詩編118編13~16節 ペトロの手紙一1章3~5節
「生き生きとした希望が与えられ」田口博之牧師
説教塾という説教にかかわる勉強会に参加しています。昨日、94歳の誕生日を迎えた加藤常昭先生が説教塾の主催者です。開塾30周年のシンポジウムが行われたのが2017年でしたので、35年経過したことになります。わたしは参加して20年以上経っていますので、いちおう古い方に属していますし、積極的な関りも期待されているのですが、今はあまりアクティブな働きはできていません。
この説教塾開設に大きな影響を与えた方に、ルドルフ・ボーレンというドイツの実践神学者がいます。わたしは説教塾に入る前の1997年だったと思いますが、金城教会で行われた講演会に参加する機会を得ることができました。まだ金城の協力教師の時代で、説教をする機会もほとんどなかった時です。何を話されたかは覚えていませんが、かん高い声の方であること、しかし、その語り口から、説教に対する情熱を感じたものです。
そのボーレン先生が最も愛された聖書が、今日のペトロの手紙一1章3~5節でした。日本語で読めるボーレン先生の説教の中に、2001年4月22日、イースター翌週のハイデルベルク、ペトロ教会でペトロの手紙一1章3節をテキストに説教したものがあります。このように始まっています。
「いきいきと生きている望みに向かって新しく生まれ・・・」この言葉が語ることが、どのように私どもに当てはまるべきであり、当てはまり得るでしょうか。どのように私どもの特質となっているはずであり、それが可能になっているでしょうか。私どもの歩んできた人生の特徴を示すものとなることができているでしょうか。」
皆さんは、そのように問われたらどう答えるでしょうか。生き生きとした望みに向かって生きているでしょうか。先週のイースター礼拝でお話したように、洗礼を受けた人は新しく生まれた人です。イエス様は、ご自分のために復活されたのではありません。わたしたちを新しく生まれさせるために、十字架に死なれ、死者の中から復活なさったのです。洗礼を受けた人はキリストに結ばれ、キリストの死にあずかるとともに、復活の姿にあやかれると約束されています。では、洗礼を受けている皆さんは、わたしは新しく生まれたことを自覚しているでしょうか。
生まれたばかりの赤ちゃんは、大きな声で泣きます。産声を聞いたときに、生まれた子が生きていることを確信することができます。産声を挙げるのは理由があるからです。これまではお母さんのお腹の中で、へその尾を通して呼吸していたけれど、羊水を体の外に出して肺呼吸をするために必要だから産声をあげるのでしょう。その泣き声は、お母さんの体の外に出て、新しい命を生き始めることへの合図でもあります。
洗礼を受けた人も新しい命に生き始めます。その人は、新しい呼吸を始めます。祈りという呼吸です。ボーレン先生最後の著作が、5年前に出版されました。書名は「祈る」です。「祈り」でなく「祈る」。タイトルもとても動的です。世に出たのは、詩人であり、ドイツ文学者の川中子義勝さんの翻訳ですが、加藤先生もこの本を訳され、説教塾の中で公開されました。加藤先生の訳には、牧会者として、教会の祈りの導き手としての思いが強く出ています。
ボーレン先生は「祈る」の中で、「祈りは修練」だと言われます。祈るということは、「神が信仰への贈り物としてくださった義の修練」だと言うのです。新しく生まれた人は、自分でしっかり祈れるようになりたいと思うはずです。しかし、そのためには修練が必要だというのです。
但し、この本を皆さんが一人で読まれても難しいと思います。まずはわたし自身が、しっかりと祈りの備えをし、修練したうえで皆さんと一緒に読むようにしたい。聖書研究祈祷会をその時としてもよいと思っています。この本が目指すような執り成しの祈りができたとき、まさに新しい人として生きていることの確信が持てるのではと思います。このような祈りができる人が増えれば、教会も新しくなります。
はじめに紹介した説教の中で、ボーレン先生は今日のテキスト「この3節をもって、ご自分の祈りとしていただきたいのです」と語られた上で、テキストを引用しています。原稿のとおり読みますので、聖書が手元にあれば、是非聖書を開いて聞いてください。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望へと、わたしたちを新たに生まれさせてくださいました。」
聞きながら、あれ?と思われたのではと思います。これは、ボーレン先生が用いているチューリッヒ訳に従った翻訳のようですが、確かにギリシャ語聖書にあたると、そのような語順が正しいようにも思えますし、そのような翻訳の聖書の方が多いです。新共同訳聖書だと、わたしたちが新たに生まれたのは、神の豊かな憐れみによってであり、イエス・キリストの復活とわたしたちが新たに生まれたこととの関係が希薄になります。
聖書日課によれば、このテキストは復活節第二主日、イースター翌週に読まれるテキストとなります。イエス・キリストの復活がなければ、わたしたちが新たに生まれることはなかったのです。
新たに生まれた人は、赤ちゃんが泣くことが仕事であるように、新しい言葉を発するようになる。それが祈るということだと言いました。もう少し言えば、新しい人は、自分のことのためだけに祈るのではなく、他者のために祈れるようになります。しかし、たどたどしくても、子どもが何かを話しかけてくれれば親は嬉しいように、神さまも嬉しいはずです。一生懸命に訴えかけることを、喜んで聞いてくださいます。しかし、いつまでも赤ちゃんのままでいいとは思わないことも事実です。ちゃんと祈れるようになりたいと思う。そんな信仰者のために、備えられた祈りの指南本だといえます。
新しく生まれた人は、祈りだけではなく、新しい歌が歌えるようになります。3節「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」とあるとおり、父なる神をほめたたえる者とされるのです。賛美については、祈りよりもハードルは低いでしょう。誰でも祈れるわけではありませんが、誰でも歌うことはできるからです。もちろん、信仰をもって歌う賛美と、そうでない賛美には違いがあります。歌が上手だからといって、神をほめたたえることよりも、歌う自分がいい気持ちになってしまうことがあれば、本末転倒です。その意味で、歌うことが好きな人にとって、讃美歌は誘惑にもなります。そうであるとしても、このテキストが「ほめたたえよ」で始めていることは大事なことです。神をほめたたえることが喜びとなるとき、人は新しい人になります。
ある人が、「神が生きておられることが分かるのは、礼拝の讃美歌によってではないか」と言いました。なるほどと思いました。先週の聖研祈祷会で、「教会は礼拝しながら伝道する」という話をしました。誰かを礼拝にお誘いすることにも勇気は必要ですが、自分で神様のことを伝えることと比べれば、できないことではありません。初めて礼拝に出席された方は、いろんな印象を抱かれるでしょう。中には、自分が来る場所ではなかったと思われる方もおられるでしょう。それは仕方のないことです。しかし、教会には神をほめたたえる人たちがこれだけいる。皆が生き生きと歌を歌っている。それは、初めて礼拝に来られた方にとって、大きな出来事になるはずです。教会員は、神を賛美する仲間にその方を招き入れる。そういう思いをもって讃美歌を歌うことが大事です。
教会で葬儀をすることがあります。教会の葬儀は、ポジティブ受けとめられることが多いと思います。理由のひとつに、讃美歌があると思います。葬儀では、死者の魂が静められること願う鎮魂歌を歌うのではありません。その人の人生を支えてきた讃美歌や、イエス様の復活により死を滅ぼし、永遠の命へと導いてくださる神の恵みを知ることができます。葬儀で讃美歌を歌えるのは、悲しむご遺族にとっても希望になるはずです。
今は希望という言葉が色褪せているように思います。わたしたちが生きている世界は、希望が見いだせないような状況に溢れています。報道されないと落ち着いてきたように思ってしまいますが、ロシア・ウクライナの戦争は終わりが見えません。トルコ・シリアの地震の被災者は今、どうされているでしょう。今、この時も途方に暮れている人たちは何百万人もいるはずです。アフリカからヨーロッパへ逃れようとする人は後を絶ちません。国内のニュースも、考えられないような不正、犯罪に溢れています。テロまがいのことも起こっています。経済の先行きも見通しが立たない。将来のことを考えると暗くなるだけだから、もう考えようにする。ほんのひと時の喜びを見つけながら生きていくしかない。そうだとすれば、とても残念なことです。
しかし、イエス・キリストの復活の命にあずかり、新しく生まれた人には、生き生きとした希望が与えられます。生き生きとした希望というのは、何かウキウキするような希望ということではなくて、希望そのものが生きているということです。わたしたちの内から湧き上がってくる希望ではなくて、外からの希望、神によって与えられる希望です。わたしたちを生かしてくださる神が希望になる。だからこそ、神をほめたたえることができます。
その希望の根拠は二つあります。一つが、4節「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者と」されているということです。わたしたちが地上で蓄えようとする財産は、朽ちて、よごれて、しぼんでいくものですが、天に蓄えられている財産は、朽ちず、汚れず、しぼまないものなのです。ここを読んでいて、山上の説教の言葉を思い出しました。イエス様は、「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」と言われました。だから、「富は、天に積みなさいと」。
わたしたちは、財産とか富と聞くと、お金のことを考えると思います。近年、急増する特殊詐欺事件などを聞くたびに、地上に富をもっていてもろくなことにならないと思います。そのように言うと、「富は、天に積むべき」という言葉が、献金の勧めのように聞こえてきます。しかし、天に富を積むとは、わたしたちの人生を神にお委ねするということなのです。2レプトンささげた貧しい女性がそうであったように。そのように生きた人には、「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」すなわち、永遠の命が与えられることが約束されています。そこにこそ、揺るぐことのない、生き生きとした希望の源があるのです。
もう一つ、生き生きとした希望が与えられる根拠となる言葉が5節です。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」とあります。新しい人になり信仰が与えられても、希望にゆらぎを感じることがあるのは、この世での救いが完全なものではないからです。天でなく地で生きているわたしたちは、洗礼を受けて救われていると言っても、聖餐が神の国の食卓の前菜であるように、救いの一端しか知りません。ここで「終わりの時に現されるように準備されている救い」と言っているとおり、地上でのわたしたちの救いは準備段階なのです。だから右往左往します。信仰がどこかに行ってしまって、古い自分に戻ってしまうことも起こり得ます。
ですから、6節以下にあるように「今、しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないのかもしれません」と言われるのです。試練は神が与えられるものですが、試練が誘惑となって、信仰から離れさす危険性を秘めています。だからイエス様が教えられたように、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」との祈りが必要なのです。試練をくぐりぬけることで、わたしたちの信仰は本物と証明され、「イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」と約束される。
わたしたちは地上の存在です。それでもイエス・キリストの復活によって、新しく生まれた者です。わたしたちに与えられた希望は、時代が変わっても、どんな試練に直面しようとも、泡となって消えることはありません。最大の試練である死さえも滅ぼしてくださった。このことを拠り所とすれば、あきらめるという言葉を葬り去ることができる。復活の主が与える生き生きとした希望によって、わたしたちは新しく生きるのです。