コリントの信徒への手紙一15章1~11節
説教 「最も大切なこと」田口博之牧師

イースター礼拝に洗礼者が与えられて、また幼稚園のマンション問題の裁判も、業者から控訴はしないという連絡があり、名古屋教会は新年度、いいスタートを切ることができました。ただ、そう思った矢先、先週の木曜日に杉山なおみさん逝去の知らせが入りました。来月には98歳を迎えられ、名古屋教会の現住陪餐会員では最年長の方でした。昨日教会で葬儀を行いました。直接お顔を見てのお別れを希望される方もおられると思いつつ、ご家族でお送りしたいという希望があり、皆さんには今朝の礼拝と週報でお知らせすることなりました。

杉山なおみさんについては、以前からの名古屋教会のメンバーにとっては、ご紹介するまでもない方だと思います。音楽の先生をされ、教会でも80歳を過ぎた頃まで、オルガニスト、聖歌隊の指揮者として、名古屋教会の礼拝音楽を牽引されました。2015年7月にシルバーホーム「まきば」に入居され、昨年の10月に介護棟に移られましたが、今年に入ってもピアノを弾かれている。そんな動画も見せていただきました。

木曜日の夕方に呼吸が止まったという連絡があり、「まきば」のお部屋に行きました。そこは戸田澄子さんの部屋の隣、すなわち戸田伊助先生がいらしたお部屋でした。2週間前に脳梗塞を発症し、一度は意識がなくなりましたが、持ち返して11日間生きられました。医師はじめ皆が驚いていたようです。最後の晩餐の木曜日には聖餐も受けられました。小田部先生がブドウ液を含ませたパンを口に当てられたそうです。聖餐が地上での最後の食事となりました。最後に何を食べたいかと問われれば、いちばん好きなもの、なかなか食べられなかった贅沢なものを食べたいと思われるかもしれません。わたしも最近、聞かれたことがありました。それほど食べ物に貪欲さがないので、なかなか出て来なかった。改めて聞かれればいちごのケーキかなと考えもしたのですが、やはり最後に聖餐のパンと杯を受けたとすれば、どれほど幸いかと思いました。聖餐は地と天とをつなぐ食事といえるからです。

さて、今日のテキスト、コリントの信徒への手紙一の15章は、復活について集中して語られているところです。新共同訳聖書の小見出しを拾えば、キリストの復活、死者の復活、復活の体とあります。コリントの信徒への手紙というのは、使徒パウロがかつて伝道したコリントの教会に書き送った手紙です。パウロが去った後で、コリント教会は乱れました。おそらくコリントの教会にも長老が立てられていたと思います。教会をまとめていかねばならない。でも、若い教会ですので、後から来た伝道者の言うことが違い、それで教会が混乱したのです。党派争いが起きたり、色んなトラブルが生まれました。そこで長老たちはパウロに再度教えを乞い、パウロは手紙で答えた。それがコリントの信徒への手紙の一と二です。とても長い分量です。答えねばならないことがたくさんある。もしかすると、何通か分かれていたものが、聖書の編纂過程で二つの手紙にまとめられたのかもしれません。あるいは一気に書いたのかもしれません。第一の手紙で最後に残されていた問いが復活についてです。教会の中で、復活について、どうにも信じられない人が出てきたけれども、どうすればよいのかをパウロに尋ねてきたのです。

するとパウロは「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」と、書き始めます。一体どうしたことか、忘れてしまったのか。であれば、もう一度言うから思い出してもらいたい。「これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」。パウロは訴えかけるような思いで、書いたのではと想像します。

パウロはここで福音という言葉を繰り返し語っています。そう、パウロがコリントの信徒たちに、繰り返し語ったのが福音でした。「あなたがたはこの福音によって救われます」と言っています。救いというのは、努力して獲得するものではなく、福音を信じることに他ならないということです。では福音とは何でしょう。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」と語っています。パウロが「思い出してもらいたい」と言って、改めて語った福音は、キリストの死と葬り、そして復活と顕現でした。これが「最も大切なこと」だと言うのです。わたしたちの教会でも、レントからイースターの礼拝で、また墓苑礼拝で集中的に語られたことです。

先ほどの「子どものためのメッセージ」で読まれた聖書は、使徒言行録3章15節でした。聖霊が降って間もない頃に、ペトロがエルサレム神殿でした説教の1節です。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」。ちなみにケファとはペトロのギリシャ語訳です。この時にペトロが語ったことも、キリストの死と復活の福音でした。使徒たちは何を「最も大切なこと」として語っていたことが、後に使徒信条となりました。神の独り子、イエス・キリストの生涯をすべて省いても、十字架の死と葬りと復活について語っています。なぜかといえば、ここに福音が集中して語られているからです。

福音とは「喜びの知らせ」という意味です。イエス様の生涯を記録した四つの福音書も、伝記ではなく福音書とされています。福音書の中で全体の半近くが、イエス・キリストの苦難と死、復活について割かれているのは、ここに福音が凝縮して語られているからです。では、なぜそれが福音、喜びの知らせといえるのでしょうか。理由は、救いと直結しているからです。これを信じさえすれば救われるからです。罪の重荷に苦しまなくていいからです。死んだらそれで終わりではなく、復活と永遠の命の約束の中で生きることができ、また死ぬことができるからです。

先週洗礼式が行われましたが、1月頃から毎週受洗準備会を行ってきました。幸いなことに、引き続き受洗希望者が与えられて、今も学びを始めている方がみえます。準備会のはじめに、なぜ洗礼を受けることを望むのかを問います。 皆さんの答えは救われたいからです。罪の赦しの確証が欲しいからです。永遠の命を確信したいからです。聖書は、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じれば救われると語るのです。

受洗準備会も、最近はできるだけきっちりするようになりました。きっちり行っても、それで終わりではありません。洗礼を受ける前には、長老会で「洗礼試問会」を行います。この人が洗礼を受けるにふさわしいかどうかを質問して試す時を持つ。言葉通り言えばそういうことになるので、皆さん緊張されます。実際には、それほど緊張することはなく、神様が洗礼への志を与えてくださったことを感謝し、恵みが支配する時となります。けれども、質問が何もなければ試問会にならないので、長老も何か尋ねなければと考える。

そこで出る問いの中で、「心に残った聖句がありますか」という質問が、一度ならず出ることがあります。実は準備会の中では、特定の聖句を覚えるとか親しむというアプローチはしていないので、困った様子も伺えます。

今日は共に礼拝でしたが、普段はCSの礼拝が済んでから10時間の礼拝までの時間がないこと、礼拝堂で行っていることもあって、分級、グループ活動に十分時間を取ることができません。たいていは、その日の聖句を貼って終わりです。せめて、それを読んで貼るようにするとか、そこで暗唱できたら貼る。やり方といては古風という気はしますが、とにかく聖書の言葉を覚えるというのも、とても大事なことではないだろうか。幼稚園の卒業式のときに、自分が好きだった聖書の言葉を、一人ずつ言うという時間があります。その言葉が心に刻まれて、やがて諮問会で答える時が巡ってくるとすれば、嬉しいことです。

洗礼を受けた人は、再び試問会を経験することはありません。しかし、あなたの信仰は何かと問われることがあるかもしれません。午後に長老会がありますが、今日は牧師が長老一人一人に「あなたはなぜ、救われていると確信できますか」そう試問するといったら一気に緊張が高まるかもしれません。それでは困るのです。いや、困ったとすれば、今日の聖書のテキストに戻っていただくといい。パウロはここで、「最も大切なこと」と言った福音の中身、「キリストがわたしたちの罪のために死に、葬られ、復活された」こと。この信仰があれば、揺るぐことはありません。ここに救いがあります。神様がわたしのために、ここまでのことをしてくださる方だと思えば、思い悩むことさえ愚かに思えてしまう。

今日のところ、6節以下はあらためて読む機会を設けるとし、5節迄で忘れてならないことは、パウロが「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と言っていることです。すなわち、自分でこれがいいと考えついたこと、閃いたこと、悟りを開くようにして得たことを伝えたのではなく、わたしも受けたものを伝えたと言っていることです。

この手紙が書かれたのが、西暦55年頃と特定できていますので、細かく言えば、今から1966年前となるでしょう。その時点でパウロが受けて伝えたものが、今も伝えられている。そう考えたらすごいことです。そのようにして福音は時代を超え、地域を越えて、伝えられてきました。一人一人が駅伝の選手のようにして福音のたすきをしっかり渡していく。わたしたちにとって「最も大切なことは何か」、心に刻みましょう。