ホセア書11章1~4節 ローマの信徒への手紙15章1~6節
「慰めの共同体」田口博之牧師
金曜日の夕方に週報を作成していると、加藤常昭先生が逝去されたという知らせが入りました。4月15日に95歳の誕生日を迎えられたばかりでした。「神学会の巨星堕つ」そんな言葉が頭を巡りました。日本の神学の中で「実践神学」という分野を切り開かれた方です。特に「説教学」の大家であり、「説教塾」主宰として、後輩たちのためにきめ細やかな指導をしてくださいました。それは何よりも、教会は説教によって立ちもし倒れもするというお考えからでした。明日、鎌倉雪ノ下教会で葬儀が行われるとのことです。
たくさんの本を書かれました。昨年、執務室に書棚を入れましたが、そのかなりのものが加藤先生の著作や説教集です。積読ではありませんが、並べてあるだけのものもあります。今も出版準備中のものがありますが、3月25日に出版されたカール・バルトの「説教と神の言葉の神学」の新訳が生きているうちの最後の著書となりました。バルトが1922年に行った二つの講演(「キリスト教会の宣教の困窮と約束」「神学の課題としての神の言葉」)を説教塾の仲間の牧師との共訳で出されました。
バルトは、「私どもは神について語らなければならないということと、しかしそれはできないのだということ、その両方をわれわれは知るべきであり、まさにそうすることによって神に栄光を帰するべきである。」そのように語ります。そこに説教者の困窮があります。どうにも乗り越えることのできない課題があります。しかし、まさにそのことのために、人間にすぎない者が、神の言葉である聖書を説き明かす務めに召されています。しかも毎週確実にめぐって来る。これはとんでもなく、恐れ多いことです。
牧師には定年はないといいながら、65歳を機に隠退する牧師も増えています。わたしも64歳になりました。すると、もうあと1年ということになります。でも、ゆるされるなら70歳位までは続けたいし、テニスのベテランの大会にも出場したいと思っています。しかし、このように体調を崩してしまうと弱気になります。先週1週間、午後になるにつれて熱が上がってくるという経験をしました。これは初めての経験で、そんなふうになってしまうのかと思いました。祈祷会でわたしの不調に気づかれた方が、牧師のために祈ってくださいました。牧師のために祈ることが、わたしたちのいちばんの祈りではないかと言ってくださり、それは大きな慰めとなりました。
今日は「慰めの共同体」という説教題をつけましたが、これは今年度の標語聖句としたものです。この「慰めの共同体」を造り上げる説教ができること、加藤先生が熱心に指導されたのもそこにありました。昨年秋、説教塾のメーリングリストに「緊急・説教論」を書かれました。1月には、東京説教塾で行われた例会のために「教会の将来と説教者の課題」とこれを補充する文章を出されました。これらは加藤先生の遺言としていずれは本になると思いますが、その中に「慰めの共同体としての教会の形成には、説教者が必然的に魂への配慮の言葉を習得することが求められる」という一文がありました。「魂への配慮」とは、ドイツ語ではゼールゾルゲですが、日本では長く「牧会」と訳されてきました。
名古屋教会に赴任することが決まって、総会報告書を見せていただいたとき、いちばん嬉しかったのが、牧会委員会が組織されていることでした。日本の教会では、牧会とは牧師のつとめとされており、それが牧師に対する一つの評価にもなっていたように思います。たとえば、よく訪問する牧師は、よく牧会していていい牧師であるというように。前任地に、橋田利助といって、戦前、戦中、戦後と34年間牧会された牧師がいました。大府や梅森まで自転車で通い、療養所伝道をされました。戦時中、教会で山羊を飼っていて、貧しい教会員に山羊の父をしぼって持っていかれたという逸話があります。その教会は、今の牧師も素晴らしい方です。前任者も、前々任者も立派な方でしたが、わたしも過去の牧師になっていますが、おそらく今でも牧師といえば、橋田先生の名が真っ先に出てくると思います。それだけ信徒の世話をされたのです。
復活のイエス・キリストは、シモン・ペトロに、三度「わたしを愛しているか」と問うた後で、「わたしの小羊を飼いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。それが牧会の業であるには違いありませんが、牧師の専売特許とする必要はありません。ルターは「万人祭司」という言葉を使いました。それは教会員すべてが、牧会者であるべきということです。トゥルナイゼンという神学者は、「魂への配慮は、キリストの教会に生きる者であるならば誰もが自分に与えられた務めとして、心にすべき」と熱心に主張しました。わたしたちもこの年度、心していきたいと思っていることです。
ローマの信徒への手紙15章1節に「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」とあります。14章の初めには「弱い人」のことが語られていました。「信仰の弱い人を受け入れなさい」と。その流れでいくと、「わたしたち強い者は、弱い者の弱さを担うべきであり」と続くのが自然です。ところがここでは、弱い者ではなく、「強くない者の弱さを担うべきであり」と言っています。
教会に通い始めたとき、クリスチャンは弱い者の集まりだという言葉をよく聞きました。これは、教会批判として外から聞こえてきた言葉ではなく、教会の中で自分たちをそのように評して言っていた言葉でした。弱いからこそ、神に頼るのだと。そうかもしれないと思いつつ、わたし自身は、教会には結構、強い人が多いのではないかという思いを持っていました。それは神を信じているからこその強さなのかもしれないけれど、むしろ持って生まれた気の強さのように思えて、そんなに簡単に「クリスチャンは弱い」と言わない方がよいではないか。そんなことも感じていました。
事実、世の中がそうであるように、教会の中には強い人もいれば、強くない人もいますし、弱い人もいます。それは性格的な強さ、弱さもありますし、信仰的な強さと弱さもあります。元気な時には強くても、病気をすると弱くなってしまうことがあります。格闘技のチームだと強い人が選抜されるでしょうが、神様の選びは自由なので、強い人ばかりを集められているのではありません。
このテキストのもともとのギリシャ語のニュアンスからいえば、「強い者」は「できる者」、すなわち「能力のある者」ということになります。事実、教会にはそういう意味で、よくできる人がいらっしゃいます。できる人は、とかくできる自分を基準に考えてしまいます。自分はできるのだからできて当たり前。そうなると、自分のようにできない人を見ると、裁いてしまうということが起こり得ます。それは、どのような組織でもある話です。強い人が居心地の良い組織は、健全だとは言えません。
わたしも若い頃は、いつも怒っていました。牧師になる前も、なってからも大きな声を出すこともありました。それでいいと思っていました。しかしあるとき、長老の一人から諭されました。先生の思いはよく分かる。それについて行こうという人がいるかもしれない。でも、レベルを下げて、できない人に合わせてほしいと言われました。それはわたしにとって、ありがたい忠告でした。
できる人は、できない人の弱さを担うべきなのです。教会はこうあって欲しい、こうでなければ、そう思うときに教会に自分の満足を求めてしまうことになりかねません。そうでなく、「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべき」なのですとあります。
「担うべき」とか、「努めるべき」という言葉は、強い言葉です。「こうすべき」と言われるよ律法主義的に聞こえます。でも、これはできる人に向かっての言葉です。できる人は、そういう責任を担っているのです。「なぜなら、キリストも御自分の満足をお求めにならなかったからです」とあります。そこにキリストの強さがあります。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」とは、詩編69編10節「あなたを嘲る者の嘲りが、わたしの上にふりかかっています」の引用です。詩編の文脈でいえば、「あなた」とは神のことですが、ローマ書のほうでは、自分以外の第三者を表しているように思えます。
いずれにせよ、この引用は自分に向けられたそしりを耐え忍ぶというのではなく、他者に向けられたそしりを自分で引き受ける、すなわち他者の弱さを担うことだというのです。できる人は、それを自分の満足のためではなく、できない人の弱さを担うのです。それは福祉の精神だといえます。そのような教会には慰めがあります。
名古屋教会は新来者の多い教会です。ネットで「名古屋」、「教会」とキーワードを入れて検索すると、名古屋教会が最初に出てくるので、しばしば旅行中の方が礼拝に来られます。しかし、礼拝に出るためでなく、相談事で訪ねてきたり、電話がかかってくることも多くあります。その多くは生きることに苦しみを覚えている人です。多くの方は、すでにカウンセリングを受け、精神科医にも通っていて、最後の砦として教会を求めて来られるのです。わたしは出来るだけ丁寧に応対しているつもりです。面談の際には、最初はどうなることかと思いつつ話をし始めたけれど、健やかになって帰っていかれる方がいます。木曜日もそういう方がいました。一期一会の出会いになるかもしれないけれど、よかったなと思いました。
ただし、昨日のことです。わたしは体調が優れなかったので、お昼頃に家に帰っていましたが、教会からの転送で電話を受けました。その方は開口一番、「教会に行けば救われますか」と率直に聞かれました。電話での難しさもあって、わたしは「はい、救われます」とは言えませんでした。その人の求めている救いが何か分からないし、その人が今日の礼拝に出席して「救われた」と思うかどうかも分かりません。わたしは「わかりません」、「救われる人もいますが、そうでない人もいます」としか言えませんでした。でも電話を切ってから、丁寧さに欠けていたと後悔しました。「いちど教会に来てください」と言えばよかったと思いました。今日のテキストに照らせば「強くない者の弱さを担う」ことを避けてしまったと思いました。
そしてパウロは4節以下で「忍耐と慰め」について語ります。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」
「かつて書かれた事柄」とは、聖書全体を意味すると考えてよいと思います。わたしたちは、聖書によって様々なことを教えられ、導かれています。「忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」とありますが、忍耐しなければならない、慰めの人にならねばならない。そうでなければ希望を持つことはできない。そのように言っているのではありません。続く5節に「忍耐と慰めの源である神」とあります。神が忍耐の神であり、慰めの神なのです。また13節には「希望の源である神」とあります。
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」神ご自身が希望の源であられるからこそ、神を信じるわたしたちは揺るぎない希望を持つことができます。
ホセア書11章1~4節を読みました。
「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
わたしが彼らを呼び出したのに 彼らはわたしから去って行き
バアルに犠牲をささげ 偶像に香をたいた。
エフライムの腕を支えて 歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを 彼らは知らなかった。
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り 身をかがめて食べさせた」とあります。
ここに感謝を忘れている神の民を忍耐強く導かれる神の姿が描かれています。この神の忍耐には慰めがあります。それが聖書の主題でもあるのです。イエス・キリストの十字架と復活が、神の忍耐と慰めを現わしています。
5節と6節は、祈りの言葉になっていることに気づかされます。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」
わたしたちが信じる神は、「主イエス・キリストの父なる神」です。