2024.3.28 最後の晩餐記念消火礼拝
「十字架の出来事」

十字架上の七つの言葉を聞きながら、ろうそくの火を1本ずつ消しました。以前はレントの6週間で1本ずつ消して、この最後の晩餐を記念する礼拝で最後の1本を消していました。イエス・キリストの十字架で死なれたとき、闇が全地を覆いました。罪が支配する世が、世の光、命の光をかき消したのです。

わたしたちはどれほど、十字架のことが分かっているでしょうか。イエス・キリストの十字架の死について、処女マリアから生まれたこと、三日目に死者の中からよみがえられたことと比べて疑う人はあまりいません。処女降誕と復活と比べれば、十字架の死は信じることができるのです。でもそれは、科学的な証明ができるか、できないかの違いだと思います。科学では処女が子どもを産むこと、死んだ人がよみがえることは証明することができません。ですから、現代に生きる人は、科学など発展していない昔の人だから信じていたにすぎない。キリスト教はもう古い、そのように考えるのです。

他方、十字架の死についてはどうでしょう。十字架で死ぬということは現代ではあり得ないことですが、過去に十字架という処刑方法があったことを信じるのは、難しいことではありません。加えてわたしたちは、誰もが死ぬ存在であることを知っています。それは科学的に証明するまでもなく、体験的に知っているのです。だから、イエス様が十字架で死なれたことを信じることは難しくありません。

けれども、その信じる、信じないは、信仰の問題ではなく、現象面からとらえているに過ぎません。現象面からすれば、処女降誕や死者の復活は確かに信じ難いことだけれども、これが人間ではなく神がなされたことと捉えるならば、どうでしょう。わたしたちは使徒信条で「全能の父なる神を信ず」と、あまり抵抗なく告白していると思います。処女降誕や死者の復活は、神が全能であられることの証しとして受け止めることができるのではないでしょうか。

では、十字架はどうでしょう。全能の父なる神が、愛する独り子が十字架で死なれようとするのに、助けることをしなかった。いや、十字架そのものが神のご計画であり、そのとおり遂行されたとすれば、それほど信じ難い話はないのではないでしょうか。その意味でイエス・キリストが十字架で死なれたことを信じることは、処女降誕や復活以上に難しいこととはいえないでしょうか。

十字架を信じることがなぜ難しいのか。そのこと難しさを一番味わったのはパウロでした。伝道者パウロは、十字架の言葉は神の力だけれども、愚かだとしかいえない厳しい体験を重ねたのです。パウロは十字架につけられたキリストを宣べ伝えることは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」だと言いました。律法には「木に架けられた死体は、神に呪われたものだからである」とされています。十字架につけられたキリストが神から呪われているとするならば、どうして信じることができるでしょうか。十字架はユダヤ人に限らず躓きであり、ギリシャ人に限らず愚かとしか思えないことです。

わたしたちの感覚からしても「呪い」などという言葉は聞きたくないでしょう。それほど不気味であり、不快な言葉です。なぜ呪われているのか、それは神の裁きを一身に受けられたからです。イエス様はわたしたちが罪のゆえに受けるべき呪い、裁きのすべてを身に負ってくださったのです。

パウロはガラテヤの信徒への手紙3章13節で、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」と述べています。罪からではなく、律法の呪いと言っているのはなぜでしょう。律法は神が与えられたものですから、律法そのものはよいものです。問題は、律法では人を罪から救えないことにありました。律法に正しく生きようとすればするほど、人は律法の要求を満たせないがために、罪の自覚しか生じなくなってきたからです。よいものである律法が、呪いを招くものとなってしまいました。

しかし、イエス様が十字架にかかり呪いをすべて引き受けられたことで、律法は完成しました。人は律法の呪いから解放され、呪いは祝福へと変えられたのです。ガラテヤの信徒への手紙3章14節に、「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした」とあるように、アブラハムに与えられた祝福の約束が、イエス・キリストを信じるすべての人に及ぶものとなったのです。

神の独り子が十字架につけられ、神に呪われて死ぬなど、考えられないことです。神様、ひどすぎるではありませんか、と言いたくなります。でも、そうしなければ、わたしたちが罪の滅びから救われることはなかったのです。イエス様が、わたしたちが受けるべき呪いをすべて引き受けられたことによって、わたしたちの罪は赦され、神の御前に義と認められるのです。聖霊を受けて、神を父と呼べる、すなわち神の子とされる祝福が与えられたのです。

この後で、讃美歌300番「十字架のもとに」という讃美歌を歌います。
1節の歌詞は「十字架のもとに われは逃れ、重荷をおろして しばし憩う。
あらしふく時の いわおのかげ、 荒れ野のなかなる わが隠れ家」です。

この讃美歌は、以前の1954年版の讃美歌にもあり、1節後半と、2節、3節は同じ歌詞なのですが、1節前半だけが違うのです。以前の讃美歌は、「十字架のもとぞ」で始まっていました。
「十字架のもとぞ いとやすけき 神の義と愛の あえるところ
あらしふく時の いわおのかげ、 荒れ野のなかなる わが隠れ家」。

おわかりだと思いますが、「神の義と愛の あえるところ」という歌詞がなくなり、「重荷をおろして しばし憩う」に変わっています。このことがとても残念だと訴える牧師が何名かいました。すると、このことについてこの讃美歌の元の英語の歌詞を調べた牧師がいて、確かに讃美歌21の方が正しく訳しているというのです。しかし、実はこの讃美歌は3節で終わりではなく、もっと長いらしい。その中の何節かに「神の義と愛の あえるところ」と訳せる歌詞があり、以前の讃美歌を翻訳された方は、その歌詞がとても大切だと判断して、1節にもってこられた。そのことが分かってきました。

「十字架のもとぞ いとやすけき 神の義と愛の あえるところ」
ここでいう神の義は、罪は罪として正しく裁かれる神の性質です。同時に神は、罪人であるわたしたちを愛してやまない方です。イエス・キリストの十字架は、まさに神の義と愛の出合うところでした。

イエス様が、十字架につけられ、死にて葬られたことは、「処女マリアより生まれ」、「三日目に死人のうちよりよみがえり」と比べて、決して分かりやすいものではありません。神が義なる方であり、愛である方でなければ成し得ないことでした。その途方もない恵みにわたしたちは生かされており、その恵みがこれから与る聖餐により表されています。明日はイエス様が十字架で死なれた聖金曜日です。受難週の残る半週を悔い改めと感謝と喜びをもって、十字架から復活への道を歩んでいきたいと願います。