詩編62編8~9節、 ローマの信徒への手紙12章9~15節
説教 「希望をもって祈りなさい」田口博之牧師
2021年度の名古屋教会は、「祈りの共同体」を年度標語とし、今日の朗読箇所にあったローマの信徒への手紙12章12節、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」を年度聖句としています。前年度の長老は記憶にあるかと思いますが、当初の思いは違っていて、2月の長老会で出した草案では別の聖句を考えていました。
というのもわたし自身の思いとしては、前年度と同じく「教会」、あるいは全体集会のテーマとした「礼拝」が標語になるかなと思い、そこからある聖句を選んでいました。ところが、その後、特に礼拝の中で、「祈り」に触れることが増えてきました。ルカによる福音書11章の「主の祈り」やイエス様の「求めなさい。そうすれば、与えられる」という約束など。
そういう聖書の御言葉に触れながら「祈り」について、より深く考え始めました。そして、礼拝説教で取り上げてまもなくのこと、ある牧師から「父親が入院した病院でクラスターが発生し、コロナの陽性となり、危篤という知らせが入った。先生、祈って欲しい」と連絡がありました。そのお父さんも牧師です。もう90もかなり過ぎていて、危篤というのだからこれは厳しいと思いました。けれども、「祈ってほしい」と言ってくる牧師は、あきらめていない。でも、この祈りが聴かれるためには、もっと祈りを広げないと聞かれない。おそらくは霊的な感のようなものがあって、私にまで連絡してきたと思うのです。
幼稚園の裁判も、1月の終結の後で原告と被告それぞれが集められて、裁判官はわたしたちには受忍限度論で扱うと言われました。だとすえば可能性は極めて低いことがわかりましたし、裁判所としては、わたしたちが気の毒と思ったのか、損害賠償の半額を被告に持たせて、痛み分けとするという和解案を考えていると提示されました。結果としてわたしたちの方が先に、裁判所からの提案を却下しました。わたしたちが訴えてきた声を、もう一度しっかりと裁判官が聞いて判決を出して欲しい。逆にこちらが宿題を出した形になりました。幸いなことに、裁判所は建築基準法だけでない新しい枠組み。子どもたちの将来に希望が持てる判決を出して欲しい、そういう訴えを聞かれ、よい判決を出してくださいました。
そう決まってからは、裁判官がそういう視点を持って、判決文を書いていただくようにと、つまり、神様何とかしてくださいではなく、裁判官の心に直接働きかけるような祈りになりました。これは教会員だけでなく、キリスト者ではない保護者も弁護士も、関わった方は皆さん、同じように祈ったと思うのです。そういう祈りを神が聞いてくださって、判決文を考えている裁判官の頭を、キーボードに打ち込んで言葉にしていく指に、神が深く働きかけた。まさに、石原園長が裁判官の上に聖霊が降ったと言われた、そういうことが起こったと思っています。感染されたという隠退教師も、14回目のPCR検査で陰性が出て、隔離病棟から一般病棟に移ったというメールが先週ありました。共に奇跡と言っていい出来事です。
礼拝で祈りについて語る聖書の言葉に触れ、また様々に祈りを必要とする現実におかれる中で、神様は祈りを聞いてくださる方とあらためて思いました。そのような良い結果が出る前ですけれども、名古屋教会も祈る教会、祈りの共同体として立ち上がりたい。そういう思いが沸き上がってきました。そうした中で、上から降ってくるように与えられたのが、ローマの信徒への手紙12章12節「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」でした。
この聖書の言葉を細かく分析すると、必ずしもそのようには言えないのですが、わたしは「たゆまず祈りなさい」という勧めを、「希望をもって喜び、たゆまず祈りなさい」、「苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」そのように読みました。たゆまず祈るときに、希望を持って祈るのです。ダメ元で祈るのではない。ダメ元だとしても憐れみ深い神は聞いてくださいますが、信頼しての祈りであれば喜んで聞いてくださるでしょう。神は必ず良いものを与えてくださると信じて祈る。希望の先には喜びがあります。苦難のときに耐え忍ぶのも、忍耐することで自分が鍛えられるからではありません。希望があるから忍耐するのです。
同じローマの信徒への手紙に、多くの人に愛されている聖句があります。5章3節以下です。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と。この御言葉は苦難から忍耐、練達、希望へと、段階を踏んでいるように思えますが、下から積み上がって希望に至るということではありません。先に希望があるのです。「希望はわたしたちを欺くことがありません」という御言葉が続いています。やはり、ローマ書15章13節では「希望の源である神」という言葉が出てきます。神が希望の源泉、神が愛であるように、神ご自身が希望なのです。
人間の最大の苦難は死です。誰もが死んだら終わりだと思っていました。今もそうです。イエス様を知らなければ、生きていてなんぼのもの、そうとしか思えません。しかし、たとえ死んでも、死の先には永遠の命と復活の希望があります。イエス様が死から復活されたことにより、わたしたちは、死は終わりではないこと。死に打ち勝つ希望を抱くことができます。これほどの喜びがあるでしょうか。だから、死もひと時の苦難として忍耐できる。地上でもう会えないことへの涙はあっても、神が涙を拭い取ってくださる日が来ることを信じることができれば、別れの涙は悲しみの涙では終わりません。
コロナの感染が拡がり、教会も委縮しているところがあります。もちろん、感染を拡げないように注意する必要があり、そのために我慢することも必要です。それでも、どれだけ注意しても感染してしまう時はするのです。万全の注意を払っていたとしても、感染者が出て慌てふためいていては意味がありません。災害対応もそうですが、起こってからではなく、どう対応すればいいか、備えをしておくことが大事です。そこで力を発揮するのは祈りです。週報の報告欄にも、コロナに関する祈りを少し書きましたが、神が必ず収めてくだると希望をもってたゆまず祈ることが大事です。
しかし、祈りというのは、簡単なことではありません。祈りは神との対話と呼ばれます、また呼吸とも言われます。神は土からできた人に命の息を吹き入れられて、人は生きる者になった、と創世記には書かれてあります。でも人が生きていくには呼吸することが必要です。息が入れられたままでなく、息を吐いてまた吸わないと生きていくことはできません。風船を膨らましても、ずっと膨らんだままではないのです。
小林康夫という哲学者が、河合隼雄らとの共著『こころの生態系』という本の中で、こういうことを言っています。「こころにとっては、流れ入るということが最高の経験で、流れが止まった場合には、こころがおのずからその中でマイナスの渦を作り、いわば自己破壊を起こします。すべての心の生態系にとって、あるいはエコシステムにとって大事なことは、『流れていくこと』だと思います」と。水が注がれて池ができても、流れがなければ池の水は淀んでしまいます。これは人間の心に当てはめれば、思ったことを自分の心に溜めたままにしておかない、誰かに打ちあける。そして相手の話も聞く、そうやって流れを作るということが大事です。
戸田伊助先生は、「対話」を重んじられた先生です。対話して、違う意見も聞き入れて自分が変わることを求められた。教会史を編集した中でもその考えをうかがうことができました。戸田先生と言われても、ご存知ない方もおられるでしょう。わたしの前々人の牧師で、名古屋教会を39年牧されました。日本基督教団の総会議長もされました。1973年から78年のことですから、40代後半から50代にかけて、脂が乗り切った頃です。教団の中で、戸田議長時代を「対話路線」と称されることがあります。ところが、教団史の中では「対話路線」は評価されないのです。「対話する」悪いことではないのに、どうして評価されないのか。事実、混乱もしました。おそらくは、いわゆる全共闘世代の問題提起者と呼ばれる人たちが、これを利用したからです。「対話しろ」、「自分たちの話を聞け、考えを変えろ」と叫ぶ、でも叫んでいるだけで、自分たちは聞こうとしなかった。そんな時代があり、悲しいかな、そんな歴史を今も引きずっているところがあります。
人間同士の対話は上手く行かず、人間関係でストレスを増すばかり。だからペットに語りかけて癒しを求める人がいます。気持ちは分かります。でも、わたしたちはもっといいものを知っている筈です。神様との対話、それが祈りです。自然豊かなところに出かけて行って、大きく呼吸してということも悪くはないでしょう。でも、わたしたちはもっといいもの、神様との間で呼吸するすべを知っている筈です。それが祈りです。でも、神様との対話とか、呼吸と言われて、頭では分かるけど、まだすっきりしないという人も、きっといらっしゃるでしょう。
そんなことを考えながら、祈りの宝庫とも呼ばれる詩編を読んでいたときに出会ったのが詩編62編9節です。表題に「ダビデの詩」とありますが、ダビデは神に祈ることを、「御前にこころを注ぎ出す」というとらえ方をしました。自分が思っていること、心のうちに溜めてしまっている思いを、器から貯めた水を流すように「注ぎ出す」。それが祈りだというのです。「注ぎ出す」のですから、水道の蛇口からちょろちょろ出すのではありません。蛇口全開で構わない。思い切って、心にあるわたしたちの思いを神に注ぎ出すのです。
赤ちゃんが泣く時に、しくしく泣くなんてことはないでしょう。顔を真っ赤にして思い切り泣く。どうして欲しいか訴えるように泣くはずです。お腹がすいているのか、暑いからなのか、眠たいからなのか分からないけれど、とにかく思い通りにならないと泣くのです。そこには隠し事はありません。自分ではどうすることもできないので泣いて訴える。イエス様は、子どものようにならなければと言われました。その訴えが見当違いなものであっても、神様は叱りません。そして、何らかの仕方で答えてくださいます。
最近ある教会の祈祷会で、具体的な一人の人の病気の癒しを皆で祈り、また教会員にも祈りを合わせるように呼びかけがあったという話を聞きました。わたし自身、それまでそのようなことはしてこなかったなと、その話を聞いて気づきが与えられました。教会の祈祷会は公の祈りをするところではありますが、少なくとも教会の誰々が、こういうことで苦しんでいることを覚え、具体的なその人のために祈ったとして、それは決して私的な祈りとはなりません。むしろ、「祈りの共同体」として相応しいことです。案外わたしたちは、こんなに祈りが聴かれていることを知らないのかもしれません。これを体験するとき、希望をと喜びをもって喜ぶことができるのではないでしょうか。
イエス様は「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と約束してくださっています。この約束は確かです。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」この御言葉に答えていくとき、名古屋教会は「祈りの共同体」として、力強い一歩を踏み出すことができる、そう信じます。