聖書 詩編133編1~3節 マタイによる福音書18章15~20節
説教 「交わりが生まれるところ」田口博之牧師
聖書の言葉を、一語一句暗唱するというのは簡単なことではないかもしれません。ただしこれにメロディーがついたら聖書の言葉を自然に覚えることができます。先ほど歌った讃美歌162番は、カトリックの塩田泉司祭の作った答唱つき詩編歌で、この歌詞は新共同訳聖書の詩編133編と同じ言葉になっていることに気づかれたのではないでしょうか。
わたしが高校生の時、カトリックの洗礼を受けた中学の同級生を教会の聖書研究会に呼んだとき、彼が不慮の事故で死んでしまったことも一因となっていますが、聖書の訳が違ったことで辛そうにしていた表情を今も思い出すことがあります。新共同訳聖書が出来ていちばん嬉しかったのは、同じ聖書を読めるということでした。カトリックの司祭が作った讃美歌をプロテスタント教会の礼拝で歌えるというのは、とても素敵なことです。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。主に在る兄弟姉妹が一つになっているシャロームの祝福が歌われています。この讃美歌を作ったとき、塩田司祭は群馬県にある「フランシスコの町、あかつきの村」で仕事をされていました。ここはベトナム戦争の被災者、インドシナ難民を受け入れることで始まった施設でした。塩田司祭は、そこに座っている人々を見て、詩編133編に歌われている祝福が重なり、この讃美歌を作られたのではと思います。
イエス様がいちばん願っていることは何か、それは違いのある者同士が、主に在って一つになること、兄弟姉妹となることです。イエス様は十字架にかけられる前夜、あなたとわたし、すなわち父なる神と独り子が一つであるように、すべての人を一つにしてくださいと、とりなしの祈りをしました。
十字架でバラバラになった弟子たちが、主の復活のしらせにより一つに集まっているとき、約束の聖霊が注がれて主を信じる群れが生まれました。使徒言行録2章の終わりに「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」とあります。人が集まるところに教会ができたのではありません。聖霊により主が集めてくださいました。わたしたちがではなく、キリストがわたしたちを集めて、ご自身の体の一つなる部分としてくださったのです。イエス様の祈りは教会の誕生において実現しました。
今日、もう一箇所マタイによる福音書18章15節から20節を読みました。この構成としては、イエス様が弟子たちに話しをされたという枠組みに置かれています。ただし、ここに教会という言葉が出てきます。17節です。イエス様が神の国の福音を宣べ伝えていた時代、弟子集団は形成されていたにせよ、まだ教会はできていないはずです。これは、どういうことでしょうか。
聖書研究的な話しになっていて申しわけないのですが、ここは色んな考え方ができるところです。一つは、イエス様が聖霊降臨後の教会のあり方について語られたと読んで構いません。他方、マタイによる福音書がイエス様の復活、昇天から4,50年後に書かれたことから考えると、すでに教会が成立していたという背景の中で、イエス様が語ったと伝えられた言葉から、編集されたと考えることも妥当です。
「兄弟への忠告」という小見出しの下に、ルカ17:3とあります。これは並行記事がルカによる17章3節ということなのですが、そこを読むと「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」とあります。要は教会の中で何かしらの罪が明らかになったとき、教会としてどう対処するのか、ということが語られているわけです。この名古屋教会の中で、何らかの罪が発覚した。それは倫理的なことかもしれないし、法に触れるようなことかもしれません。そのときに、教会はどう対処すべきかが語られているのです。
このルカによる福音書のもう少し前後、17章1節から4節に書かれてあることが、マタイによる福音書では18章全体を通して語られています。17章3節の罪に対する対処については、18章15節から20節を通して読むことが求められています。
ですから、19節に「あなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう」とあります。ここは都合よく解釈すれば、ここにいる二人か三人で、宝くじが当たりますようにと心を合わせて祈るなら、きっと適えられるだろう。そう読みたくなるところかもしれませんが、イエス様は、そういう話をしているのではないのです。これはとても大事なことで、聖書の言葉のそこだけを切り取って読まないというのはそういうことです。
祈りが聴かれるというのは、そういうことではありません。聴かれないことで実はかなえられていることもあれば、時間がかかることもあります。わたしたちが祈っていたこととは、違うかたちでかなえられることもあれば、先の裁判での判決のように、思ってもみなかった実りとしていただけることもあります。
今日のテキストで集中的に語られているのは、教会の誰かが罪を犯したとき、教会はどう対処するか、その対処の仕方によって教会としての真価が問われていく。そういう視点で全体を読むことが求められています。そのことが、いくつかの段階を踏んで語られているのです。
最初に15節「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とあります。つまり、噂話にしないということです。親しい誰かに告げ口することもしないし、また、放置しておくこともしない。自分だけが知っている問題にして、一人で忠告する。そこで解決できるならば、「兄弟を得たことになる」。それでもう終わりにするのです。後に尾を引かせないのです。
しかし、それで相手が自分の非を認めないときにどうすればいいのか。人間は言い訳をしたがります。その場合が16節、「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」という対処の仕方です。ここでも噂話にするのではありません。言いつけるのでもありません。自分が信頼できる一人か二人を連れて、その人のもとに立つのです。事柄を客観的に判断できる人に間に立ってもらうのです。罪を犯した人がそこで間違いを認めればそれで終わりです。複数の証人のもとで和解がなされる。
でも、それでも上手く行かないこともありえます。そのときが17節、「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」とあります。そこで初めて公の問題とするのです。但し、教会に申し出ると言っても、わたしたちの教会を考えてもよいと思いますが、いきなり教会総会で扱われるということはありません。総会は極端だから教会の協議会や全体集会で取り扱うということでもない。長老会に申し出るのです。教会総会で選ばれた長老たちの会議でそれが取り上げられ、話し合いがなされる。長老会という公の場で忠告し、そこで悔い改めたとすれば、そこで注意をし、そこで終わりにするのです。何かしら感情的なものが残ったとしても、後は和解の主にお委ねすればいい。
しかし、それでも断固、悔い改めなければどうなるか。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」となります。「異邦人か徴税人と同様に見なす」とは、ドキッとする言葉ですが、これを名古屋教会の規則に当てはめることができます。教会内規第24条がそれです。こうあります。
「 ① 会員が教会の秩序を乱し、あるいは信徒たるの体面をけがするような行為のあった場合には、日本キリスト教団の教規に基づき長老会は戒規を行うことができる。戒規は次の3種類とする。(1)戒告、(2)陪餐停止、(3)除名」です。
3番目の「除名」というのが、いちばん厳しい懲罰になりますが、これが聖書で言う「異邦人か徴税人と同様に見なしさい」に当てはまります。とても厳しい裁きという響きがありますが、どうでしょうか。イエス様は異邦人の主となられ、罪人や徴税人の友となってくださったのです。そう考えたとき、除名により、教会の交わりからは外れるけれども、そこでもう一度悔い改めれば、当然教会の交わりに帰ってくるということもありえます。
日本基督教団の教規、教会内規にある「戒規」という言葉は、一般社会では「懲戒」に当たると思いますが、必ずしも罰則ということではありません。「戒規」とは、英語のディシプリン(discipline)の翻訳です。ディシプリンは、弟子を意味するディサイプル(disciple)から派生しており、弟子訓練を意味します。
わたしが牧師になってから、その人は教会員ではありませんでしたので、戒規の適用ではなく、長老会の判断で教会から無期限の出入禁止になった人がいます。仕方ないことではありますが、今も痛みとして残っています。そう言ったら現れるかもしれませんが、イエス様のもとでの訓練下に置かれていると信じ祈っています。
18節の「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という言葉もこの流れで考えるべきことです。ここで「つなぐ」とか「解く」という言葉が出てきますが、これは「罪につなぐ」、「罪から解く」ということで、教会の持つ「鍵の権能」を意味します。つまり地上の教会は、罪を犯した人を罪につなぐ、すなわち罪を赦さないでおくこともできるし、罪から解く、すなわち罪を赦す権能を、イエス様から託されているということです。
しかも、これは地上だけの話では済まないのです。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」というのは、教会が罪を赦すか赦さないかを決めるかは、天上にも通じているというのです。長老会にそれほどの権能が与えられているというならば、その責任は重大ですし、何だか大袈裟すぎやしませんか。そう思うかもしれません。
ただ、イエス様はここで「はっきり言っておく」と言われます。ここはギリシャ語聖書では「アーメン レゴー」で、イエス様が、今から言うことをよくよく聞いておきなさい。そういう時にだけ使われる言葉です。「主の御名による言葉」そういう言い方をしてもよいでしょう。神様の強い意志を表していだけに、心して聴かねばなりません。
そして19節にも「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と、ここでも「はっきり言っておく」とあります。宝くじが当たることを願うという話ではないと言ったのはそういうことです。ここで二人が願っていることは何かといえば、罪を犯した者が悔い改めて、再び神の子として歩むことができるようにという祈りでしょう。教会の二人が心一つにして罪の赦しを祈り求めるなら、天の父はその祈りをかなえてくださる。そういうことを言っているのです。
ですから、20節の言葉、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という言葉も、その流れの中からとらえるべきです。そでないと、「じゃあ、一人でいるときには、イエス様は共にいてくださらないのか」そんなおかしな話になってしまいます。
イエス様がここで話されたことは、教会に託されている罪の赦しの権能ということでした。「二人または三人」というのも、教会が念頭に置かれています。教団の信仰告白に「教会は主キリストの体であり、恵みにより召されたる者の集いなり」とあります。一人では集いになりません。二人、三人というのは、教会の集い、集会、そして交わりを成り立たせる最少人数です。
使徒信条に「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」とあります。日本基督教団成立前、戦前に洗礼を受けられた方がここにはおられないかもしれませんが、教団が合同する前、名古屋教会が日本基督教会時代の使徒信条では、「聖なる公同の教会すなわち聖徒の交わり」と、「すなわち」という言葉が入っていました。プロテスタント、福音主義の教会は「聖徒の交わりがあるところに教会がある」そういう理解をするのです。カトリック教会の「司教がいるところに教会がある」という理解との違いです。
その交わりをならしめる根幹が、罪の赦しです。社会生活において「あの人のしたことは絶対にゆるせない」と思うときがあるでしょう。そこでは交わりを持つことができません。では、教会の中で「あの人は絶対にゆるせない」ということになれば、「聖徒の交わりがあるところに教会がある」という理解に照らして、もう教会ではなくなってしまうということです。イエス様が主の祈りで「我らの罪を赦したまえ」の前に、「我らに罪を犯した者を 我らがゆるすごとく」と教えられたのは、これが教会の祈り、教会の交わりを成り立たせる祈りだからです。
詩編133編も、マタイ18章でも、神はわたしたちのことを兄弟と呼んでくださっています。これは横の関係だけでできるものではありません。神の子とされたわたしたちが、イエス様の名によって集められることで兄弟、兄弟姉妹と呼ばれる。「神を愛し、隣人を愛しなさい」の教えに生きる。天との交わり、地上での交わり、縦と横の線が十字にしっかりと結び合わされるとき、教会は真に聖なる教会となり得るのです。