聖書 出エジプト記24章3~8節 マタイ福音書26章26~30節
説教 「新しい契約」 田口博之牧師
来週配られることになりますが、昨日は21日に行われる総会案内に載せる、評価と展望の文章を書いていました。今年度はコロナの問題があり、教会はあまり活動をしませんでした。よって今年度を振り返ろうにもあまり書くことはないのではないか。そう思っていたところ、まさにコロナのことを書かないわけにはいかなくなり、昨年までよりも長くなりました。コロナにより世界的なパンデミックが起こったことで、中世から近世にかけてのペスト、100年前のスペイン風邪が思い起こされる、世界史的な出来事となりました。
スペイン風邪は、世界中で5千万人が死亡し、日本だけでも推計40万人が亡くなったと言われています。その数はコロナの比ではなく、日本の教会も影響を受けたはずです。クリスマスの時期に、教会のある方からNHKの「宗教の時間」で、戒能先生が話をされた。戒能先生は千代田教会の牧師は教会史研究の第一人者ですが、日本の教会史にはスペイン風邪の記述がほとんどなかったと話していたことを教えてくださいました。おっしゃるとおりで、柏木義円、内村鑑三の日記から、世界的疫病を「神の審判」とする預言者的な洞察が見られはするものの、感染症のみならず、第一次世界大戦や関東大震災の記録も多くなかったことから、世界的な出来事を信仰的・神学的な課題として受け止めることが当時の教会にはなかったということなのです。
それでは「名古屋教会史」ではどうだったのかと思い調べてみると、何と出てきました。第6章、吉川逸之助牧師時代の171頁、1918年(大正7年)のところですが、こんな記述です。「この所欧米を始め世界各地にスペイン風邪なる病気流行し、米国等では教会の集会でも夜の集会は予防の為禁止される程で、我国では左程の事もなかったが多少の影響は受けた様である」。戒能先生に連絡するほどのことはない記述でした。金城学院大学の落合建仁先生も教会史の専門ですのでその話をしたところ、当然のごとくご存知で、何と1918年から20年頃の名古屋教会の「月報」の記事まで教えてくださいました。ちなみに、「名古屋教会史」には、第一次世界大戦と関東大震災の記述が、名古屋教会との関わりの中で記されていたことは興味深かったです。
新型コロナウイルスについては、現時点で信仰的・神学的な課題として受け止められているわけではありません。しかし、内村のように「神の審判」との声はなかったように思います。それは神学の深まりも意味します。また、総会案内に書いたこと、これまで語ってきたことで言えば、教会の集まり、礼拝が妨げられたことで、教会とは何か、教会のいのちが礼拝であることはが明らかになった面があると思います。ネットなど配信の取り組みも、礼拝に来られない方への牧会という面で始められたことで、果たしてやめることができるのか、などと言われたものですが、新しい伝道ツールが示されたという気もしています。
今話しているようなことは、今日の礼拝の主題ではありませんが、コロナの感染拡大から1年たち、年度末を迎えたことで振り返る必要があると思いました。また、この1年でより深く考えたことは、聖餐がどれだけ大切なものであったかということです。カトリック教会とは違って、わたしたちの教会は毎週、聖餐式を行っているわけではありません。月の第1聖日と、クリスマス、イースターと最後の晩餐礼拝、合わせて15回です。それだけしかしていないことで、聖餐式はなくてはならぬものとは考えていないのではないか、そういう思いはなかったでしょうか。聖餐を軽く考えてしまうゆえに、洗礼を受けていない人が受けられないのは差別だ、そんな議論が生まれたともいえないでしょうか。
ところがわたしたちは、毎週行っていないからこそ、その大切さに気付かされたと思うのです。半年間も聖餐に与ることができなかった。一かけらのパンとわずかばかりのぶどう液は、ご馳走でも何でもない。しかし、聖餐式で差し出される一片のパンと一口にぶどう液は特別なのです。その原型が今日の聖書テキストにあります。
「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』
一片のパンは、イエス様の体。一口のぶどう液は、イエス様の血、契約の血だというのです。それが誰のためにどこで裂かれた体なのか、誰のためにどこで流された血なのでしょうか。これはわたしたちのために十字架で裂かれた体であり、わたしたちのために十字架で流された血なのです。中途半端な気持ちで受けることはできません。
この時の食事は、過越の食事でした。出エジプトの救いの出来事を思い起こすために定められ、イスラエルにおいて継承されてきた大切な食事です。イエス様と弟子たちが過越の食事をしたのは、この時が初めてではなかった筈です。ところが、この時のイエス様の所作、その言葉に弟子たちはいつもとは違う雰囲気を感じたのです。それが使徒たちを通して伝えられました。ゆえにパウロは、この後で行われる聖餐式で読まれる聖餐制定の言葉、コリントの信徒への手紙一11章23節で「わたしも受けたものです」と言って伝え、教会のサクラメントとして継承されるものとなりました。
パウロが告げた言葉と福音書の最後の晩餐の記事、歴史的にはパウロの書簡の方が古いのですけれども、共通していることは、パンを裂かれたイエス様がこれを取って「これはわたしの体である」。「わたしの肉」ではなく「わたしの体」と言われたこと。そして杯をとって、「わたしの血、契約の血」と言われたことです。コリントの信徒への手紙では「わたしの血による新しい契約である」とあります。
イエス様が「わたしの体」と言われ、これを食することは、主の体と一つになることを意味します。イエス様と一体とされる恵みに与るのです。ガラテヤの信徒への手紙に「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」とあるとおりです。イエス様と一つにされる恵みの食事です。
そして、イエス様は杯を取って「わたしの血」、「契約の血」であると言われました。先に読みました出エジプト記24章8節には、「モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。』」とあります。ここに語られているのは、シナイ山において、モーセによりイスラエルの民が神と契約を結んだ場面です。
イエス様は、出エジプトの時の過越の小羊の血と、シナイ山での契約の場面を思い起こし、これと重ね合わせるようにして「契約の血」という言葉を使われたのです。けれども、聖餐で示される契約の血は、出エジプトの時の神とイスラエルの民との契約の更新ではありません。多くの民が罪の奴隷から解放される新しい出エジプト。イエス様が流された血はわたしの罪のためであった。すべての罪が赦されたことを信じて神の子とされる、新しい恵みの契約です。
わたしが洗礼を受けた教会、松山の三津教会は頻繁に聖餐式をする教会ではありませんでした。年に15回もない、イースターとクリスマスにはしたと思いますが、他にどういう機会で聖餐を祝っていたのか思い出せません。はっきり覚えているのは、わたしが最初に礼拝に出た、それは高校1年生の2学期の中間テストの最中でしたので10月中旬の筈ですが、その礼拝で聖餐式が行われたのです。
礼拝堂のいちばん後ろ、いつでも外に出られるように、そんな思いで礼拝に出ました。説教で何が語られたかなどまったく覚えていせん。覚えているのが聖餐式で牧師が杯を挙げて、「これはわたしの血、契約の血」と言ったことです。グラスの中には赤い液体が入っているようです。まさか本物の血ではないとは思いましたが、居るべきところではないのではと思いました。逃げようかと思って腰を浮かそうとしたけれど、なぜか動けない。杯が前から後ろに配られます。隣にいた人が杯を取って飲むところを注視しました。その瞬間に、これは聖なるもの、この場所は聖なるところだと思いました。いつか自分はこの仲間に入るかもしれない、いや入れることができるだろうかと思った。それがわたしの礼拝の原体験です。
ですから、今日もそうなのですが、聖餐式のときに小中高生がいると気を遣います。本物の血ではないよと。そして聖餐式をよく見ていてほしいと思うのです。説教は「聴く御言葉」と言われますが、聖餐は「見える御言葉」と言われます。イエス様の救いの御言葉がここで見える形で示される。
神とイスラエルとの古い契約は、シナイ山で結ばれました。モーセが、「主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせ」ると、それを聞いた人々は、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と繰り返し誓約しました。モーセはこれを受けて「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と犠牲の動物の血を注いだのです。血は命が宿るところと考えられていました。動物の命が罪人である人間の命の身代わりとしてささげられることによって、人間の罪が赦され、神の民として新しく生きることができる、ということを意味する契約です。
これに対して聖餐に示される新しい契約の血は、イエス様の命が多くの人の身代わりとしてささげられることによって交わされる契約です。ただ恵みによってささげられたものですが、イスラエルの民のような誓約が求められていないのかといえば、そうではありません。確かに聖餐式の中で誓約することはありません。しかし、ただ一度、洗礼のときに誓約して神との契約が結ばれているのです。聖餐は洗礼の際に交わされた契約の更新なのです。どうか、聖餐が洗礼の時の契約を思い起こすためにあるということを心に刻んでいただきたいと思います。神が望まれていることは、すべての者が新しい契約の民となることなのです。