ルカによる福音書14章25~35節
「十字架を背負って」
ここでのイエス様の語りはとても厳しいものです。こう始まっています。「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。』」
「わたしの弟子ではありえない」という言葉がこだましています。まともに考えれば、誰もイエス様の弟子にはなりえないのではないか。イエス様は誰にもついてきて欲しくないのか。そのように思えてしまいます。イエス様に従おうとしても、こんな言われ方をすればこちらから願い下げだ。そんな思いになっても不思議ありません。
「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と言うのです。「憎む」という言葉が気になります。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」とは、自分にとってもっとも近いところにいる家族です。家族を憎むなんて、そんなことがあっていいのでしょうか。「憎む」という表現は、かなりきつい響きがあります。そんな憎しみを抱きながらイエスの弟子になれるのか。そればかりでなく、「自分の命であろうとも」と言うのです。
イエス様が言おうとされていることは、もう少し先33節の「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」ということだと思います。自分の家族も自分の命も、財産の一切を握りしめていては、従うことはできないのだと言われているのです。
それにしても、このことを語るイエス様の意図はどこにあるのでしょうか。「大勢の群衆が一緒について来た」で始まっています。これは弟子たちへの言葉ではありません。大勢の群衆への語りです。おそらく群衆の中には、軽い気持ちでイエス様について来ていた人や、軽い気持ちでなくても勘違いをして弟子として従おうとしていた人が少なくなかったのではと思います。
この時イエス様は、エルサレムへの途上にありました。イエス様は目的がはっきりしていました。これは十字架への旅です。苦難を受けるための旅です。しかしそのことは、ペトロら12人の弟子たちを含めて、誰も理解していなかったのです。いや最後まで理解できていなかった。だから逃げ出したのです。
この時に着いてきた群衆も、エルサレムで何かが起こるとは思っていました。しかしそれは、ローマからの解放や、既成の制度の改革などでした。イエス様の弟子になることで、自分を高めることができる。自分の家族が誇りをもてる。権力の側につくことで経済的にも豊かになる。そんなことを期待していました。でもイエス様は、そういうことではない、あなたがたが求めているすべてをまさに憎むほどでなければ、わたしの弟子にはなり得ないことを伝えているのです。
そして、弟子になることへの二つ目の条件が「自分の十字架を背負ってついて来る者」になることです。「自分の十字架を負う」とは、日常的にも使われることがあります。その場合、自分の病気や苦しみ、障害などを意味します。「そうした重荷を自分の十字架として背負っていく」そういう使い方をするのです。ただし、ここでイエス様が言われるのは、そういう意味ではありません。
自分は十字架で死ぬ受難のメシアである。そのわたしに従いたいと思うならば、あなたがたも自分を捨てて苦難の道を共に歩まねばならない。それが自分の十字架を背負うことだと言われているのです。別の言い方をすれば、自己否定することです。自己否定とは、自分なんかダメだと卑下することでなく、自分を主として生きることをやめるということです。自分を否定したときに、神のご支配に委ねて生きていくということができる。そこでまことの命を得ることができる。
この弟子としての覚悟を語る間に、二つのたとえ話が挿入されています。28節から30節で、塔を建てようとするときのたとえ。31節から32節では、王が戦いに出てゆくときのたとえです。このたとえそのものは、分かりにくいものではありません。二つとも何の計算もせずにことをはじめてしまうと、後で困ったことになるという話です。経済の話をしているようでもあり、マネジメントの話をしているものと思われます。計画倒れになるようなことは、初めからするなという教えです。
ではそのことと、イエス様の弟子になることがどのように関わっているのでしょうか。読んでいて、はじめはよくわかりませんでした。何でこんな話をされたのだろうかと。しかし、謎解きがそうであるように、分かってしまえば、どうということはありません。要は、イエス様の弟子として従うことは、思いつきのようではダメなのだということです。深く考えることをせずに始めたものの、後になって思っていたことと違ったからやめます。そんなことではいけないと言われているのです。それは神様との契約不履行です。
牧師の数が少ないことが数十年前から言われています。神学校が「収穫が多いが働き手が少ない」との御言葉を引いて、学生を募集することがあります。今はどの教会も、牧師が辞任するとなると、無牧を経験せずに次の牧師が来るのは、実に稀なことです。それでも日本基督教団の今年の教団年鑑を見ると、教会担任教師、すなわち牧師、伝道師の数は1,666人でした。これは教会の数とほぼ同じです。この愛知西地区の場合には35教会に対して43人の教師がいます。無牧の教会はあっても、夫婦で牧会されたり、伝道師を置く教会があるからです。しかし、地方では2割以上の教会が無牧師という教区もあります。
日本基督教団の無任所教師、すなわち教会や学校に仕えていない教師は、教団年鑑では653人となっていました。その牧師たちが教会に仕えることができるなら、一気に問題解決するように思えます。ところがそうはならない。財政的に牧師を呼べない教会は多いです。それだけなら、教区の互助など助け合い伝道でカバーすることができますが、それ以上に召命感を失ったという牧師が多いのです。そこには、いろんな事情がありますが、スタートの時点から違ったという人も多いのではないか。試験を受けるためには、教区議長が推薦書を書かなければならず、前もって教区で面接をするのですが、そう思うことがあります。燃え上がるような思いだけでは続かないのです。自己実現ではなく、まさに自己否定が必要です。そうでなければ、教会が主の御体なる教会にはなりません。
イエス様は34節以下で、塩気のなくなった塩の話をされています。イエス様の弟子になるということは、地の塩として生きるということです。しかし、塩気を失ってしまうことがあるのです。そればかりでなく、自分の思いの思いをイエス様に押し付けるような仕方であったなら、それは塩味ばかりがきわだって、食べられるものではなくなってしまいます。塩はそのものが主張するのでなく、味付けのために添えられるものです。よい塩加減でなければなりません。証しするのは自分ではなく、主ご自身です。
注解書を読んでいると、今日のテキストは福音書が書かれた当時のルカの共同体の状況が反映されていると分析する学者がいます。すなわち、背景に教会への迫害があるのです。教会は、ユダヤ人からの迫害や、ローマ帝国からの迫害を受けました。そのために、離れてゆく信徒たちもいました。そんな状況下の中で、ルカがこの話を福音書に記したというのです。教会の信徒たちに、改めて弟子として従う覚悟を、自分の十字架を背負う覚悟を求めたのです。
今から10年程前にあった名古屋説教塾の冬のセミナーで、ドイツ告白教会の説教を学びました。1933年にヒトラーが政権を握ると,その国家主義的政策に対して、マルティン・ニーメラーを中心として、プロテスタント教会内に抵抗運動が起きました。カール・バルトが起草したバルメン宣言を出したのが、ドイツ告白教会です。
セミナーでは、ナチの支配下にある告白教会の牧師たちがどんな説教をしたか、加藤先生が翻訳された説教のいくつかを取り上げたました。そのときに、ナチが台頭した最初から勇敢に戦ったヘルムート・ゴルヴィツァー牧師のダーレム教会での説教が取り上げられました。ダーレム教会はヒトラー政権の圧迫に最後まで屈しなかった教会です。マルティン・ニーメラーが牧師でしたが、戦時中はずっと獄中生活を強いられており、その間をまだ30歳を過ぎたばかりにゴルヴィツァーが守ったのです。
セミナーで学んだ説教の中に、1940年、ニーメラー牧師が獄中で48歳の誕生日を迎えるその前夜のとりなしの礼拝で語られた説教がありました。その時の聖書箇所が今日のルカによる福音書14章25節以下でした。感銘を受けたのは、説教の中で「まことに感謝すべきことに」という言葉が繰り返されていたことです。十字架の主に従うことの感謝です。以下、引用します。
「まことに感謝すべきことに、あとから従えばよいのであって、先立って進むのではないのです。主が道を拓いてくださっているのです。まことに感謝すべきことに、主の弟子の誰もが、負わなければならないのは、ただ自分の十字架だけです。イエス・キリストの十字架ではないのです。まことに感謝すべきでありますが、すべての罪が償われるあの十字架、神に捨てられる窮みの境地に、遥かな地獄に至る道を歩み抜くあの十字架、全世界が救い出されたあの十字架、それを弟子たちは負う必要はないのです。本当に感謝すべきことですが、その十字架ではありません。わたしどもの誰もが負うべきは、小さな自分の十字架を負えばよい。だがそれにしても、それはまことに厳しいものであり、ただ信頼するという事実に根ざしてのみ担い得るものなのであります。」
ゴルヴィツァーは、キリストが背負ったあの十字架を背負うことは誰もできない。でも、その主に従うことが自分の十字架を背負うことである。それもとても厳しいことだけれど、まことに感謝すべきことであると言われるのです。
この説教があった1940年というと、ヒトラー全盛期です。日独伊三国同盟を結んでいた日本もヒトラーに熱狂した。その権力にあって教会の中にも脱落者する者はいましたが、ゴルヴィツァー牧師は、教会の人たちをよく理解していました。皆、不安はあります。まさに「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命」まで捨てて主の道を歩み、ヒトラーに抵抗した結果投獄された。そんな牧師の教会の留守を助けるのは、想像するだけで大変です。この牧師は説教で何を語るのか、ナチの目があり、教会員の目があります。しかし、ゴルヴィツァーは、誰にも媚びることはありません。大勢の群衆に振り向いて言われた、主の目だけを見つめて説教したのです。
そして「自分を誘惑するすべてのものを自分の視野から退ける人、そのような人だけが、イエスの弟子たり得るのであります」と語っています。自分の十字架は、イエス・キリストにとことん信頼することで担ぐことができるのです。それは難しいけれど、まことに感謝なことなのです。
ゴルヴィツァーの口から出る主の言葉に、ダーレムの教会の人々も信頼しました。彼の説教が教会の人々を強くしたのです。彼の説教に押し出されるようにして、獄中にいて、明日誕生日を迎えるニーメラー牧師のために祈る、そんな神の民の姿が見えてきます。ドイツ告白教会にとって、ナチの圧力に屈することなく主に信頼して生きる。それが、自分の十字架を背負うことでした。
今朝、キリストへの時間の放送をお聞きになった方は、普段とは違う始まり方をしたことに気が付かれたでしょう。3月の説教は2月7日に録音したものであることを断った上で、CBCとアナウンサーにお願いして、冒頭の挨拶を差し替えてもらいました。ロシア軍のウクライナ侵攻という惨事を思い、特別の祈りをしていただきました。
長老会だよりにもウクライナの平和を求める祈りを載せました。首都キエフにロシアの兵士たちが迫っています。かなりの危機です。ロシアとウクライナの教会にも思いを馳せています。今、この時、主の民でいることを、自分の十字架として背負うことができますように。迎合するのでなく、抵抗する力が与えられますように。わたしたちも他人事とするのでなく、自分のこととして受け止めていくことができるように。今はそのことを自分の十字架として負い続ける力と勇気と祈りを、わたしたちに授けてください。主の御名によって、アーメン。