エレミヤ書1:4-10
「召命」 田口博之牧師

イエス様は4人の漁師を弟子にしました。なぜこの4人だったのか、なぜ漁師だったのか、聖書には理由は記されていません。神様がこれと思う者をお選びになった。そうとしか言いようがないことです。少なくとも、この四人の資質、能力、性格を見て選んだのではないのです。ガリラヤ湖の漁師であった彼らには、教養も特別な財産もありませんでした。はっきりしていることは、神は自分を誇る者を選ばれることはないということです。

神の召しはいつも自由です。神の救いの歴史はアブラハムから始まります。なぜアブラハムだったのか、それは神にしか分からないことです。人間が誰かを選ぶときには理由があります。きっと、神にも理由があるはずです。しかし、聖書は何の説明もしていないので分かりません。御心によってお選びになったとしか言いようがない。しかし、はっきり分かることがある。神に召された人は、神の召しに応えた人だということです。神の召しに応えなかった人は、神が召された人ではなかったということです。

神はエレミヤを選び、召し出されました。神はエレミヤを知っていたのです。しかし、エレミヤをじっと観察し、預言者としてふさわしいから召し出したわけではありません。こう言われています。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。 母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」

幼稚園の誕生会やCSの誕生者祝福で歌う讃美歌があります。
「生まれる前から 神さまに 守られてきた友だちの 誕生日です おめでとう」
「生まれて今日まで みんなから 愛されてきた友だちの 誕生日です おめでとう」

神様はわたしたちがこの世に生まれる前、エレミヤに語った言葉でいえば、「母の胎内に造る前から知っていた」と言うのです。そして、「母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」と言われるのです。

驚くべき言葉です。しかも、ここをよく見ると、「主はこう言われた」ではなく、「主の言葉がわたしに臨んだ」とあります。「臨む」という言葉「ハーヤー」は、「語る」とは違います。主の言葉がわたしのところに臨んだ。言葉がやって来たのです。説教塾では「出来事の言葉」という言い方をしています。説教で語られた言葉、もちろん説教の中だけではなく、日常の会話の中で起こることもありますが、その言葉が、自分の生涯にとって決定的な出来事となるという経験がないでしょうか。

エレミヤにそのような神の言葉が臨んだのです。しかし、すぐには自覚がなかった。初めは召しを拒んだのです。「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」そう言って、神の呼びかけを拒むのです。

エレミヤばかりではく、モーセもそうでした。エレミヤは若さのゆえに拒みましたが、モーセは口の重さのゆえに拒みました。人はそういうことをするのです。何やかやと理由をつけて拒むことが上手です。若さのゆえに、老いのゆえに、力がないから、忙しいから、いろんな理由で拒みます。しかし、神はそのようなことは知っているのです。今の状況を知っておられるだけではない。母の胎にある前より知っておられるのは、エレミヤだけではないのです。わたしたちも知られています。どうして今なのかと思うときがあるでしょう。それこそが、実は神の時なのです。それを拒んでしまうと歴史は作られないのです。神の招きに応えるところから歴史は作られます。

先週、名古屋教会創立139年記念礼拝を守りました。これほどの歴史と伝統を持つ教会に、何ももたないわたしが遣わされていることをあらためて不思議に思いました。神は思い切ったことをされるし、それに応えたわたしも勇気があった。そして、ここで御言葉を語り、聖餐の司式をしている自分は何者なのかとふと考えたのです。

すると翌日、発行されたばかりの「名古屋桜山教会90周年史」をいただきました。90年といっても、伝道開始から数えれば、今年は100周年にあたります。今の瑞穂区名市大、当時第八高等学校そばにあった新井啓三さんという名古屋教会の会員宅で家庭集会が開かれ、吉川牧師が行かれたことが伝道所設立につながりました。

巻頭言で、田中文宏先生が、教会の歴史を4つの時代区分に瞥見されていました。実に的確だなと思いました。第一期が宣教開始から敗戦までの草創期、第二期が戦災からの復興期、第三期が教会の改革期、第四期が信仰継承期であり、これを担ったのが田口牧師であり、自分たちもそれを引き継いでいるというのです。わたしはそういうとらえ方をしたことがなかったのですが、確かに復興期の信仰者が次々に逝去する中で、世代を結ぶ信仰継承が宣教課題となった時期でした。90周年史は第四期の2001年から、2020年までの記録となっています。

それを読みながら、こういうタイミングだから神は転任するよう召されたのだと思いました。すべきことはすべてやっていた。やり残したことは、田中先生がしっかりと埋めてくださっている。そういう時期に、神はわたしに臨まれ、新たな使命へと召されていたということを思わされたのです。

そして、今は名古屋教会にとって、どういう時代であるのか。後から振り返ってそうだと思うのではなく、今から言語化しておかねばならないと思わされました。

エレミヤが召命を受けたのはユダ王国の末期、時代が激しく動いた時代でした。事実、エレミヤはバビロン捕囚期の預言者となりました。エルサレムは陥落し、多くの人が首都バビロンに連れ去られました。イスラエルの歴史のみならず、世界史に刻まれる大きな事件が起ころうとする、そのようなときに神から呼ばれたのです。怯むのは当然といえば当然です。

エレミヤは、その使命を引き受けるには、あまりに若かったのです。しかし、神は若きエレミヤを御心にとめられたのです。「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と召しを拒むエレミヤに対して、「若者にすぎないと言ってはならない」と言い、さらに「わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ」と命じます。

わたしたちの社会では、誰かに何かを頼む時に、引き受けてもらえないか打診をします。引き受けてもらわないと困る時には説得します。しかし、ここで神がされたことは、打診でも説得でもなく命令です。とんでもない命令です。それでも、神の命令には約束が伴うのです。「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」と言われるのです。主は困難と思えることを命じられる時、またくじけそうになっているとき、「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束し、新しい使命へと向かわせます。

「主が共におられる」これほど力強い約束はありません。主は、順調に物事が運んでいるときだけ、共におられるのではありません。利益を求める人間は、力ある人にすり寄って、何らかの見返りがあることを期待します。ところが、その人についていてもいいことがない。逆に自分にとって不利になると思うと、平気で離れていく。しかし、神は違います。辛い時、孤独な時、忍耐を要とする時、いつも、どんなときにも共にいてくださるのです。

「わたしが命じることをすべて語れ」とは、取捨選択はしないということです。この時代、楽観的で耳触りのよいことだけを語る職業預言者の一団がいました。国の指導者も民衆も彼らを支持します。国の危機を語り、罪の悔い改めを求めるエレミヤの預言には反発したのです。そんなエレミヤは「涙の預言者」と呼ばれました。

おそらくエレミヤは、涙するたびに、この召命の出来事に立ち帰ったのだと思います。自分はもう何も語れない。そう思ったときに思い返したのです。主が手を伸ばして、わたしの口に触れ、わたしに言われたことを。

「見よ、わたしはあなたの口に わたしの言葉を授ける。
見よ、今日、あなたに 諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。
抜き、壊し、滅ぼし、破壊し あるいは建て、植えるために」とある。

「抜き、壊し、滅ぼし、破壊」する言葉は語りにくいです。なぜなら、聞く人の反感を買うからです。他方、「建て、植える」言葉は、語りやすいのです。しかし、それが根拠のない慰めの言葉であるとすれば、虚しい望みしか生まれません。耳触りのよい言葉が、絶望や怒りを呼び起こすことになりかねないのです。

エレミヤは、主から預けられた言葉をすべて語りました。わたしは小さくて弱い人間だけれど、わたしには主の権威が授けられている。この言葉は、自分が語る言葉ではなく、主が手を伸ばしてわたしの口に触れて授けてくださった言葉だから、それをそのまま語る。ここを立ちどころとしたのです。

南京事件を批判したことで東大を追われ、戦後に東大総長となった矢内原忠雄がいます。矢内原の聖書講義の中で、

「預言者の資格は年令や人生の経験によるのではなく、素直に神の示されたものを見、語られることを聞き、命じられた言葉を告げる真実な心と純な信仰にあります。... 預言者は神の言葉を聞いて、これに加えることなく、また減らすことなく、そのまま純粋に伝えることを任務とするため、素直で真実な性格を要求され、人の顔を恐れない勇気を必要とします」そう語っています。

召命とは、神の恵みによって呼び出され、新しい使命を与えられるということです。それは預言者だけではありません。現代でいえば牧師がそう。いや牧師になる人だけでなく、キリスト者であれば、一人一人に召命が与えられています。長老の召命。オルガニストの召命、CSスタッフや説教の召命。ありとあらゆる奉仕がそうです。それ以前にキリスト者となる、洗礼も自分で受けようと決める前に神からの呼び出し、召命があってこそです。

エレミヤがそうであったように、わたしは自分にはつとまることではないものを受けてきました。名古屋教会の牧師をしていることも、教区議長の任期をまっとうしたことも、さふらん会の理事長をしていることも考えられないことです。それでも、自分には力がない。誇る者は何もないことを知っているからこそ、与えられた務めに仕えるに必要な力を神がくださっている。そう信じられるからこそ、無理な力を入れることなく、自然体で出来ている。

神は教会に集う一人一人のことも、母の胎に造られる前から知っていられます。その神が、あなたがいるべき場所はここにあると呼んでくださっています。神がわたしに何を望んでおられるのか、聞く耳を持ちましょう、神の召命に応える群れとして歩んでいくことができれば、名古屋教会はこの地にあって、神の栄光を現せる教会として羽ばたくことができる。そのことを信じています。