聖書 詩編78編23~29節 ルカによる福音書24章28~35節
説教 「復活の食卓」 田口博之牧師
2021年度に入って最初の礼拝をイースターから始めることができますことを感謝いたします。先週、隣地マンション問題の裁判の判決が出ました。歴史的判決と言って過言ではない判決をいただくことができました。認められた訴えは一部です。勝ち負けで言うならば負けた部分の方が多いのです。しかし、そこはあまり問題ではなく内容がいい。しかも、全面的に勝った部分がある。ここで詳しいことを述べる時間はありませんが、5年間の労苦が無駄でなかったばかりか、とても大きな意味があったことが明らかになりました。先週は受難週でしたが、十字架の先にある復活を現実のものとしながら、歩むことができました。
しかも今年のイースターでは、先の教会総会での長老選挙で当選された一人の新長老の任職式を行い、何より洗礼式も行うことができました。もしかするとこの喜びは、受洗された大原さんご自身が思うよりも、親しい方は遠くからこの時を目撃せねばと思うほどの大きな喜びであり、これは名古屋教会にとっての喜び、それ以上に天で大きな喜びがあることを、心に刻んでいただきたいと思っています。
大原さんは、木曜日の最後の晩餐消灯礼拝にも出席され、そこで紹介したジョン・バニヤンの「天路歴程」を日本語の翻訳本に加え、お勧めした英語版もネットで購入されたと聞きました。これから「天路歴程」の主人公、クリスチャンがそうであったように、洗礼を受けたこれからも山あり谷ありの道が待っているかもしれません。それでも主が共にいてくださいますから心配することはありません。天の都、シオンをしっかりと見据えながら、主にある兄弟姉妹として一緒に歩んでまいりましょう。
さて今日は、ルカによる福音書24章28節以下をテキストとしました。詩編もそうですが、先週予告した節が少し違っていたことを、前もって聖書を読んで来られた方には失礼をお詫びいたします。今日取り上げる聖書箇所は最初のイースター、イエス様が復活された日の夕食の場面です。
28節「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」と始まります。目指す村とは、エマオのことです。イエス様の二人の弟子が、復活されたイエス様と一緒にエルサレムからエリコに向かう道を歩まれた記事が、13節から27節にかけて語られていました。
礼拝が始まったとき、プロジェクターに絵が映し出されていたと思います。もう一度映していただきたいのですが、ロバート・ズンドというスイスの画家が描いた「エマオへの道」という絵です。150年ほど前の作品のようですが、コローの風景画を彷彿とさせる印象的な絵です。
この時、二人の弟子は、望みをかけていたイエス様が十字架で死んでしまわれたこと、仲間の婦人たちから墓に納めたイエス様の遺体がどこかに行ってしまったことを聞き途方に暮れながら、エリコへの道を歩んでいました。そこに、復活されたイエスが二人に近づいて、暗い顔をして何を話しているのですかと問いかけるのです。ところが、二人はイエス様だとは気づきません。イエス様が復活されたという知らせを聞いているのに、話しかけてきたこの人がイエス様だとは気づかなかったのです。面白いなあと思います。イエス様はモーセから始めて、聖書全体を説き明かします。この絵はもちろんイメージで書かれているわけですが、二人は話をするイエス様の方を見ています。声も聞いています。それでもイエス様だとは気づかないのです。
そうこうするうちに、二人は目指すエマオの村に近づきました。二人は、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理にイエス様を引き止め、家に連れて行くのです。イエス様だとは分からなかったけれど、この人からもっと聖書の話が聞きたいと思ったのではないでしょうか。
家に入るとまもなく夕食となりました。もう一つ絵を用意してあります。この絵は、ルーブル美術館に所蔵されている17世紀、オランダのレンブラントの作品です。レンブラントの絵は光が特徴的ですが、この絵にも特有の明るい光が射しています。しかしイエス様に射すのではなく、イエス様の内なる光を描いています。愛と赦しの光です。この光が周りの者を照らします。これは明らかに、エマオにおける食卓の場面を描いています。この絵には給仕する人も描かれていますが、イエス様にはさほど関心を示していないように見えます。
皆さんはどうされているか分かりませんが、客を招いて食事をする場合、通常はその家の主人がテーブルマスターであり食前の祈りをします。ところがこの時は違いました。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とあります。最後の晩餐の記事とほとんど同じです。おそらく、この後でぶどう酒も出されたのでしょう。
最後の晩餐礼拝の時、十字架につかれる前の食事のことを、最後の晩餐と呼んでいるけれど、実は最後ではなかったとお話しました。ここでも復活の食卓を囲んでいます。そして、わたしたちも聖餐に与ります。洗礼は一度きり、その意味で一度受けたらそれで終わり、大原さんも今日の洗礼は最後の洗礼です。洗礼を受けて新しくされたときの感動を味わいたいと思ったとしても、それは無理な話です。けれども、聖餐は繰り返し受けることができます。
繰り返しといっても、プロテスタント教会では、毎日ミサをすることはありません。多くの教会では、毎週の礼拝で聖餐式をすることもありません。名古屋教会では、通常は年に15回です。昨年はコロナ対策もあって7回しかできませんでした。例年よりも数が限られただけに、いただくのはわずかばかりのパンとぶどう液であっても、霊的な飢えと渇きが強まりました。聖餐は洗礼を思い起こすサクラメントです。大原さんがこれから受ける聖餐は最初の聖餐ですが、最後ではありません。そうなってはならないのです。
信仰生活で何がいちばん大切かと問われれば、聖餐を受け続けるということです。教会の信徒には、現住陪餐会員という区分がありますが、これは聖餐を受け続ける会員であるということです。聖餐を受け続ける信仰生活に生きる者が、現住陪餐会員として総会にも出て、神様の前で誓約したように教会員として責任を持った生き方をする。それがクリスチャンとしての証しに結びついてゆきます。
さて、復活の食卓を囲んだ二人に大きな変化がありました。31節「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」とあります。
これも木曜日の礼拝でのことですが、「復活の体は、霊の体とも呼ばれる。霊の体は、話をするだけでは気づかないけれども、一緒に食事をすると分かる。そんな体だ」と話しました。間違ってはいませんが、そう語りながら丁寧さに欠けたかもしれないと思いました。それは聖書の読み方が丁寧ではなかったということです。ルカはこう告げているのです。16節に「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とあり、ここでは、「すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」とあります。問題は、復活の体がどうこう言うよりも、彼らの目が開かれていたか、どうか。そこが分かれ目でした。
ここで言われている「目」は、肉眼ではありません。これは心の目、信仰の目です。この目が塞がれたままでは、どれだけ復活された主を見たとしても、復活されたかどうかを信じることはできないのです。イエス様は、それではいけないと思われたのでしょう。彼らの家の食卓で、イエス様ご自身でパンを裂かれました。このとき、彼らの信仰の目が開け、ここにおられるのが復活されたイエス・キリストであることがわかったのです。
興味深いのが、わかった途端に、イエス様の姿は見えなくなってしまったということです。肉眼ではとらえられなくなった。では、彼らが落ち込んだのかといえばそうではなく、「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」と書かれてあります。目の前から見えなくなったら、普通なら慌てます。何だ、幻を見ていたのかと思うのではないでしょうか。でも二人はそうは思いませんでした。それよりも大切なことに気がつきました。イエス様から聖書の説き明かしを聞いたときに、心が燃えていたということを。
わたしはエマオへの道行きから食事への一連の出来事が、キリストの教会が礼拝を形づくる上での原体験となったのではと考えるのです。聖書の説き明かしとしての説教と、復活の主と食事をする聖餐の二つがセットになっている。説教だけでも十分ではないし、また聖餐だけでは、二人の目は開かれなかったのではと思います。先のレンブラントの絵で、食事の給仕をする人はイエス様にさほど関心を寄せていなかったのは、心が燃えていた経験をしていなかったからではないでしょうか。
これから聖餐に与ります。聖餐を受ける時には、わたしたちの罪のために肉を裂かれ血を流され、十字架で死なれたイエス様を想起しながらパンと杯をいただくことが多いでしょう。でもイースターの今日、何も今日に限ることではありませんが、エマオでの主の食卓、わたしたちのために体ごとよみがえってくださったイエス様を起こしたいのです。十字架による罪の赦し、復活による永遠の命への約束。これがわたしたちの信仰の土台となります。
イースターによって、新しい年度が始まりました。イースターにいいスタートを切ることができました。でも、ここで花火のように盛り上がっただけでは意味がない。もっとじっくり、いつまでも消えない炭火のように「わたしたちの心は燃えていたではないか」そんな信仰の歩みを続けることができるとき、名古屋教会はこれまで以上に、神の栄光を現せる教会として立ち上がることができる。そのように信じます。