出エジプト記20章12節、エフェソの信徒への手紙6章1~4節
“父母を敬え” 田口 博之

十戒は律法の中心です。十戒は二枚の石の板に刻まれましたが、十戒の前半は、わたしたちが神に対してどのようにふるまうか、後半が隣人に対してどのような義務を負っているかを教えています。「あなたの父母を敬え」とは十戒の中心、第五の戒めに当たります。ではこの第五の戒めは、2枚の板のうちのどちら、すなわち神に対する戒めか、隣人に対する戒めの、どちらに入るのでしょうか。

10の戒めを半分に分けるとすれば、第五戒は前半の神に対する戒めに入ります。しかし、父母は神ではありません。福音主義教会の代表的なカテキズムであるハイデルベルク信仰問答では、十戒の二枚の板は、四つの戒めと六つの戒めに分けられると答えています。そうなると、第五戒は後半の隣人に対する戒めとなります。「あなたの父母を敬え」を親孝行の戒めとして受け止めれば、問題なくそうでしょう。

けれども、父母は隣人といえるのでしょうか。(先ほども話したように)、子は親を自分で選ぶことができないのです。夫婦との違いはそこにあります。親子の関係は、神が与えてくださった関係です。誰であれ、この父とこの母がいなければ、自分という人間はこの世に存在しなかったのです。ルターの教理問答を読むと、まさにそういう視点から、この戒めを前半の神に対する戒めに含んでいます。父母は神によって与えられた存在であるからです。古代のイスラエルでは、父と母は、神への畏れや信仰を子どもたちに伝える神の代理のような存在として考えられていました。しかし同時に、父母との関係が隣人関係の最初にあることには違いありません。そういう意味で「父母を敬え」という第五の戒めは、二枚の板をつなぐ戒めであり、扇の要のような戒めだということもできるでしょう。

さらに、この戒めの特徴は、「父母を敬え」それだけでは終わっていないということです。出エジプト記20章12節をもう一度読むと「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」という言葉が続いています。興味深い言葉です。父と母を敬えば、長生きできると言っているようです。父母を敬うことで、自分が長生きできる条件のように書かれていて、なんだか虫がいいというか、単純すぎるように思います。ほんとうにそうなのでしょうか。むしろ父母を敬うことで、父と母が長生きできる。そう読んだほうが自然な気がするのです。「お父さんと、お母さんに長生きしてもらいたい、だから精一杯のお世話をするよ。」その方が腑に落ちます。でも、聖書はそうは書いてないのです。

もう一か所読んだエフェソの信徒への手紙6章にはこうあります。1節から3節を読んでみます。「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。」

明らかに十戒を受けて語られています。ここでも同じように、父と母を敬えば、地上で長生きできるといわれる。このことが条件というよりも約束として語られています。そして、これが約束を伴う最初の掟だというのです。

聖書には長寿の祝福という考えがあります。わたしたちの命は神からの授かりものです。与えられたもの、授かりものであるからこそ、自分の努力で長生きすることはできません。と同時に粗末にすることもゆるされません。自分のものだからと勝手に扱うのは罪です。預かったものなのですから、大切にせねばならないのです。神がこの地上に与えてくださった人生を長く生きることは、与えられたものを大切にしてきたことの証です。だからこそ、この上ない祝福だといえるのです。

ところが、長生きが約束されても、そのとおりにならないことがあることも事実です。特に悲しいのが、親よりも若くして死んでしまう人がいることです。どれだけ、父母を敬って生きてきたとしても、災害、事故、病気などで子どもが先に死んでしまうことがあります。そういう意味で、ここに語られていることを、単純に受け止めることはできません。約束が果たされないこともある。わたしたちが生きるこの世界は、どうしてあの子が先に死なねばならないのか。不条理なことはたくさんあります。しかも、今はあろうことか、戦争のために死んでしまうこともある。そういう現実の中で、死を通して命の大切さを見つめるということが、残された者への宿題になります。忘れてならないことは、聖書は長寿の祝福を語りますが、若くして亡くなられたから祝福されていないという考え方もないのです。それは命をこの世だけのものとは考えていないからです。

ゴールデンウイーク中に、NHKの朝ドラ「ちゅらさん」の総集編を再放送していました。今放送中の「ちむどんどん」もそうですが、沖縄の本土復帰50年を記念しての企画です。総集編の1回目、主人公の恵里がまだ小さかったころの話です。恵里の家族は、沖縄の小浜島で民宿をしていましたが、そこに和也くんと文也くん兄弟の一家がやってきました。お兄さんの和也くんは病気で、長くは生きられないのです。この島で最後の時間を過ごしたいという思いでやってきました。これまでの人生で経験したことのなかった楽しい時間を作ることができましたが、二週間ほどで和也くんは死んでしまいました。恵里と弟の文也くんと恵里に祖母の「おばぁ」が海をみつめています。納得できない様子の恵里に対して、おばぁが「命どぅ宝」。「沖縄の言葉で、何よりも命が一番大切さ」と言いました。この言葉を聞いた文也くんが「でも、兄貴は死んじゃったじゃないか」とつぶやきます。

すると、「でも、おばぁは思うさ。子どもが命を落とすことほど、この世の中で悲しいことはないさ。でもね、和也君みたいな子は、たぶん神様に選ばれたんだね。この世界で生きている人に命どぅ宝、命が一番大切ということを忘れさせないようにするためにさ。おばあは、そう思っているさ。」

心を打つおばぁの言葉です。「あの子は神様に選ばれた」ということ、「命どぅ宝」、「死んでしまったのは、命が一番大切ということを忘れさせないようにするため」ということ。

ある西洋の教育思想家が「長生きとは長く生きることではない」と言いました。時間的に長く生きることが長生きなのではなく、どれだけ生を感じたか、その質と量によるのだというのです。「生を感じる」とは、自分が生かされたことを感じるということでしょう。

イースターの二日前のこと、22年前に亡くなったわたしの兄の友人が山口から訪ねてきました。兄よりは三つ年下の人なのですが、入社以来、ずっと可愛がってもらい、兄が最初に課長になったときに部下に指名したらしいのです。その人にとって兄は憧れの人だったようです。弟さんが牧師になっているという話を聞いたことを思い出して、インターネットで調べると顔が似ている人が出てきた。近鉄にいた田口さんの弟さんではないですかと、メールしてこられたのが去年の夏頃でした。今は70か71歳だと思いますが、子会社のホテルの社長を2年前に引いて、マレーシアに移住する手筈を取っていたけれど、コロナで行けなくなった。その間にがんが発症し命について深く考えることになった。兄の墓参りをすることと、牧師となったわたしと話をしたいという思いから、ご夫婦で山口から出て来られたのです。

兄は52歳で亡くなりましたが、その無念さはわたしには想像もつかないことがあります。それでも、太く短く生きた人という思いをずっと持っていました。兄が会社でどんな働きをしてきたのか、初めて聞く話ばかりだったのですが、ますますそう思えました。まさに長く生きるとは、長さではなく、その質と量であるのだと。

ルソーは「どれだけ生を感じたか」に尽きると言いましたが、「生を感じる」とは、「神を感じる」ことと言い換えることができると思います。人生の中で、自分は神に生かされていると感じることができるときに、神が生きておられること、神に愛されていることを知ることができます。そして、信仰が与えられるならば、この神のために生きていこうと思えるようになる。

十戒は律法ですが、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という言葉で始まっています。この戒めを守ることができたなら、あなたを救おうと言っているのではないのです。救われたあなたは、このように生きられるはず、そういう思いの中で十戒は語られています。ハイデルベルク信仰問答では、十戒は感謝の生活の項目にあるのです。そして十戒の多くが「してはならない」と、否定形であるのに対して、ここでは「父母を敬え」と積極的な生き方を示す戒めとなっています。

どれだけ親を大切に生きたとしても、子どもが早く死んでしまうと、日本では「親不幸」だと言われてしまいます。確かに子に先立たれた親は辛いです。わたしの母は兄と一緒に暮らしていましたので、兄がなくなってしばらくは、教会で暮らすようになりました。思ってもみないことでしたが、しかしそのことで、母も教会につながり、洗礼を受けることができました。

今日は母の日であることから、「父と母を敬え」の御言葉が示されて、子どものための説教と二度語りました。考えてみると、この戒めは、子どもよりも大人の方が切実に響いてくるのではないでしょうか。CSに通っているような子ども、反抗期を迎えると親に逆らうことはあるかもしれませんが、少なくとも親を頼りとする限りは敬っているのです。父母を敬うことが難しくなるのは、親の介護の問題が起きたときです。その意味で、40代から50、60代の人の胸に迫る戒めではないでしょうか。

わたしたち夫婦は父も母も送っていますので、「父母を敬え」を実践することができません。しかし、教会には、両親の年齢位の方が大勢いらっしゃいます。こういうことができたのに、と悔いが残っている面もあるので、できる限りのことはしたい。それがわたしたちの務めではとないかと、家で話しています。そのためにも、少なくとも父母の年代の方よりは長く生きることが務めです。特に牧師は、その使命が与えられている限り御言葉を語らないと生きていることにはなりません。その意味で、頭と体の健康を整えなければ、父母を敬うことはできないと感じています。

「父母を敬え」の後に続く「長く生きることができる」という言葉が、どこか報いを求める言葉のように思えて、引っかかっていましたが、この御言葉を通して、地上で与えられた命の意味について深く思いめぐらすことができたことを、感謝しています。

そして、大切なことは、神によって与えられたわたしたちの住む場所は、地上だけではないということです。まさに「わたしたちの本国は天にある」のです。地上で長く生きたとしても限りがあります。最近、名古屋桜山教会に104歳の求道者の方がおられると聞きました。お孫さん夫婦が教会に連れてきてのことですが、日曜日が楽しみらしい。お名前も千代さんというようですが、素晴らしいなと思います。地上の命の終わりを数えるのではなく、天につながる命を数え始めておられる。

「父母を敬え」。当たり前のようでかつ、難しい御言葉に誠実に生きる生き方が、この世の命を超えて、永遠の命への扉を開くことになるのです。