不正な管理人をどう裁くのか、そういう視点で読んでいたところ、管理人を裁くどころか褒めておられることに驚きました。これは弟子たちへの教えですから、弟子たちに不正を働くのを奨励しているようにも思い、よくわからなかったのです。それで当時通っていた教会の牧師に、ルカ16章の「不正な管理人のたとえ話はどう理解すればいいですか」と尋ねてみました。すると速攻で、「そんなに簡単に説明できる話ではない」と言われてしまいました。今思い返せば困られたのだなと思いますが、忘れてしまわれたのか、結局説明を受けないまま、今に至っています。

そして、わたし自身も、この箇所で説教を聞くことも、することもないまま今日を迎えました。イエス様のたとえ話の中でも、とりわけ分かりにくく、皆さんも読んで戸惑われるだろうことも分かります。ただし、分かりにくいだけでなく別の視点もできてきました。それはなんて面白いのだろうという視点です。

礼拝でルカによる福音書を読み始めて2年半くらいが経ちましたが、ここまで読んできて気づかされたことは、ルカによる福音書というのは、四つの福音書の中でもお金の問題に関心があるということです。たとえば6章20節以下で、「幸いと不幸」について語っていますが、最初に「貧しい人々は、幸いである」と述べています。マタイはこれを「心の貧しい人々は、幸いである」と心の問題、精神の問題に置き換えて語りました。ルカが精神的な話をしたのではないということは、24節で「しかし、富んでいるあなたがたは不幸である」と言っていることからも明らかです。

さらに「今飢えている人は幸い」、「今満腹している人々は不幸」と言われていますが、これもマタイの山上の説教には出てきません。この他にも12章13節以下では、「愚かな金持ちのたとえ」を語っています。この16章では、ずっとお金にまつわる話をしています。19章ではお金持ちであったザアカイの物語が出てきます。すべてルカの独自資料です。

なぜ、ルカはここまでお金の問題にこだわっているのでしょうか。背景にはルカの共同体があります。使徒言行録もルカの執筆ですが、富める者が財産を差し出し分かち合うことで教会が形成されていった様子を伝えています。パウロが教会の信徒たちに宛てた手紙を書いたように、四人の福音書の記者たちは、それぞれ自分たちの教会の信徒たちにイエス様の福音を伝えるために福音書をまとめたのです。ルカがお金の話を色々としているのは、教会はお金の問題と無関係では成り立たないからです。

最近もある教会で、電気やガスが止められてしまったという話を聞きました。教会は世に立っていますので、献金が不足すればそういうことが起こりえます。そうなると、ここで礼拝することはできなくなるのです。今日も礼拝後に財務委員会をしますが、そこで扱うのはお金の問題です。教会の会計長老はお金の管理が大変です。わたしは教区でもそうでしたが、教団では予算決算委員会に属し、財務関係の奉仕をしています。日本基督教団では、これからの伝道を考えるために「教団機構改定」をしようとしています。そこで中心となるのは、やはり財政の問題なのです。名古屋教会も100万円近く、教区負担金を出していますが、その半分近くは教団への負担金になっています。各教会に負担とならないように教団の機構を改定しようという取り組みですが、なかなか道は険しいです。

お金のことは個人でも、家庭でも、企業でも考えることですが、教会でも考えないわけにはいかないのです。しかも今日のテキストの聞き手は誰なのか。よく話をすることですが、イエス様は誰に向かって話をしているのか、そこを踏まえた上で聖書を読むことが大事です。15章のたとえ話では、徴税人と罪人というグループと、ファリサイ派の人々や律法学者たちという二つのグループが聞き手となっていました。そこには弟子たちは出ていなかたのです。弟子たちはいなかったのではなく、イエス様の側にいたのです。きっと弟子たちはイエス様の後ろに控えるように、彼らはこの話を理解できるかなあ、そんな感覚で聞いていたのではないでしょうか。

ところがここでは違います。「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」と始まるように、180度後ろを振りかえって、弟子たちに向かって話し始めたのです。弟子たちに語られたということは、一般倫理を語っているのではないということです。それは教会の人たちに向かって語られたということです。お金の話は世俗的な話のようにとらえられがちですが、そういうことではないのです。むしろ8節で、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」とあるとおり、この世の知恵に学べと言われているようです。

しかしまさにそこに、このたとえ話の分かりにくさがあります。主人はなぜ、不正をした管理人のやり方をほめたのでしょう。不正をしたということと、ほめられるということがどう考えても矛盾します。でも、そこにこそこのたとえ話の面白さがあります。なぜ主人がほめたのか。そこにはこの管理の不正の仕方にあります。損得の話をすれば、主人は二重の損をしているのです。管理人は主人の財産を無駄遣いしていますから、その時点で損をさせているのです。そのことが判明したらクビになります。普通であれば、(普通かどうか分かりませんが)不正がバレないように会計報告を改ざんすることを考えます。粉飾決算です。脱税、節税のために利益を少なく見せようとする。罪を告白するようですが、わたしが父の会社の経理を任されたとき、こんなに赤字を出していては銀行借入ができなくなるので、見かけ上資産を増やして黒字に見せたりもしました。それはほめられるようなことではないのです。

この管理人は、どうすればいいか考えた末、主人に借りのある人の証文を書き直させました。これは会計報告の改ざんをしたことになります。ここで興味深いのはどのように書き直させたのかということです。管理人は無駄遣いして、主人の財産を減らしています。それがバレそうだと考えるとすれば、主人に借りのある人たちへの負債を増やすことで帳尻を合わせようとするのではないでしょうか。自分が無駄遣いしたことをごまかすことができ、クビになることを免れるかもしれません。

でもそういうやり方はしなかった。彼は逆のことをしたのです。主人に借りのある人の負債を減らしたのです。そのようなことをすれば、主人には二重の損をさせることになります。主人がそのことに気付けば、この管理人はクビになるだけでは済まないで、訴えられてしまうかもしれません。

ところが「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」というのです。その抜け目なさとは何でしょうか。「抜け目ない」と訳された言葉は、知恵、賢さを意味する言葉です。では、彼の賢さは何だったのでしょうか。彼がこのように証文を書き直させたきっかけは何だったのか。4節には、「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』」とあります。彼は主人に借りのある人らの借金を減額することで、彼らに恩を売ることで、再就職先を確保しようと考えたのです。

主人は、このやり方の抜け目のなさをほめているのです。実際には呆れるようなことをしています。仕事をクビになるだけでは済まないことをしたのです。なのに「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。」と言っています。分かりにくい言葉ですが、要は弟子たちに、この管理人のように賢く振る舞えと言っているのです。

いったい、彼がした抜け目のなさ、賢さとはどういうものなのでしょうか。彼は主人をごまかすことができないことを知っていました。そして、どうせなら、という思いで主人に借りのある人たちの負債を減らしました。聖書の罪という言葉は、負債とも訳せます。教会では「罪人」という言葉を使いますが、これは法律に違反する犯罪人というよりも、負債がある人のことを言います。誰でも、神に対して返すことのできない負債を抱えているのです。この管理人は、彼らの負債を軽くするように証文をごまかしたのです。その行為は不正といえますが、そのようにして彼らを助けたのです。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とは、そういうことです。彼らの負債を実際よりも軽くしたという意味の不正をしたのです。

10節以降は次週あらためて聞きます。段落を通して大切なのは13節の結論となる「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」ですが、9節の「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」という言葉が、このたとえ話を読み解く上で重要だと思います。

管理人は「不正にまみれた富」で友達を作りました。彼は主人に負債のある人の重荷を軽くすることで、次の就職先を考えました。彼から学ぶべきことは二つあります。その一つは、自分は主人からクビを切られるからもう駄目だと諦めなかったことにあります。彼は知恵をフルに使いました。模範的なことをしたとは思えません。もっと違うやり方があったと思います。でも、イエス様がすごいところは、こうした方がもっといいのにということではなく、彼なりの知恵を使ってしたことをほめたということです。しかも、あきらめずに新しい就職先を求めたことが「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」ことにつながるのだと言われているのです。「求めよ、さらば与えられん」です。

分かりにくいところは確かにありますが、それだけに面白さを感じています。キリスト教というと日本ではどこかお高くとまっているようなイメージがあるかもしれません。でもイエス様はいと高き天に留まるのではなく、地上に降りて来られました。まことの人としてこの世の子らと共に生きられたことで、この世の子らの知恵にも触れました。この世的だからと避けるのでなく、教会がこの世で生きていくためには、そこに学ぶべきことがあることを弟子たちに教えられたのです。

さふらん会の理事長となり、日本の福祉が国の制度、施策により振り回されていることを知りました。そのためには上手に加算を受けて補助金を得る知恵がないと経営は成り立たないのです。給料が安いのでここでは働けないなどということにならないように、明日も施設の管理者と共に人事考課研修を受けます。幼稚園の新制度への転換もそこが要でした。公的な補助を受けることで、キリスト教保育により公的な働きをしていることの自覚することは大切です。

そしてこの不正なことをした管理人から学ぶべきもう一つのこと、こちらのほうがより大事なのですが、この管理人は主人のことをよく見ていたということです。自分の不正はごまかせない。でもそれで諦めるのではなく、どうすればよいかと考えた上で不正を重ねましましたが、自分でばく他者を助けた。確かに主人に損はさせたけれど、それで主人は責めないことが分かっていたのです。

わたしたちは神様から様々なものを授かっています。何よりも命がそうです。神に与えられた命です。お金もそうです。仕事をしている人の中には、必ずしも自分が望んだ仕事をしているわけではないかもしれませんが、それでも仕事があって収入を得ることができるのは感謝です。礼拝では献金をしますけれども、お金も自分で稼いだといいながら神様から与えられたものであり、その一部を感謝してお返しする、それが献金の心です。ほかにも自分が持っているもの、時間もそうですね。与えられている時間をどこに使うのか、誰のために使うのかを考えたときに、与えてくださった神のために、また共にいる家族のために、あるいは困っている人のために用いる。自分を大切にするために用いることも忘れてはなりません。

何よりもキリスト者は、福音を授けられています。神様の救いの喜びを独り占めしない、大いに喜び、この喜びを分け与えていく。これは神が喜ばれることです。わたしたちは、神から与えられたものがたくさんあり、その管理者として生きているのです。

最後にコリントの信徒への手紙一4章 1節、2節を朗読して終わります。「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。」