マルコによる福音書11章1~11節
説教「ダビデの子、ホサナ」田口博之牧師

今日から受難週に入ります。イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城されたとこから始まる最後の一種間です。今日は教会暦の聖書日課にも沿うかたちでテキストを選びました。ここで人々がイエス様をお迎えするときのこと、8節に「葉の付いた枝を切って道に敷き」と記されています。このところを、平行記事のヨハネによる福音書では「なつめやしの枝を持って迎えに出た」とありました。なつめやしとは、いわゆるやしの木です。イスラエルに行ったとき、シナイ半島でたびたび見かけましたが、常緑樹の高木で、枝とも葉ともいえる広がりに特徴があります。かつての聖書では、ここを「しゅろの枝」と訳してありました。受難週に入るこの日を「棕櫚の日」と呼ぶようになりました。

今日の箇所、小見出しには「エルサレムに迎えられる」とあります。毎週の礼拝で読んでいるルカによる福音書では、イエス様はすでにエルサレムへの旅を始めておられます。すでに十字架を背負われる決意を固め、受難への歩みを始めておられました。12人の弟子たち以外にも、たくさんの人々がイエス様について行き、道々いろんなことを教えられました。そのように旅を続けてきたイエス様が、いよいよエルサレムに入ろうとされるところを描くのが、今日の聖書箇所です。

エルサレムに近づいたイエス様は、二人の弟子に子ろばを連れてくるように命じました。「まだだれも乗ったことのない子ろば」だと記されてあります。いったい、どのくらい小さかったのか。大人が乗れば、足が地面に着いてしまうくらい小さかったでしょうか。そうだとすれば、子ろばの方が気の毒な気もします。ただ、7節に「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった」とあります。子ろばと言っても。大人が乗っても滑稽には見えないほどの大きさであったに違いありません。

以前にこのろばについて、調べたことがありました。そのときの資料は出てこなかったので、記憶で言うしかないのですが、ろばというとおとなしいイメージがあるけれども、馬と比べるとそうではないらしい。いろんなことに興味を示し、調教するにも時間がかかるやっかいものなのだと。ことに「まだだれも乗ったことのない子ろば」というのは、まだ調教できていないろばのことで、人の手に負えるようなものではなかったというのです。もちろん、ろばにも気性の荒いろばもそうでないろばもいるかもしれません。それを読みながら、イエス様が使いに出した二人の弟子はろばの扱いに慣れていたのではなかったか。何より、このろばを乗りこなしたイエス様はたいしたものだと思いました。これも奇跡です、とCSで話をしたことを思い出す。

ただし聖書は、そのようなことは書いていないのです。ろばがどんなに荒々しかったとしても、戦いの役には立ちません。でもそこにこそ、イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入られたことの意味があります。王が歩いて凱旋されることはありません。王であれば軍馬に乗ります。イエス様がろばに乗られたということは、戦う王ではないということです。

ゼカリヤ書9章9節、10節にこうあります。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

イエス様のエルサレム入城は、このゼカリヤの預言の成就でした。子ろばに乗って入城される王は高ぶることのない王、戦車や軍馬を絶つ王、戦いの弓を絶ち、諸国の民に平和を告げる王としてエルサレムに入られたのです。この時、多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原からの葉の付いた枝を切って来て道に敷きました。人々は、さもレッドカーペットを敷いて要人を迎えるようにしてイエス様を迎えたのです。おそらく人々の期待は、平和の王などではなく、ローマの支配から自分たちを解放してくださる王であったはずです。

そして、前を行く者も後に従う者もこう叫んだとある。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」

ユダヤの人々は、ダビデの子孫から、イスラエルを救う王が生まれることを期待していました。人々は、イエスこそがダビデの子、栄光に満ちたダビデの王国を再建するお方として迎えたのです。この「ホサナ」という言葉は、詩編118編25節にある「どうか主よ、わたしたちに救いを」という祈りの言葉です。しかし、皆で「ホサナ」と唱えたとき、日本語で言えば、「万歳」と叫ぶような、そんな思いではなかったでしょうか。イエス様によって、ローマの支配を打ち砕き、ダビデの王国を再建されることを期待して、「ホサナ、万歳、ダビデの子。」そのような思いで、イエス様を迎えたのです。

このときの民の叫び、詩編から取られたことからしても、民は歌って迎えたのだと思います。では、どのように歌ったのでしょうか。説教に先立って、307番「ダビデの子、ホサナ」を歌いました。讃美歌の譜の左上を見ると。歌詞はフィンランドの讃美歌集から取られたようです。作曲者はゲオルグ・フォークナー、この人はドイツの人です。とてもリズミカルな讃美歌になっています。北欧のルーテル教会で歌われた讃美歌ですが、讃美歌21に所収されました。もっとも、すでに「こどもさんびか」にも入っていました。この讃美歌を歌うと、これを愛唱歌としていた松島保真(ほさな)という牧師の顔がちらついてしまいますが、とても元気の出る讃美歌です。その意味でいえば、受難週ぽくない讃美歌という思いもある。また、礼拝の終わりに83番を歌います。こちらの作曲者はシューベルトです。ドイツミサの中の一曲、サンクトゥス「聖なるかな」ですが、今日はイエス様のエルサレム入城を歌う「ダビデの子、ホサナ」という歌詞の出てくる2節を歌うことにしました。こちらはミサ曲らしい静かなメロディーです。

ただ、わたしが「ダビデの子、ホサナ」で思い浮かべるのは、今の2曲ではないのです。讃美歌21ではなく、以前の1954年版の讃美歌の中にありました。ヘンデル作曲の聞き慣れたメロディー、「よろこべやたたえの主」で始まる讃美歌です。そういってもピンと来ないかもしれませんが、その讃美歌の2節3節の歌詞に出てきました。(田口牧師は、説教中に歌ばかり歌っていると言われてもよくないのですが、聞き慣れたメロディーということで紹介したほうがよいかもしれません。こういう歌です。)

「さちあれや、主の民に、ホサナ、ホサナ、ダビデの子
今ぞきたる神の国、今ぞ成れる主のちかい。
さちあれや、主の民に、ホサナ、ホサナ、ダビデの子。」

紹介したかったのは歌詞ですが、聞きながら運動会の表彰式を思い出してしまったとすればよくなかったかもしれません。ですので、3節は歌詞だけ読みます。

「むかえよや、さかえの主、ホサナ、ホサナ、ダビデの子。
平和の御座、ゆるぎなく、めぐみの御代かぎりなし。
むかえよや、さかえの主 ホサナ、ホサナ、ダビデの主。」

表彰式に引っ張られすぎかもしれませんが、わたしはこのエルサレム入城の箇所を読むとき、マラソンでトップで競技場に戻ってくる選手の姿を思い浮かべることがあります。イエス様の公生涯は3年間だったと言われています。ガリラヤでの活動を終え、折り返し点が過ぎてからはエルサレムへの旅です。ずっと路上での歩みを続けてこられ、いよいよエルサレムに入ってくる。そしてエルサレム競技場のマラソンゲートをくぐると大歓声で迎えられる、そんなイメージです。しかし、実際のマラソンでも競技場に入ってからトラック周回中にドラマが生まれることがしばしばです。1964年の東京オリンピックは幼稚園の年少ですが、わたしのもっとも古い記憶です。マラソンの円谷幸吉が抜かれそうになったとき、母親が悲鳴にも似た声を上げました。最後の最後にドラマが起こります。そしてここから、イエス様の最後の1週間、受難が始まります。

イエス様に従った弟子たちは誰もいなくなりました。「ダビデの子、ホサナ」と歓迎した人々は、同じ唇で「十字架につけよ」と酒似ました。マラソンにたとえれば、最後の直線に入ったとき、イエス様は十字架を担がされています。表彰式のとき、イエス様は確かに三人の真ん中に立ちましたが、それは表彰台ではなく十字架でした。優勝者には月桂樹が冠とされてその栄誉が称えられることがありますが、イエス様がかぶせられたのは、月桂冠ではなくけい冠、荊の冠でした。

イエス様が子ろばに乗って来られたとき、人々は気付くべきだったのです。わたしたちが期待するダビデの子ではないことを、ユダヤをローマの支配から力づくで解放するような王ではないのだということを。しかし、もう一つ思わされることは、イエス様はそのような人々の叫びを受け止めておられたということです。「黙れ」とか「違う」とは言われませんでした。それは、イエス様が「主の名によって来られる方」であることは間違いではないからです。しかしイエス様が築かれる王国は、力によらず愛によって、人の支配によらず神の支配によって、人の罪を赦す十字架によって、もたらされるものでした。

わたしたちも、今この時代、武力によるのでなく、平和をもたらす真の王の到来を求めています。争いでは何も解決しないのです。報道で知るウクライナの情勢は、先週よりもなお悲惨になっています。戦争犯罪者という言葉が出てきました。ロシアの大統領にからし種ほどの信仰があるのだとすれば、受難週の間は休戦しよう、そういう思いにならないでしょうか。ロシア正教の主教は、そういう呼びかけはできないのでしょうか。人は安息の時が必要なのです。いちど休んで、受難週の聖書日課を読めば、自分がしている愚かさに気づくのではないでしょうか。日曜日の朝はこれから迎えるでしょう。今日の御言葉に耳を傾ければ、馬ではなく子ろばに乗られたイエス様の思いから気づくところがあるのではないでしょうか。「ホサナ」は万歳ではなく、「救ってください」という意味なのです。悔い改めて、神の方を向くことができるならば、真の民の叫びを聞けるのではないでしょうか。「あなたは何をしているのか」という神の声が聞こえるのではないでしょうか。

聖なる霊が注がれることを切に祈ります。己を主とするのではなく、あなたを畏れる者となりますように。己の正義ではなく、あなたの正義を求める者となりますように。どうか指導者に悟りを与えてください。
ウクライナの平和は、世界の平和です。今このとき世界中の教会を立たせてください。平和を求める祈りを一つにすることができるよう清めてください。十字架の主からゆだねられた和解の御言葉を語る力を与えてください。主よ、傷ついた人々を助けてください。闇の中にいる人々を訪ね、その肩に手をおいてください。キリストのあたたかな光で包んでください。
あなたが良いものとして造られた全地を、おいやしください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。