箴言16章1~3節  ルカによる福音書20章45節~21章4節
「命をゆだねる幸い」 田口博之牧師

イエス様は、エルサレム神殿の境内で、これまで三度予告されていた長老、祭司長、律法学者たちとの議論を重ねました。そして前段で、「どうしてメシアはダビデの子なのか」と自ら出した問いに対する答えのないところで終わっています。イエス様ご自身が、天にいます神の右の座につくと宣言されたことがその答えともいえますが、このことを機に律法学者らの反発はますます強まり、民衆のイエス様への期待はますます強まっていった。そんな空気が漂う中、イエス様は律法学者を非難する言葉を弟子たちに語ります。

ここで「弟子たちに言われた」というのは、今日のテキストを考える上での一つのポイントとなります。律法学者への非難と言いながら、律法学者ではなく、また周りにいた民衆でもなく、弟子たちに語っているのです。これは、貧しいやもめが神殿で献金をしたのを見られた時の言葉も含めて、弟子たちへの勧告として受け取るのがよいだろうと思います。

そう思って、今日は章のまたがった二つのイエス様の教えをテキストとしました。イエス様がどういう思いで、このことを弟子たちに告げられたのか。わたしたちもこの場にいた民衆の一人ではなく、弟子の一人として、自分に語られた御言葉として、聞ききたいのです。

初めに出てくる律法学者は、イエス様の論敵として登場することが多いのですが、彼らはまさに律法の学者、信仰のお手本として、「ラビ」、「先生」と呼ばれ、人々からの尊敬を受けていました。彼らが身につけている長い衣は、権威の象徴となっていました。広場で挨拶されることも、会堂では上席、宴会では上座につくことも、彼らにとっては心地よいことでした。日本人は控えめな人が多いので、わたしたちの周りにはあまりいないかもしれませんが、分からない話ではない。

しかし、律法学者のいちばんの問題は、「やもめの家を食い物に」しているということです。食い物にしたのですから、利益をむさぼっていた。貧しいやもめの弱みに付け込むようなことをしていたということです。具体的に何をしたかは分かりませんが、ただ思い出すことがあるのです。

わたしの父が死んだのは30年前でしたけれども、父は洗礼を受けておらず、わたしもまだ一信徒だったこともあり、葬儀は仏式で行いました。家は真宗本願寺派と聞いていたものの、仏壇もなく、わたしが洗礼を受けることを歓迎するような親でしたので、お寺とは縁がありませんでした。ところが、葬儀の後、月命日の供養が半ば強制される状態になっていました。ほんとうにお金のない時期でしたので、お布施もかなりの負担となっていました。檀家であるならともかく、葬儀社の紹介で初めて出会ったお寺です。何も批判しているわけでもありませんが、それはやもめの家が食い物にされていたとはいえるほどでした。

実際に律法学者がやもめに何をしていたか分かりません。また今話したお布施の関連でいえば、わたしたちの身内が教会に行ってなかった、信仰がなかったのであれば、同じような理由で教会が批判されることもあり得るわけです。こんなに献金が続けられるから、相続する分がなくなってしまう。これまでの献金を戻してくれと、子どもが教会に請求をおこしたことで、若い牧師が病んでしまったり、裁判沙汰になる事例も見てきました。

イエス様はこのとき、律法学者を直接非難したわけではありません。彼らが長い衣をまとうことも、挨拶されることも、長い祈りをすることも、やもめから何かしらの収入を得ることも、彼らにとっては職業上、当たり前になっていたことでした。その当たり前のことを指して、イエス様は弟子たちに「気をつけなさい」と言われ、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と言われました。後の時代に、そのような宗教家が幾多と生まれてきたことも事実です。イエス様は、あなたがたは、同じようになるなと言われたのです。これは、教会への言葉、特に牧師は心して聞かねばならない言葉と受け止めています。そのような誘惑が襲ってくることもあるからです。

するとイエス様は、目を上げて金持ちが賽銭箱に献金する様子をご覧になられます。金持ちには高利を取っていた商売人や、ここで非難した律法学者らもいたでしょう。賽銭箱と訳されていますが、新しい共同訳では献金箱と訳されています。宮ですので、なるほど賽銭箱ですが、神にささげるのですから献金箱とした方が、わたしたちにとってはすっきりします。

どうやらエルサレム神殿には、ラッパのような形をした金属製の献金箱が13個も用意されていたようです。この時代にお札はありません。大きな硬貨をたくさん入れると、ラッパが拡声器となり大きな音が鳴り響きました。そのようにして、神にささげる献金を競い合う、たくさんささげた人が誇るということが起こっていたのです。

イエス様はそんな様子を見ておられましたが、あのようにたくさん献金しなさいとも、そんな必要はないとも言われません。ところが、ある貧しいやもめがレプトン銅貨を2枚入れたときには、「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と言われました。

レプトン銅貨というのは、当時の一番小さな単位の硬貨です。貨幣の価値ということでいうと、デナリオン銀貨の128分の1の価値しかありません。1デナリオンが労働者の一日の賃金でしたから、その64分の1ということです。今のお金にするといくらくらいになるのか。計算の得意な人なら、暗算をはじめてしまうかもしれません。しかし、この後もずっと計算してもらっては困りますのでお伝えすると、今の愛知県の最低賃金で計算すると、レプトン銅貨1枚だと60円ほど、レプトン銅貨2枚だと、その倍で120円ほどになります。決して大きなお金ではありませんが、「貧しいやもめ」と言われます。長い衣をまとっていたのとは律法学者は対照的な姿であったに違いありません。そんな女性がレプトン銅貨2枚入れたのです。

昨夜は、夜遅くまで説教準備をし、結局は教会に泊まったのですが、夜中、小腹がすいたのでコンビニに行きました。ところがコンビニに出かけた結果、良いのか悪かったのか、説教原稿を書き改めることになりました。当初は、「レプトン銅貨2枚、120円あれば、おにぎりか菓子パンのどちらかは買うことができる。あるいは、ペットボトルのお茶を買うことができる。その位の価値のお金だ。そう書いていました。ところが、昨夜コンビニに行くと、今は120円ではそれらは買うことができない。おにぎりが最低121円、菓子パンが125円、ペットボトルのお茶が138円でした。改めて、物価が上がってきたことを感じました。

笑い話のようになりますが、わたしは今朝の献金を取り分けていたことをコンビニに入る直前に気づいたのです。見ると300円なかった。そうなると食べ物と飲み物の組み合わせが難しくなりました。ところが救う神ならぬ救う紙ありといか、財布に入っていたレシートに某メーカーのカフェオレ50円引きの印字があったのです。今も証拠のレシートが残っていますが、マカロンクロワッサン135円と小岩井のカフェオレ155円しめて290円の50円引きの240円。ちょうど4レプトンで夜食を買うことができました。

この貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を献金したときのわたしの黙想は、このやもめは確かに凄いと思いました。つまりレプトン銅貨1枚、60円で買えるものはコンビニにほとんどない。けれどレプトン銅貨2枚、120円あれば、おにぎりかパンのどちらかは買うことができる。経済学者からは異論が出そうですが、レプトン銅貨1枚と2枚の貨幣価値は、かたや何も買えない、かたや色んなものが買える。それは2倍ではきかない違いがあることになる。やもめは、それだけの価値があるものをささげたのです。何も買えないレプトン銅貨1枚では、神への感謝はあらわせない。それで、1レプトンを残すことなく、2レプトンを献金したのです。

けれども、イエス様の見方は、わたしの見方の比ではありません。「だれよりもたくさん入れた」と言われたこと、「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と言われたことです。

こういう言葉を聞くと、わたしたちは色んなことを考えてしまいます。このやもめは確かにすごいけど、なぜ「だれよりもたくさん」なにか、なぜ「生活費全部」だと分かったのかとか、この生活費は今日の生活費のことを言っているのか、献金はそこまでしなければならないものなのか、生活費全部でなく。生活費の10分の1でもよいのではないかなど。どうでしょうか。

しかし、そのように考えるのは意味のないことで、イエス様が伝えたかったことは、このやもめは自分の生活のすべて、命までも神様にお委ねしたということです。この生活費と訳された言葉は、もともとの言葉ではビオス、英語の聖書ではLifeと訳したものがあるように、生活、人生、命とも訳せる言葉です。このやもめは、ただ神のみを信頼して、今、自分が与えられているもの半分ではなく、すべてを主にお返ししたのです。それはイエス様だから分かることです。

献金は自分が持っているものをささげるのではなくて、神さまから分け与えられているものをお返しする行為です。しかも、このやもめがそうであったように、神の前に進み出ておささげする。ここに献金のこころがあります。礼拝の中で献金の時間があるのは、献金とはもともと神の御前に出てささげるものだからです。

そしてここでのイエス様の言葉で、もう一つの心に残ることは、このやもめがした2レプトンの献金を「だれよりもたくさん」と言われたことです。わたしたちのはかりだと、「たくさん」というと金額の話になりますが、イエス様は金額を見ているのではないのです。

わたしたちが、ここで余計なことを考えてしまうのは、生活費を全部ささげてしまったら、これからどうやって生活していくのかと考えてしまうからです。また、そう考えるということは、そんなことをすれば生きていけない。自分には真似ができない、せめて半分くらいは残しておかないと、そこが出発点になるからです。でも彼女はそうは思っていない。すべておささげしても、神さまが生かしてくださると信じている。神様はわたしを顧みてくださっているのだから。そう信じていたから手に持っていた1レプトンを残すことなく、すべてお返しすることができた。だから、「誰よりもたくさん」なのです。

今日は長老会が行われます。年度末の長老会ですので、当然のように会計の話が出てきます。決算見込みを出し、予算を作らねばなりません。そのときには、どうしてもイエス様が見られた基準ではなく、まさにこの世的な基準で、たくさんかどうかを計ってしまうことになります。それが地上の教会の限界だと言ってしまえば、そうだとしか言えないことです。牧師の生活が支えられなくなるだけではない。ガス代や電気代も払えなくなったら、ここで礼拝を維持することすらできなくなる。そうならないためには、月々の維持献金が必要となります。それは神との契約ですので、感謝というよりも教会員としての義務なのです。受洗準備会でも、繰り返し伝えていることです。

ですから、教会員としての責任をもってすることに対し、これが滞っている人がいれば、お願いするのは仕方のないことです。そのようなことはできれば避けたいことです。お願いする人も、お願いに応える人も、こんなことさせて申し訳ないと思う人も、督促が来たかのように受け取る人も、そこで何か文句を言う人も、それを言われる人も、皆が傷ついてしまう。

そうやって傷つくのだったら、教会から離れた方が楽ではないか。教会は人生の逃れの場であるはずなのに、教会から逃れる道を選ぶのだとすれば、それはとても悲しいことです。願わくはそのようなことになる前に、傷つく前に手当をせねばなりません。それが牧会の働きとなるのですが、じゃあ、その手当というのは、優しく包み込むようなことか、それだけでしょうか。羊飼いは鞭と杖をもって、わたしたちを命へと導いてくださいます。守ってくださいます。でも、その杖と鞭は、時にわたしたちの訓練の道具となります。そういう訓練がなされてこそ、わたしたちは悪を避け、命の道を歩むことができます。

今はレントですが、イエス様はもう数日後には十字架につけられて死ぬことが分かっている時を生きていました。そのような時にこのやもめと出会いました。生活費の全て、自分の命のすべてを神にお委ねするやもめの姿に、イエス様はご自身の十字架を重ね、励まされたのではないでしょうか。ナルドの香油を注いだ女性が、葬りの備えをしてくれたように、このやもめは、イエスと共に十字架への道を歩まれた。あなたがたは律法学者のようにではなく、このやもめのように生きなさい。そのことを弟子たちに伝えたのです。これは、主の弟子であるわたしたち、牧師、長老会、そして教会が聞くべき神の言葉なのです。