エゼキエル書37章26節 ヨハネによる福音書20章19~29節
「あなたがたに平和があるように」田口博之牧師
先週、主の復活を喜び祝うイースター礼拝を捧げました。たくさんの人が礼拝に集われました。礼拝のテキストはいわゆる放蕩息子のたとえを通して、失われた者をただ待つだけでなく探しに行かれ、見つけるとこれでもかと思えるほどの喜び方をする神の愛を確かめるときとなりました。神の大いなる憐れみにより、見つけ出された者は神の子としての身分を回復し、「死んでいたのに生き返り」と言われるように、復活の命をいただいて歩むことが許されています。
ですから「放蕩息子のたとえ」と呼ばれていますが、主役は放蕩息子ではなく、見つけ出してくださった神の側にあるのです。今日のテキストにも失われていた弟子たちを見つけ出してくださった復活の主の姿と言葉とが記されています。
ヨハネによる福音書20章19節に「その日、すなわち週の初めの日の夕方」とあります。その日とは、イエス様が復活された日のことです。イースターの日の夕方、弟子たちはユダヤ人、すなわちイエス様を死へと追いやった大祭司はじめユダヤの指導者層の迫害を恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて潜んでいました。
弟子たちは、イエス様が復活されたという知らせを、マグダラのマリアから聞いていました。でも、弟子たちは恐れて家に閉じこもっています。弟子たちは、マリアの話を戯言(たわごと)だと思ったから信じなかったのではなかったと思います。人は直接、自分の目で確かめたり、触ったりしなければ信じることができないという疑い深さをもっています。彼らはイエス様の弟子であるという理由で、どんな迫害の手が伸びるか、その恐怖のあまり家に閉じこもり災いが過ぎ去るのを待っていたのです。
そんな弟子たちのもとにイエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。恐れにとらわれている弟子たちに平和を与えるイエス様の言葉です。「そう言って、手とわき腹をお見せになった」とあります。十字架に架けられたときに、手には釘が打ちつけられました。そしてわき腹には兵士の一人が槍で突いた跡があります。確かにイエス様の声です。確かにイエス様が受けられた傷です。弟子たちの疑いと、疑いからくる恐れは取りはらわれました。弟子たちは喜びました。かつて、「自分はエルサレムに上り、ユダヤの指導者、そして異邦人に引き渡され、十字架で殺されて、三日の後に復活する」。そう語られていたことを思い出し、ああイエス様が言われたとおりのことが起こったことが分かった。そのことで、イエス様が復活されたことを確信することができ喜んだのです。
するとイエス様は、「あなたがたに平和があるように」という言葉を重ねられました。CSや子どもと大人と共に礼拝でしている「平和の挨拶」の言葉です。プロテスタントの教会で平和の挨拶が取り入れられたのは、20世紀後半の典礼刷新運動とエキュメニカル運動の影響です。多くの教会でしているわけではありませんが、名古屋教会でする平和の挨拶はとてもいいなと思っていました。コロナ感染が始まってから、席を立ったり、握手をすることはなくなってしまいましたが、それでも礼拝で初めて言葉を交わす人に、「主の平和」と挨拶し合うことには意味があります。復活されたイエス様が、弟子たちに最初の語られた言葉が、「あなたがたに平和があるように」だったのです。しかも21節で重ねて言われています。「あなたがたに平和があるように」と。弟子たちは平和の支配のもとに移されました。その上で、弟子たちにこの世への派遣を命ぜられたのです。
ヨハネ福音書で弟子たちを派遣するのはこの時が初めてでしたが、他の福音書では初めてでありません、たとえば。マタイ福音書10章の12人の派遣の記事を見ると、12節以下で「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる」と言われています。
「ふさわしくない」とは、平和の挨拶など受ける気がないということです。わたしたちは「平和を祈り求める共同体」として、戦争が終わるように祈ります。しかし、その祈りはなかなか届きません。わたしたちは無力さを感じます。そう、わたしたちは無力なのです。無力だからこそ祈るのです。この祈りが空しくなることはありません。イエス様は「その平和はあなたがたに返ってくる」と約束されているのです。
復活のイエス様が弟子たちに向かって「あなたがたに平和があるように」と言われた後で、「あなたがたを遣わす」と言われたのは、平和の使者としてこの世に遣わすということです。でも、弟子たちにとしては、何と大それたことかと思ったでありましょう。恐れて部屋の中に閉じこもっていた弟子たちにそんな勇気があるでしょうか。ですからイエス様は、彼らに息を吹きかけて言われるのです。「聖霊を受けなさい」と言われるのです。土で造られたアダムの鼻に、主なる神が命の息を吹き入れて生きる者とされたように、ここでイエス様は、弟子たちも聖霊の息吹を吹き入れられて、彼らも復活の新しい命に生きる者とされたのです。
このようにして、イースターの日の夕方、イエス様に出会ったことで弟子たちは復活の命に生かされる者とされました。しかし、弟子の中の一人、トマスだけはその中にいなかったのです。24節以下は、一人置いてきぼりにされたトマスの様子が記されてあります。「わたしたちは主を見た」と言う弟子たちの証言に対して、ディディモと呼ばれるトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言うのです。要は証拠を求めたわけです。
「ディディモと呼ばれるトマス」とあります。よく「疑い深きトマス」と呼ばれていますが、ディディモとは疑い深いという意味ではなく、双子という意味です。このトマスは双子の一人だったのです。ではもう一人のトマスはどこにいるのでしょうか。それは、「神がいるなら証拠を見せてほしい」などと思ってしまう、わたしたちがそうです。そう、トマスはそんなわたしたちの代表なのです。
26節「さて、八日の後」とあります。これはイエス様が弟子たちにあらわれてから八日の後、イースターから一週間後の日曜日ですから、今日のことと言えます。この日にはトマスも一緒にいました。イエス様は、イースターの日と同様、弟子たちの真ん中に立ち、ここでも「あなたがたに平和があるように」と言われました。同じ言葉をこれで三度重ねられたことになります。そして、弟子たちの中でトマス一人に向かって「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけられました。
このとき聖書は、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と答えたと告げています。自分の指をイエス様の手に当てたとか、手を伸ばしてイエス様のわき腹に入れたとか。そんなことは書いていないのです。きっと、そうする必要はなかったのだと思われます。そしてトマスの告白で大事なのは、イエス様のことを、ただ「主よ」、「神よ」と言われたのではなく、「わたしの主、わたしの神よ」と言われたということです。これはトマスの告白として立派だというばかりでなく、「我と汝」、「わたしとあなた」という関係の中にトマスが導かれたということ、イエス様との間に平和を得たことの証です。
ここにおいて、主がエゼキエルを通して語られた預言の言葉が成就したのです。エゼキエル書37章26、27節。「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」復活の主が平和の契約を結んでくださいました。そして、わたしたちをご自分の民としてくださり、だからこそ、わたしたちは、「わたしの主、わたしの神よ」と告白することができるのです。
「平和の挨拶」の話をしましたが、イエス様が与える平和は、日常の挨拶の言葉とは異なるのです。ヨハネ福音書14章27節、これは弟子たちとの別れの説教の時の言葉ですが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と言われているような特別な平安です。こう言われた後で「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」と約束されていました。そのとおり、イエス様は復活されて、弟子たちのもとに戻ってきたのです。
今は誰かがコロナに感染したと聞いても、あまり驚かなくなってきました。それがウィズコロナということかもしれませんが、握手を控えねばならないという状況が続くとすれば、ウィズコロナは平和が失われている状態が続くということになっています。わたしたちが住むこの世界は今、恐れに支配されています。
平和を意味するもともとの言葉はシャロームだと言いました、これはイエス様が使われていたもともとの言葉という意味ですが、今もイスラエルに行くと日常的な挨拶の言葉になっています。その意味で復活されたイエス様が、日常の言葉、「シャローム」、「あなたがたに平和があるように」と声をかけられたことには大きな意味があります。
わたしも一つ反省せねばと思うことがあるのですが、受難週、棕櫚の日の説教の際に、停戦協定を結ぶと言いながら実現できない状況を思いつつ、今日から受難週に入るので、せめてイースターにかけてのこの一週間は停戦できないものか、そんな話をしました。しかし後になって、先週の聖書研究祈祷会で会話している中で、ロシアやウクライナの多くの人たちが信仰するロシア正教、東方教会では、西洋のグレゴリウス暦ではなくユリウス暦を使っているためにイースターが1週間ずれて24日ということに気付いたのです。ロシアとウクライナとの戦争の報道で、確かにわたしたちの元に届くのは西側からの情報ですが、教会暦の理解においても、西方の信仰が基準になっていることに気づかされました。
国連のグテーレス事務総長は演説で、「東方正教会のイースターの期間に合わせ、21日から24日までの4日間、停戦するよう呼びかけた」と言っていました。聖木曜日からイースターまで停戦せよという呼びかけですが、残念ながら聞かれることはありませんでした。ローマ教皇も、武器を置いて、復活祭の停戦を始めることを訴えていましたが、そうした声が届くことはありませんでした。
平和を意味するシャロームは、祝福に満ち満ちた欠けのない状態を言います。同時にイスラエルにいけば、「おはよう」も「こんにちは」も「シャローム」というように日常の言葉となっています。それは当たり前であることの祝福であり、何か心配事があり、夜眠られないというのであれば、それはシャロームだとはいえないのです。戦争がないからシャロームだということではありません。しかし、今、わたしたちの住むこの世界で、その戦争が起こっています。
主が復活されたイースターの日にも、恐怖の只中にいる人たちがいます。命の危機にある人たちがいます。イエス様、その人たちのもとを訪れてくださることを祈ります。「あなたがたに平和があるように」と声をかけて守ってください。また、自分たちがそこを制圧するまで、戦いを止めることのできない兵士たちのもとを訪れてください。砲弾ではなく、悲鳴でもなく、「あなたがたに平和があるように」との主の御声を響かせてください。
主よ、この戦争を止めることを考えていない指導者層のもとを訪ねてください。彼らこそが恐れのただ中にいます。だから止めることができないのです。「あなたがたに平和があるように」との主の御心をお示しください。命の息を吹きかけ、聖霊を注いでください。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と御言葉のとおり、あなたの聖なる霊を受けることにより、「わたしが主、わたしが神」ではなく、「わたしの主、わたしの神よ」と告白することができるのです。
そして主よ、あなたは弟子たちに言われました。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」正しい裁きをなさるのは、あなた様ただお一人です。自らのことを省みず、他者の過ちばかりに目を向けて、裁こうとしてしまうわたしの罪に目を開かせてください。わたしも罪人です。このわたしの罪の身代わりとなって、あなたは十字架にかけられたのです。あなたの手に釘を打ち、あなたのわき腹に槍を刺したのはわたし自身です。
そんなわたしの罪を、主は、あなたはご自分の命と引き換えにしてお赦しくださいました。その言い尽くせない恵みの中に置かれています。そして復活の命にあずからせていただいています。「あなたがたに平和があるように」。それがあなたの御心です。この言葉を携えて、あなたが愛した世に遣わしてください。よみがえりの主、イエス・キリストの名によって祈ります。