聖書 創世記3章8~9節、ルカによる福音書15章8~10節
説教 「天の喜びへの招き」田口博之牧師
物事が重要な局面に差し掛かったときに、山場を迎えるという言い方をします。先週の礼拝でも、ルカによる福音書15章というのは、福音書全体を通しても大きな山といえるところだとお話しました。三つのたとえ話がありますので、三つの頂を縦走するイメージです。この「無くした銀貨」のたとえは、先の「見失った羊」のたとえと一緒に読むことが多いのです。6節と9節に無くなったものが見つかったので「一緒に喜んでください」とあります。友達や近所の人を一緒に喜びへと招く言葉です。共通する部分が多いので、槍ヶ岳に小鑓があるように、山としては一つに数えた方がよいかもしれません。しかし、それぞれに独特の響きがあるので、二度の礼拝に分けて読むことにしました。
男性と女性に分けることは、今の時代は歓迎されませんが、先に出てきた羊飼いは、もともとのギリシャ語で男性名詞が使われています。実際に女性の羊飼いはいないのです。イエス様は男社会の物語としてこれを語られました。
8節の「あるいは」という言葉によって、二つの物語はつながれています。「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて」とあるように、ここに登場するのは女性です。9節に「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて」と書かれてあることから、家の中の女性の物語として語っていることが分かります。外で働く男性、家の中にいる女性と言ってしまうと、ますます歓迎されない気もしますが、男社会でのこと、女社会でのこと、二つをたとえとして語ることで、聖書の聴き手であるわたしたちの物語として、イエス様は聞かせようとしていると思います。あなたたちはどう聞くかを問いかけているのです。
さて、この女性が無くした1枚の銀貨は、当時の労働者の1日分の賃金と言われています。この女性にとって銀貨10枚が全財産でした。主人が家に入れるお金をやりくりして貯めた10枚のうちの1枚が無くなったのですから大事件です。
あるいはこうも考えることができます。当時、女性が結婚するときに、何枚かの銀貨をネックレスのようにして、それを身に着けていたと言われています。彼女が嫁に行くときの持参金であったのかもしれません。夫が貧しいながらも彼女のために蓄えてプレゼントしたのかもしれません。そんな世界に一つしかないネックレスが、糸がほころんでしまったか何かで床に落としてしまった。10枚とも散らばったに違いありません。でも1枚はどうしても見つからないのです。銀貨10枚つづりのネックレスであるならば、無くした銀貨は、ただの1枚の銀貨ではありません。女性は、大切な宝物を失ってしまったことになるのです。
無くなった1枚の銀貨を見つけるために小さなランプが灯されました。当時のパレスチナの家は昼間でも暗いのです。ほんの小さな丸窓が明かり取りになっている、そんな構造でした。落ちたところも、畳や床張りではなく土間です。その上に乾燥した葦や井草が敷いてある。そこから見つけるのは至難のわざです。ランプを照らして、目を凝らして銀貨のきらめきを見つけようとしている。耳を澄まして、触ったときのコトンという音を聞き取ろうとしている、そんな女性の姿が浮かんできます。そのように捜して、ようやく銀貨を見つけたときの彼女の喜びはどれほどのものであったでしょうか。
皆さんはどうか分かりませんが、わたし自身は、物を無くすことはしょっちゅうとは言えませんが、時々はあります。物を無くすことよりも、物を忘れることはしょっちゅうで、皆さんにご迷惑をおかけしていないか、それが一番心配です。週報に今週の牧師予定を書いていますが、牧師の予定を知らせていることと共に、自分が忘れないようにするために書いています。ほんとうはこの予定があるはずなのに書いていないという時には、たいていは書き忘れではなくて、忘れてしまっていることなので、分かる範囲で言っていただいたほうが助かるのです。
物を無くしてしまった時のことを言えば、自分で探せるだけ探した後で、あれがない、どうしようと漏らすことがあります。そのように口に出すことで、少し落ち着くからか、出てくることが多いのです。あるいは、そのように口にすることで、一緒に探してほしいと訴える場合があります。妻がコンタクトレンズをしていた頃には、そんなことがたびたびありました。見つかったときは胸を撫で下ろします。
羊飼いの場合はどうだったでしょうか。100匹の羊を持つということは、羊飼いの中では裕福だったと思われます。しかしいなくなった1匹をどこまでも捜しました。1匹くらいならいいとは、思わなかったのです。しかし、仲間の羊飼いに助けを求めることもしていません。「九十九匹を野原に残して」とあるように、見張りすら頼んでいないのです。
この女性も同じく、どこまでも一人で捜しています。「一緒に捜してください」ではなく「一緒に喜んでください」なのです。一人で捜して、一人で見つけました。一人で苦労したのですから、見つけたときの喜びも独り占めしたらいいように思います。でも、彼女はそうはしなかったのです。羊飼いも女性も、見つけた喜びだけを伝えて、一緒に喜んでくださいと言っています。
では、友達や近所の人々は一緒に喜んだでしょうか。このたとえ話には、そのことは書かれていません。「一緒に喜んでください」という招きに応えたかどうかは、よく分からないのです。皆さんはどうでしょう。実は、わたしがこの物語を読んだときの第一印象をお話すると、聖書には「『一緒に喜んでください』と言うであろう、と書いてあるけれども、ほんとうにそう言うだろうか。」それがわたしの率直な思いでした。そのように思ったということは、「一緒に喜んでください」と言う人の気持ちがよく分からないということです。分からないのですから、一緒に喜ぶこともなかったのではないか、そう思うのです。
ルカによる福音書の7章32節ですけれども、イエス様が子どもたちの歌になぞらえて、「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」と語っているところがあります。「笛吹けど踊らず」の語源となったと思われるこの言葉は、共に喜ぶこと、共に泣くことが希薄になってしまっているイエス様の「今の時代」、現代でも変わらない「今の時代」に向かっての言葉です。イエス様は、「あなたを救いたい」という神の御心を聞かずに生きているのが、今の時代の人々の姿を話しされているのです。
一人でいることの寂しさは、子どもだけでなく大人も抱えています。誰かと食事に行きたいのに、誰も誘ってもくれない。誘ったとしても断られてしまう。そんな寂しさから逃れるようにするために、一人でゲームやスマホに向かう時間ばかりが増えていく。SNSに投稿しても「いいね」の反応が少ないと、ますます落ち込んでしまう。悪循環に陥るということがあります。
パウロも「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とローマの信徒たちに勧めました。そう簡単な勧めではありません。その人にとっては喜びの出来事であっても、あるいは悲しみの時であっても、自分に関係ないことであれば、喜びも悲しみも分かち合うことはできません。しかし、神の国に生きる人、イエス様の愛を知る人は、「共に喜び、共に泣く」人となれるのです。
ルカによる福音書15章に出てくる三つのたとえ話は、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」に語られたものでした。この時の彼らは不満がいっぱいでした。食事の席に、徴税人や罪人たちが招かれていることが気に食わないのです。イエス様はそのような人たちに対して、あなたたちが罪人として嫌っている彼らこそが、神が捜しておられる人たちである。そして見つかったことの喜びを、羊飼いと女性の姿をたとえとて語っているのです。
注意深い方は、気付かれたと思われたと思いますが、旧約の朗読箇所を先週の週報予告から変更しました。神が罪人を捜される方であるということを伝えるためには、創世記第3章の一部ですけれども、あわせて読んだ方がよいと思ったからです。
創世記の3章は、人間の堕落の物語です。最初の人アダムとエバが、蛇にそそのかされ、禁断の木の実を食べてしまった時、二人の目は開きました。罪の目が開いたのです。いちじくの葉で腰を覆ったということは、恥ずかしいからというよりも、罪ある人間は隠し事をするようになることを意味します。そして神からも隠れて生きるようになる。このとき以来、人間は「あなたはどこにいるのか」と神から捜される者となったのです。見つかったら裁かれてしまう。そう思ったアダムは、恐ろしくなって身をひそめます。しかし、二人を捜し出した神は、「皮の衣を作って着せられた」のです。
自分なんて生きる価値がない。そう考えてしまう人がいるかもしれません。しかし、神の御前にそのような人は誰もいません。わたしたちは誰であれ、見つけられた羊であり銀貨です。神様から「わたしの羊」「わたしの銀貨」として捜し出された者なのです。そうまでしてくださるのは、わたしたち一人一人は、神から見てかけがえのない存在だからです。神に見出されている、そこにこそ救いがあります。わたしたちも見出されてここにいるのです。ファリサイ派の人たちは、これまで神がそのような方であるなどとは、考えたことがなかったのです。神は罪人を捜し求めるお方です。
ルカによる福音書19章に、徴税人ザアカイの物語があります。ザアカイはイエス様のことを知っていて、いちじく桑の木に登りました。しかし、ザアカイが知る前より、イエス様はザアカイを知っていたのです。その証として「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と、ザアカイの名を呼ばれています。そして、ザアカイが罪を悔い改めたとき、イエス様は「今日、救いがこの家に訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである」と言われました。
一人の罪人が悔い改める。それが天の喜びであることを、15章前半の二つのたとえは語っています。7節では、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」、10節では「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と言われています。羊飼いも女性も、天への喜びに招かれているのです。
わたしは1977年のイースターに受洗しましたので、今年で受洗45年目となります。45年前の洗礼式で覚えていることはいくつもありますが、いちばん驚いたのは、礼拝に出席されていた何人かの方が泣いていたことです。そのときには何で泣かれているのか、よく分かりませんでした。でも今は分かります。その涙は、天の喜びの涙であることが分かるのです。神を知らなかった者を、神が捜し出してくださって、神のもとに帰ってきたことを喜ぶ涙です。自分の洗礼が天の喜びになっていることは、そのときにはよくわからなくても、信仰生活を重ねるなかで、聖餐を受け続けることで分かる日がってきます。教会の喜びは天の喜びであることが分かるようになります。
羊飼いのもとに見失った一匹の羊が戻ってきたように、女性のもとに無くした一枚の銀貨が戻ってきたように、神を知らずに生きていた人が、神のもとに帰ってくる。それはこの上ない天の喜びであることが分かるようになるのです。神がその喜びへと私たちを招いてくださっていることが、わかるようになる。その神の思いを伝えることが、先に救われた人がなすべき伝道です。
罪人を捜し出される神は、見つけたわたしたちを、「あなたはわたしのもの」としてくださっています。そのことを何より喜んで生きていきたい。信仰者が喜びをもって生きるということは、自分が喜ぶというよりも、神に喜ばれる生き方をするということです。
ここにいるわたしたちは、神に見つけ出された一人一人です。わたしたちがここに集まっていることが天の喜びです。わたしたちを悔い改めへと導いてくださった神への感謝を忘れることなく、新しい年度に向けての歩みを共に歩んでまいりましょう。