2021.4.1「最後の晩餐消灯礼拝」

☆礼拝式順

1.前  奏 (黙祷)
2.招  詞  ヨハネによる福音書12章24~25節
3.讃美歌  85番 「サント サント サント」
4.聖 書 イザヤ書53章1~5節
5.讃美歌 309番 (1、3節)「あがないの主に」
6.牧者の祈り、会衆の祈り
7.聖 書 マタイによる福音書26章20~25節
8.讃美歌  294番 「ひとよ、汝が罪の」
9.聖 書 マタイによる福音書26章26~30節
10. 説 教   “神の国の食卓”  田口博之牧師
11. 讃美歌  81番 (1~2節) 「主の食卓を囲み」
12. 聖 餐
13. 聖 書 マタイによる福音書27章32~54節
14.献 金
15.主の祈り
16. 讃美歌 297番 (1、3節)「さかえの主イエスの」
17.祝  祷

☆説教

毎年「最後の晩餐消灯礼拝」では、イエス様の受難の箇所、とりわけ十字架の死の場面を朗読し、説教もしてきましたが、今年はまさに最後の晩餐の箇所を中心テキストとすることにしました。4月に入りましたので、昨年度という言い方もできるのですが、2020年度は新型コロナウイルス感染症問題があって、完全なかたちで聖餐を行うことは難しかったです。ちょうど1年前の最後の晩餐礼拝を最後に半年間、聖餐式を休止しました。12月も一度お休みして、どういう仕方なら聖餐をいただけるかを考えました。聖餐式でいただくパンもブドウ液もわずかなものでしかありませんが、聖餐に対する飢えと渇きを覚えた1年でした。

そういう状況の中、礼拝でも何度か聖餐の御言葉に聞くことをしました。このマタイ26:26-30も3月第1聖日の聖餐を祝う礼拝でもテキストとしました。その中で、「今日は28節までを中心にお話します」と言ったことを覚えている方がいると嬉しく思います。その時には決めていたわけではありませんが、29節以下は別の時にしようと思い、それが今夕の礼拝となりました。

29節、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」イエス様はたいせつなことを言われましたが、説教集を読むと、この言葉が説き明かされることは多くありません。でも、説き明かさなくても分かる、というほど簡単でない言葉ではないのです。

29節を違う言い方をすれば、「これがあなたがたとの最後の食事である。しかし、これが終わりではない。父の国で、あなたがたとともに喜びの食事をする日が必ず来る」そんな約束です。父の国とは、父なる神の国ということです。わたしたちは今日、イエス様が十字架で死なれる前、弟子たちに差し出されたパンと杯に込められた意味を想起しつつ礼拝を献げます。しかし、イエス様は十字架に死なれた後、復活されましたので、これは最後の晩餐とはなりませんでした。

イエス様は復活された日の午後、二人の弟子と共に歩き聖書の言葉を語られました。ところが二人の弟子たちは、話をするその人がイエス様だとは気づかないのです。この人がイエス様だと分かったのがいつかといえば、食事の席についてパンを裂いたときだったと、ルカは伝えています。そのあたりのことは、イースター礼拝でも話をしたいと思っていますが、とても興味深いです。復活の体は、霊の体とも呼ばれます。霊の体は、話をするだけでは気づかないけれども、一緒に食事をすると分かる。そんな体だということです。いずれにせよ、わたしたちは聖餐でパンと杯にあずかるときに、イエス様が裂かれた体、流された血を思い起こすだけでなく、十字架で死なれたイエス様は復活してくださったのだということを心に刻みたいと思うのです。

もう少し言えば、わたしたちは、聖餐において二千年前のイエス様の十字架と復活の出来事を想起すると共に、今も聖霊においてイエス様が共にいてくださる。イエス様との交わりを与えられていうことを感謝し、更には、いつか再び来られるイエス様に思いを馳せるのです。聖餐は神の国の食卓につながっているのです。わたしたちがいただくパンとぶどう液は、いずれいただくことになる神の国の食事の前菜が出されていると考えたらいい。聖餐にあずかるとき、新しい天と地が造られる日は、今のように悲しみも涙も労苦もない、全き救いが与えられる神の国にまなざしを向けるのです。

神の国にまなざしを向けた人で、17世紀のイギリス人、ジョン・バニヤンがいます。彼の書いた「天路歴程」という本を読まれた方がいらっしゃるでしょうか。「クリスチャン」という名の主人公が、神の国、天の都を目指して旅を続けていくという冒険物語です。今回、準備しながら「天路歴程」のことを思い出して、また市の図書館で1冊あったのを借りてきました。新約聖書の翻訳本も出されている柳生直行という英文学者が、「天の都をさして」という題で訳しておられました。内容の理解を助ける挿絵もあって、小学校の高学年くらいだと十分読める体裁になっています。イギリス人にとっては聖書の次に大切な本とも言われています。

主人公のクリスチャン(キリスト者)は「滅びの町」に住み、罪の重荷を感じて憂鬱な日々を過ごしています。そこにエバンジェリスト(福音宣教者)が現れて、「小さい門から入れ」、そこに救いへの道があると勧め、クリスチャンは天の都シオンを目指す旅に出るのです。ところが、旅は順調には行きません。いきなり「らくたんの沼」にはまります。人は正しくないと救われないと「道徳の町」に行きますが、正しさの限界を知ります。ようやく十字架の立つ丘に着くと罪の重荷が降ろされたのです。

でもそこからが、本当の旅の始まりでした。道が三本に分かれています。一本は破滅の道、一本は危険の道でした。クリスチャンは、まっすぐに進み命の泉で水を飲みますが、すぐに「なんぎの丘」にぶつかるのです。この本を読んでいて興味深かったことは、主人公は十字架を見上げ、罪の重荷が降ろされ、名実ともにクリスチャンとなります。よく、洗礼を受けるというのはゴールでなく、始まりであると話をしますが、旅のなかで「死の陰の谷」を歩むことさえあるのです。でも、そこで「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れなおい。主が共にいてくださる」恵みを知ることができる。

この物語を読んでいて、もっとも印象深かったのは、「ホープフル」すなわち希望に満ちている人がクリスチャンと一緒に旅を始めた時のくだりです。クリスチャンはホープフルの忠告を無視して、二人で道草の原に行います。まさに道草しているうちに「疑いの城」に迷いこんでしまいました。ここの城主はジャイアント・デスぺア「絶望の巨人」です。彼は天の国を指して歩く者を全く望みのない境遇に追い込み殺そうとするのです。しかも自分で手を下さないで、自殺せざるを得ないところに追い込むのです。

ここでクリスチャンは自殺願望を起こしてしまいました。そんなクリスチャンをホープフルはたしなめます。「確かにわたしたちの状態はひどい、死ぬ方が望ましいとわたしも思う。でも、わたしの国の王様が「あなたは殺してはならない」と命じておられることを忘れてはなりません。自分を殺せば、体だけでなく魂も殺すことになるのですから」クリスチャンの気持ちは次第に変わってきましたが、そんな様子を見た絶望の巨人は怒り、さらにひどい目に合わせます。

それでも二人は祈ることができたのです。夜明けまで祈り続けたときに、クリスチャンは何と自分は愚かであったかを知るのです。なぜこんな絶望の穴倉にうずくまってしまっているのか。わたしは「約束」という名の鍵を持っていたではないか。その鍵は、この絶望を、疑いの城の扉を開ける鍵であり、それは天の国、シオンに至る鍵だったのです。二人は天の都、シオンへの旅を続けました。クリスチャンのもっている約束の鍵、それはすなわち希望です。

わたしたちは望みなきところに置かれることがあります。でも、今宵思い起こしたいのです。わたしたちはイエス様が十字架の死の前夜、まさに絶望のどん底のようなところで「約束」を語ったことを。闇の中でいのちの約束を語ったことを。「これがあなたがたとの最後の食事である。しかし、これが終わりではない。父の国で、あなたがたとともに喜びの食事をする日が必ず来る」そんな約束を、これからあずかる聖餐の時に思い起こしていただきたい。「最後の晩餐」というけれど、実はこれは最後ではないということを。

昨日もある求道中の方と話をしていて、「最後の晩餐礼拝」という言葉を聞いたときに、自分は最後に何を食べたいかを考えたと話してくださいました。「胃ろうはイヤだと思った」と言われました。「あっ、そのお話、今日お借りするかも」と言いました。皆さんはどうでしょうか、ステーキなのかお寿司なのか。自分は何だろうと考えました。もう昨日何を食べたか思い出せなくなっているほどなので、食べ物に対する貪欲さはないなあ。でも確かに最後には好きなものがいい、やっぱり甘いものかな、そんなことを思いめぐらしていました。

そのうちに、今日のイエス様の御言葉が迫ってきました。イエス様は約束してくださっているのです。わたしたちと共にぶどうの実から飲んでくださる時が来ることを。イエス様は聖餐に深くのぞんでくだっていますから、この約束はすでに果たされています。でもこの約束が完全なかたちでいただけるのは、主が再び来られる日まで担保されています。生きているうちに最後にどんなご馳走を食べたとしても、それ以上に尊いことは、父なる神の国で、イエス様と顔と顔とを合わせて食卓を囲むことができる。

わたしたちは聖餐においてイエス様の罪の赦しの血にあずかります。聖餐をいただくとき、罪の重荷を降ろすことができます。どんなに暗い地上を生きていたとしても、わたしたちを支配するのは絶望ではありませんホープフル希望があります。やがて父なる神の永遠の命の光に照らされて、ぶどうの実から作ったものを共に飲むことができる。この

約束の希望がわたしたちを生かすのです。