ゼカリヤ書11章10~14節 マタイによる福音書27章1~10節
説教「悔い改めなき後悔」 田口博之牧師
マタイによる福音書は、最高法院で有罪の判決がくだり、ポンテオ・ピラトに引き渡された頃、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダの行動を述べています。
イエス様の裏切った弟子といえば、ユダに限ったことではありません。事実、イエス様が捕らえられたとき、ユダ以外の弟子たちも皆、散ってしまったのです。しかし、イエス様を裏切った弟子として、歴史にその名を刻んだのは、イスカリオテのユダでした。ユダはイエス様が逮捕される場面、マタイ26:47以下に出ていますが、接吻することで、この人がイエスであると教えたのです。愛情のしるしであるキスを裏切りのしるしとしたのです。
イスカリオテのユダとは、どういう意味でしょうか。信徒の時代に聞いた説教では、「イスカリオテについてはよく分かっていない」という話でした。牧師としては、細かな説明をしてもあまり意味がないという意図で言われたのでしょうが、そう言われると調べたくもなるものです。牧師になって調べてみると、大きく二つの説があることがわかりました。一つがイシュ・カリヨト。イシュは人、カリヨトは、ユダの町の名前で、カリヨト出身のユダとなります。
あるいは、剣とか、刺客を意味するシカリウスという言葉があり、イシュカリウスのユダ、そのような意味に取ることもできます。ユダは剣のように頭の切れる人でした。頭の切れる人というのは、その鋭さから人を傷つけることもあります。ユダの接吻の後で、イエス様の弟子の一人が、捕らえに来た大祭司の手下の耳を切り落とします。そのときイエス様は「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言いました。わたしは、このときのイエス様の言葉には、イスカリオテのユダに対する警告という意味も含まれているのでは、そんな思いをもっています。
さて、3節に「イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った」とあります。驚くべきことに、ユダは後悔したのです。そして「銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとし」ました。返そうとしたとうことは、前に受け取っていたのです。26章14節以下にこうあります。
「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」
ここを読むと、ユダは明らかにお金目当てでイエス様を打ったことが分かります。銀貨1枚が労働者の1日の日当だとすると、ユダは一か月フルに働いた金額で、イエス様を売ったことになります。これを高値と思う人がここにいるでしょうか。イエス様は救い主です。永遠の命を与えてくださるお方です。マタイは、王様に1万タラントンの借金をしていた家来のたとえ話をしています。それは、わたしたちがイエス様に負っている負債は、お金で換算できるものではないという話です。これは罪の重さの話をしています。人が一生かかっても到底返済できないほどに、わたしたちは罪深い。それをすべてご自身で負ってくださったのが、イエス様の十字架です。
また、出エジプト記には(21章32節)、自分の家畜が主人の奴隷を誤って突いてしまった場合の損害賠償額が30シェケルとされています。これは銀貨30枚です。つまり祭司長たちは、イエス様に奴隷一人の値をつけ、ユダは文句を言うことなくそれを受け取っていたのです。27章3節で、ユダが返そうとした銀貨30枚はその時のものです。
なぜ、返そうとしたのか。ユダは後悔したからだと聖書は告げています。後悔するとは、自分のしてしまったことを、後になって悔やむことです。このときユダは、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言っています。ユダはイエス様が罪のない人であることを証言したのです。
ところが祭司長たちは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」という言葉をユダに返します。すると、ユダは自分の犯した罪を償うことができないとして、首を吊って自殺してしまうのです。この「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言い放った、祭司長たちの冷たい言葉が、ユダを自殺に追い込んだ。確かにそういう捉え方はできるでしょう。堪えられなくなったユダは、自殺するしかなくなってしまった。
しかし、そう考えてしまうと、ユダに対する同情が先に立ってしまいます。それはテキストが求めていることではありません。それよりも、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」というユダの言葉を捉え直したいのです。
わたしは当初、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」というユダの言葉を、見事な罪の告白と思って読んでいました。鶏の鳴く声を聞いて罪を思い起こして涙したペトロ以上に、自身の問題をよくとらえているように聞こえます。でも、どうでしょうか。
後悔したユダは、銀貨30枚を祭司長や長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言ったのです。すると、わたしは間違っていました。イエス様を売った代金として頂戴した銀貨30枚はお返しします。イエス様は罪のない人でした。だから有罪の判決はなしにして、イエス様を釈放してください。そういう申し出のように読めるのです。
そんなユダに対して、祭司長たちは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言ってユダの申し出を退けた。そのように考えていくと、祭司長たちの言葉は、冷たいというよりもいたって自然ではないかと思うのです。「自分で蒔いた種は自分で刈り取れ」と言った迄のこと。ユダは自分の問題として処理しようとしたとき、自殺するしかなくなってしまったのです。
このテキストを読んで、久しぶりに太宰治の短編小説『駈込み訴え』を読みました。読まれた方がいらっしゃるでしょうか。この小説は、イスカリオテのユダが、イエス様に対してどういう感情を持っていたのか。すべてユダの言葉で書かれています。小説のユダは、イエス様に特別扱いを求めています。生まれが2か月しか違わない。同い年であることを繰り返し語ることで、イエスを自分と並ぶ人間としています。ナルドの香油の場面を引用し、イエスがマリアの愛を受け入れていることに嫉妬します。「生まれなかったほうが、よかった」と言われたことを、公然での辱めとして恨んでいます。
イエスに銀貨30枚の懸賞がついていると知り、他の誰かの手にかかるよりは自分の手でと思い、ユダはイエスを売るのです。「私は所詮、商人だ。いやしめられている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ」と言って、あえて報酬を受け取るのです。最後もこう結ばれています。
「金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ」と。
この小説においては、イエスの死、ユダの自殺の場面は描かれていないのです。けれども太宰は、イエス様の死とユダの自殺は自明のこととして書いています。イエス様への愛と憎しみがごじゃまぜになり、自分でもどうしていいのか分からなくなっています。「駆け込み訴え」という小説ですが、イエス様への訴えているのかもしれない。自殺未遂を何度も繰り返した太宰の心が、ユダに投影されているのではと思って読みました。太宰治の本は著作権が切れていますので、インターネットの青空文庫などですぐにでも読むことができます。短い小説ですので、皆さんも読まれるとよいと思います。
ユダの死については、ルカも使徒言行録の第1章で取り上げていますが、そこでは自殺ではなく、不慮の死として描いています。しかし、自殺以上にむごたらしい死であったとして、現在もヒムノンの谷にある血の畑を根拠づけています。実際にユダが死んだのは、受け取った銀貨を神殿に投げ込むという行動からしても、ピラトの裁判中の起こったものとは考えられません。取り返しのつかないことをしたという衝動にかられてのことではなく、もっと後の時代。たとえばイエス様の昇天後、他の弟子たちとも離れてしまったユダが、悩みぬいてしたことだと思います。
マタイがユダの自殺の記事をここに取り上げているのは、先週の礼拝で、池谷先生が説き明かしてくださったペトロの否認のテキストとの対象です。イエス様を直接死に至らせたのはユダであったとしても、裏切ったのはペトロも同じです。ペトロは後悔の涙を流しました。ユダも後悔しました。しかし、その後の二人が辿った道は対照的でした。ペトロは、罪を赦され、使徒として遣わされていきます。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたとおち、教会の礎となります。ところがユダは、自殺してしまったのです。
その違いがどこにあったのでしょうか。ペトロの涙も後悔の涙です。しかしそれでは終わらなかった。聖書ははっきり書いています。ペトロはイエスの言葉を思い出したからです。それは「あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という言葉ばかりではありません。
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。
『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』
と言われた言葉、
「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」という言葉、すべてを思い出したのです。御言葉体験というのは、後になって甦ってくることです。名古屋教会で「今日はいい説教でした」と言われることは、滅多にありません。それはそれでいいのです。何がいい説教なのか、そうでないのかというわたしなりの一つの判断は、牧師がした説教を通して、御言葉が残るということ。後になって、聖書の言葉が立ち上がってくるということです。
今日は「悔い改めなき後悔」という説教題をつけました。後悔が自分の言動の結果を後になって悔やむことに対して、悔い改めは、反省した後で「心を入れかえる」ことです。もっと言えば、自分の罪を認めて,神の恵みによる罪の赦しを求めることです。
ユダは、過去の過ちを悔やみはしましたが、それで終わりました。神に心を向けることなく、罪の中にとどまり続けたのです。しかし、ペトロは、悔やんで終わったのではなかった。悔やんでも悔やみ切れない、どうすることもできない現実の中で、イエス様の言葉を思い出すことができた。しかしユダは、「お前の問題だ」という人の言葉を聞いて、自分の罪の結果を自分で背負ってしまったのです。神に立ち帰ることなく、一人で後悔し一人で何とかしようとした。ペトロとユダの違いはそこにあります。この違いが、二人の歩みを全く対照的なものにしてしまいました。
ユダは、イエス様を売って手にした銀貨30枚を神殿に投げこみました。しかし、祭司長たちはこれを神殿の収入にせず、陶器職人の畑を買い、外国人墓地になったと伝え、これをエレミヤの預言の成就としています。エレミヤにも似たところがありますが、むしろ近いのは、ゼカリヤ書11章12節から13節の記述です。旧約の1491頁です。
「わたしは彼らに言った。『もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。』彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。『それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。』わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。」
ここで語られていることは、羊飼いに対する商人たちの評価は、30シェケルは、奴隷一人の代価に過ぎなかったことです。すると「見事な金額」と言われても皮肉に聞こえます。そして、この「鋳物師」という言葉は、「陶器師」とも訳せますが、金庫とか銀行という言葉と同根です。すなわち、マタイは、神殿に入ったお金を用いて「陶器職人の畑」を買ったというのです。実際に神殿に入るお金を用いて、商取引に運用されることがあったのです。太宰治が商人と見なしたユダが投げつけた銀貨30枚は、そのように使われることになり、これが旧約の預言の成就であった。ユダの死も、お金の行方も、神のみ心の内にあったのだとマタイは告げているのです。
神はわたしたちの弱さや罪の全てをご存じです。わたしたちは、自分がしてしまったことを後悔しても、どうすることもできません。お金を返すと言っても、元には戻せない現実があります。しかし、そんな嘆きの中でも、わたしたちは、ユダのように絶望に陥って死を選ぶことはありません。ペトロのごとく、涙してもイエス・キリストの十字架の死による救いの恵みに立ち帰ることができる。ダメだと思ったところから、新しく歩み出すことができるのです。