出エジプト34章29~35節、マタイによる福音書17章1~13節
説教 「光の神」

今日は子どもも大人も共に礼拝ですが、説教は2回でなく1回で行うことにしました。ですから、今日は子どもも今日は途中抜けなしで、終わりまで付き合ってもらうことになります。礼拝の途中で上に行くことはありません。今はレントなのでそのようにしました。

イースター前の日曜日を除く40日間をレント、日本語では四旬節とか受難節とも言います。レントは十字架で苦しみを負われるイエス様を深く思う時です。ある牧師は、レントの期間は大好きなビールを断つことで、イエス様の受難を共にするのだと言われました。田口牧師ならお饅頭を食べないとか。いや一個まではOKにするとか、子どもだったらゲームの時間を1時間から30分に減らす。そのようにやりたいことを我慢することも、レントの過ごし方として覚えておきたいと思います。

さて、「教師の友」というCS教案誌のカリキュラムに沿って、マタイ17章1から13節がテキストとしました。イエス様のお姿が、太陽のように光輝く姿に変わってしまう「山上の変貌」と呼ばれる聖書箇所です。先週はこの前の記事、16章21節以下をテキストとしました。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」とあります。イエス様の生涯のターニングポイント。受難への道を歩むことを決断された、それに続くところです。

ペトロはこの時、「主よ、とんでもないことです」と言って、いさめはじめました。いさめるとは、注意するという意味です。何と先生に向って、いやその前にはイエス様を「あなたはメシア、生ける神の子」と呼んでいますので、神に向かって注意するということは、考えられない気がします。

週に一度、幼稚園の子どもたちと一緒に給食を食べるようにしています。先日、わたしはおかずだと思い容器にあった丸い物をつい食べてしまいました。食べた瞬間、「まずい」(まずくなくて美味しかったのですが)、「まずい、しまった」と思いました。おかずだと思って口にしたその丸い物はたこやきだったのです。目ざとい子どもたちに「あっ!ダメだ~」といさめられました。幼稚園ルールでは、たこやきを含むデザート類はごはんやおかずを全部食べてからでないと、食べてはいけなかったからです。

わたしのしたことはいさめられても仕方のないことですが、イエス様は間違ったことを言っていません。でも、ペトロにはとんでもないことに聞こえた。神の子が苦しみを受けて殺されるなど、あってはならないことだからです。しかしイエス様は、自分をいさめたペトロに向って「サタン、引き下がれ」と叱るのです。ひどい言い方のように思いますが、サタンとはここにあるとおり「邪魔をする者」という意味です。ペトロは十字架に向おうとされるイエス様の邪魔をした。だから「サタン、引き下がれ」と言ったのです。

十字架刑というのは、数ある死刑の仕方の中でも、もっとも残酷な刑罰だと言われています。イエス様は神の子だから、死んでも復活することが分かっていれば、平気だなということはあり得ません。

わたしは今、歯の治療の最中です。何年か前に歯が腫れてしまって説教ができなくなったことがありましたが、そのときの根本的な治療をしています。治療すればよくなるからいいじゃないか、とは思えません。痛いものは痛い。イエス様は神の子ですが、人の子になられました。わたしたちと同じく弱い者になられたのです。痛いときは痛いし、悲しいときは悲しいし、死ぬことは怖い。まして多くの人間の罪の身代わりとなって、呪いを受けて死ぬのです。できれば避けて通りたい。しかし、覚悟を決められたのです。そんなイエス様の心をペトロは分かりませんでした。

17章1節の「六日の後」とは、そんなやりとりがあった後のことです。イエス様は普段は一人で山に上られています。祈るため、父なる神との特別な時間を過ごすためです。ただしここでは、後に教会が誕生してから大切な働きをすることになる、ペトロとヤコブとヨハネの三人を連れて山に登りました。彼らに特別な時を体験させたのです。ここで「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」とあります。

わたしが子どもの頃、もう半世紀も昔ですが、普通の人がかっこいいヒーローに姿を変えて悪と戦う番組がたくさんありました。「仮面ライダー〇〇」は(今はしてないかもしれませんが)ずっと続いていました。昔は主人公が「へんしん!」と言って仮面ライダーとなり、ショッカーの怪人たちをやっつけます。自分も変身したいと思いました。

思うに人間には変身願望があるのだと思います。中身も変えたいし、外見も変えたいという思いがあるから、おしゃれしたり、お化粧をしたり、整形したりするのでしょう。

カフカの「変身」という小説があります。主人公のグレゴールが、ある朝目覚めると「巨大な褐色の虫」に変わっていたという物語です。グレゴールの立場からすれば救いようのない話なのですが、人は皆、不安定で、恐れがあり、矛盾を抱え、悩みがあり、死すべき存在であることを告げているように思います。

さて、今日の聖書箇所は、「山上の変貌」と呼ばれることがありますが、イエス様が変身したのではありません。山上で変貌したというよりも、神の子としての栄光に輝く「本来の姿」を見せられたのです。これはペトロたちにとっては驚きでした。さらにビックリすることがありました。何とそこにモーセとエリヤが現れて、イエス様と語り合っているのです。モーセとは、十戒をはじめとする神の掟を民に告げた人、すなわち律法を代表する人物です。エリヤは多くの預言者たちを代表する人物とされています。モーセとエリヤは、旧約聖書を象徴する人物なのです。

イエス様とモーセとエリヤは何を話していたのでしょう。きっとイエス様がこれからしようとしていることを確かめていたのではないでしょうか。ルカによる福音書の並行記事には、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」と書かれてあります。

しかし、ペトロらには何を話しているか想像もつきません。光り輝くイエス様がモーセとエリヤと一緒にいて話をしているのを間近に見て、有頂天になってしまいました。ペトロという人はおっちょこちょいだなと思うのですが、口をはさんで「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言うのです。

あまりにも素晴らしいところに居合わせたので、仮小屋を作ってここに三人をとどめておきたいと思ったのです。夢なら覚めて欲しくない、いつまでもここにいたい、そう思ったのでしょう。

でも、ペトロの願いはかなえられません。それ以上に驚くべきことが起こります。ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆います。雲とは神の臨在を表しています。すると雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」と言う声が聞こえてきました。ペトロは非常に恐れます。それもそのはず、光り輝く雲は特に旧約において、神の栄光を表すものです。太陽の光を直接見ることができないように、人は神を見ると死んでしまうと考えられていました。それで神の栄光が雲に覆われました。

先週の礼拝でも引いた出エジプト記の24章に神とイスラエルとの契約の場面が出てきます。12節以下にモーセが後継者となるヨシュアを連れて、「教えと戒めを記した石の板」をシナイ山に取りに行った記述があります。15節に「モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた」とあり、モーセは40日間山にとどまりました。

40日後、出エジプト記34章29節では、モーセが十戒の二枚の掟の板を手にして、シナイ山から下ってきたときの様子が記されています。「モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった」とあります。

主の栄光に触れる時、人は恐れをいだきます。それは自分の暗さ、醜さが露わになるからです。あまりに神々しい光に人は耐えることができないと思ってしまう。ベツレヘム郊外で野宿していた羊飼いに主の天使が近づき、栄光が彼らを照らしたとき、羊飼いたちは非常に恐れました。すると主の天使は「恐れるな」と言い、救い主の誕生を告げました。

今日のテキストでも、恐れる弟子たちに、イエスは近づき、彼らに手を触れて言われるのです。「起きなさい。恐れることはない」。「彼らが目を上げて見ると、イエスのほかには誰もいなかった」とあります。モーセもエリヤもいません。きっとこの時のイエス様の姿は、彼らが知っていた普段のイエス様の姿に戻っていたはずです。

「起きなさい」というのですからペトロらは寝ていたように思えます。でも、ペトロは一夜の夢を見ていたのではありません。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた」とあります。ということは、ここに書かれてあることは、イエス様が復活し教会が誕生してから、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが証ししたことの記録と考えてよいのです。彼らの証言であるからこそ、この物語には信ぴょう性があります。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」との声。ペトロがいさめたように、神の子が受難の道を歩まれるなど考えられないことです。しかし、人の目にはそうであっても、神の思いは異なります。受難への道を歩まれることで、神の御心がなり、神の栄光が現わされることが、ここで宣言されたのです。

弱さを抱えるわたしたちは強さに憧れます。子どもの頃、変身して強くなりたいと思う。人は弱い自分を強くしてくださる神なら信じてみようと思うかもしれません。でも、強い神の前に立ったとき、かえってわたしたちは委縮してしまうのではないでしょうか。闇の中をさ迷っている時、目の前に光が照らされ明るい世界に連れていってもらえる神を求めたいと思いを持つでしょう。けれども、あまりにまぶしければ、人は耐えることができません。

メーテルリンクという人の書いた『青い鳥』を今の子どもたちは知っているでしょうか。幼稚園に聞くと「ない」と言われたので探してみると、名古屋市の図書館に1冊だけ絵本がありました。

チルチルとミチルの兄妹は、貧しい木こりの家に生まれました。暗い部屋の窓から、お隣のお金持ちの明るい部屋を、羨ましそうに眺めています。そんなとき、魔法使いのおばあさんが「青い鳥はいるかい」と尋ねてきます。二人は、何でもよく見える魔法の帽子をかぶって、しあわせの「青い鳥」を探しに旅を出ます。「思い出の国」、「四つの扉のある国」、「未来の国」など色んな国を旅してそこで青い鳥を見つけますが、連れ出すとその鳥が死んでしまっているという経験を繰り返して家に帰ります。

朝になって、お母さんが二人を起こします。いつもの部屋です。でも何かが違います。実際には何も変わったことはないのに、朝日が射す何もない部屋は美しく見えます。するとあまりかまっていなかったきじばとが、青い鳥だったことに気がつきました。チルチルとミチルは、しあわせの青い鳥をさがして歩きました。でもやっと気づいたのです。しあわせの青い鳥は、ずっと前から自分たちの家にいたことを。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」天にいます光なる神は、わたしたちの住む地上に宿を取ってくださいました。ペトロが仮小屋を建てなくてもイエス様はわたしたちと共にいてくださいます。ペトロがいさめたように、わたしたちの身代わりとなる受難の主のお姿は、わたしたちが望む救い主のあり方とは違うかもしれません。けれども、神の思いは人の思いをはるかに超えています。人間の頭では考えられない仕方で、救いをもたらしてくださった。それがイエス・キリストの十字架であり復活です。

人生の闇の中に光は輝いています。でも、その光はまぶしい光ではなく、よく見ないと気づかないような光です。十字架に向って歩まれる光はか弱く、闇の中に溶け込んでしまっているように思えます。でも、その弱さにまことの強さがあります。闇の中にいるのは辛いことです。でもそのときが、まことの光と出会えるチャンスなのです。