ルカによる福音書23章32~43節
「あざけりの中から」田口博之牧師

聖書朗読は39節以下でしたが、子どものための説教の前に読んだ32~38節も含んでお話したいと思います。

イエス・キリストの十字架は、福音書の頂点であり、キリスト教信仰の肝になるところです。イエス様の十字架について、ルカに限らず4人の福音書記者が教えていることは、イエス様は一人で十字架につけられたのではないということです。「されこうべ」と呼ばれるゴルゴタに3つの十字架が立ち、イエス様はその真ん中につけられました。このことは、わたしたちは承知しているでしょうが、どれだけ意識しているでしょうか。

わたし自身は今日のテキストと向き合うまで、たとえば先週の説教でも、そのことをあまり意識しないままに「十字架の道行き」について語っていたことに気づかされました。というのも、今日のテキストを読み始めてハッとしたのです。

32節「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。」

この言葉は、イエス様が一人で十字架についたのではないことを示しています。もちろんハッとしたと言ったのは、孤独ではなかったということではありません。そうではなく、イエス様は犯罪人として死刑にされるために十字架につけられたということです。ご自身はまったく罪がないのに、犯罪人、罪人として死なれたのです。すなわち、イエス様の十字架は、まったく美化されることではないということです。そういうことを知った上で、十字架のアクセサリーをつけている人がどれほどいるでしょうか。イエス様は二人の犯罪人と共に、犯罪人として処刑されるために、されこうべへの道を進んだのです。

大河ドラマの「光る君へ」をご覧になっている方がいらっしゃるでしょうか。先週の放送は、1回目と並んでショックでした。直秀を座長とする散楽一座が、強盗の罪により検非違使に殺されてしまいました。なぜあんなことになったのか。ここで考証しても仕方のないことですが、道長ばかりでなく「鳥辺野に行った」と聞くと、知っている人はドキッとする。当時の鳥辺野は、鳥が死体をついばむことで名付けられた地です。

十字架の立った「されこうべ」もそのような場所でした。しかし、直秀の死を悼むほどにイエス様の死を悼む人はいなかったのです。十字架の下では、イエスの服を分け合っている人々がいます。議員たちはあざ笑っています。兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱しています。十字架にかけられていた犯罪人の一人もイエスをののしっています。皆がイエス様を馬鹿にしている。そのような人々のあざけりの中から、イエス様は次の言葉を語られたのです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

イエス様が十字架の上で語られた言葉は全部で七つあります。そのうちの三つがルカによる福音書にありますが、その第一の言葉が、この34節です。ちなみに43節「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」が第二の言葉。これは、一緒に十字架につけられ犯罪人の一人に語られた言葉です。そして三つ目が46節、「父よ。わたしの霊を御手にゆだねます。」これが、第七の言葉と言われているもので、次週の礼拝で聞くことになります。

これらの中でも、第一の言葉は、もっともイエス様らしいと思えるものです。わたしが親しくしている牧師は、この言葉を聞いて信仰に入りました。「こんなことを言える人が本当のいるのか。わたしはこんな人は知らないし、自分にはできない。ほんとうにこんな人がいるなら信じてみたい」と思って求道を始め、やがて自分がこの十字架上の祈りによって赦された一人であることを知り、洗礼を受けたというのです。

わたしはその話を聞いて、この牧師はそんなに優等生のように思えないけれど。そう思うかたわら、とてもうらやましいと思いました。パウロが言うように、十字架の言葉は、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです」でも、この牧師は十字架から入ることができた。すると、もうつまずきようがないのです。神様から離れたくても離れることができない。

わたし自身は、この言葉を特に意識したのは、新共同訳聖書になってからです。ところがここを読んだとき、正直えっ、どうして?と思いました。以前の口語訳聖書は、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。とありますから、言葉自体は大きく変わりません。でも変わったところがあります。そう、このイエス様の言葉に括弧〔 〕がついたのです。素人考えのようですが、何で余計なことをするのかと思いました。確かに、聖書冒頭の凡例のところには、この括弧書きは、「新約聖書においては後代の加筆と見られているが、年代的に古く重要である箇所を示す」と書かれてあります。すると、この言葉がない写本もあることになり、そういう聖書では「十字架上の六つの言葉」になってしまいます。

わたし自身は、この言葉を「後代の加筆」つまり後の時代に付け加えられたとしてしまっていいのかなあという考えを持ちました。むしろ、後の時代にこの言葉を取ってしまった。イエス様がほんとうにこんな祈りをしたのかと疑い、括弧をつけた人がいたのではないか。そんなことを考えてしまうのです。

ほんとうに驚くべき祈りです。親しくしている牧師が、この祈りに打たれて信仰を求め始めたように。これ以上ない執り成しの祈りで、大祭司の祈りとも呼ばれます。わたしたちは、大祭司と聞いてよい印象は持たないかもしれません。最高法院の議長として、イエス様を死刑に追いやったのが大祭司です。しかし、大祭司は本来、尊い職務です。直接、神殿の中に進み出ることが許されていない人のために、動物のいけにえを代わりにささげて罪の赦しを執り成します。一方イエス様は、まことの大祭司として、ご自身がいけにえとなることで、十字架でわたしたち罪を赦してくださるよう、執り成したのです。

大祭司はきらびやかな衣装をつけていました。出エジプト記の28章を見ると、まだ大祭司という職制は出来ていませんが、祭司が着る祭服についての規定が詳しく出ています。8節以下にエフォドという上着について書かれてありますが、随分と贅沢に身を飾っていることが分かります。15節以下の胸当てにはイスラエル12部族の象徴として12の宝石を身につけています。お金で換算すれば、とてつもない金額になるでしょう。

では、イエス様はどんな服を身につけていたのでしょう。十字架の下では人々がイエス様の服を分け合っています。ということは、身ぐるみ剥がされていたということです。尊厳が奪われています。その姿を見て、人々はあざけっているのです。その、まさに嘲っている人々のためにイエス様は祈られるのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。この言葉に括弧をつけた人の思いがよく分かります。

しかし、この祈りを最も近くで聞いた人がいました。イエス様の右と左で十字架にかけられていた犯罪人です。犯罪人の一人は、イエス様の言葉をたわ言のように聞いたのでしょう。

39節です。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言っています。

十字架の下でも、同じようなののしりが聞こえていました。ユダヤの議員たちは、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と言い、ローマの兵士たちも、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱しています。三者共通して、自分を救えと言っています。ところが、犯罪人は言葉を加えているのです。「我々を救ってみろ」と。つまり、イエスが十字架から降りてみれば、信じるというのではない。わたしたち二人もここから降ろせ。救ってみろ」そう求めているのです。

すると、これを聞いたもう一人の犯罪人が彼をたしなめました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」この犯罪人の言葉を記録するのは、ルカによる福音書だけです。この犯罪人の方が、イエス様をののしった犯罪人よりもよい犯罪人だった。そういうことではないと思います。したことは変わらないのです。違うのは何かといえば、この人は「自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と言っているように罪を自覚したということです。

この二人は犯罪人について、マタイやマルコは強盗としていますが、ルカは犯罪人としか記していません。彼らは政治的な革命家であったのかもしれません。ローマの支配をよく思わず、転覆させようと行動したが、捕らえられてしまった。十字架刑というローマの刑を受けているのですから、そう考えるのは自然です。

礼拝に出席されている人の中には、1960年代後半の学生運動に関わった、そうでなくても影響を受けた人がいらっしゃると思います。わたし自身はその名残りしか知りませんが、知る限り造反有理ではありませんが、人間の正義感は暴力に結びつくことがあります。戦争もそうです。自分は悪いことをしていると思って戦地にいる人はあまりいないはずです。もちろん、仕方なくという人もいるでありましょう。

犯罪人とされた二人は同じようなことをしました。でも、一人は十字架で殺されそうになった今も正義のために戦ったと誇りを思っている。だから、このまま死ぬのはおかしい。それで「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と訴えている。でも、もう一人は、自身の問題性を自覚したのです。自分の正義感による行動だけではダメだということを。これを、はっきり自覚したのは、イエス様の言葉を聞いたときではなかったでしょうか。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」この言葉を聞いたとき、彼は「自分が何をしているのか知らなかった」ことを知ったのです。この方は、何をしているのか分かっていなかったわたしのために祈ってくれている。そのことを知って、この方に賭けてみようと思い、こう言ったのです。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。すると、彼が思っている以上の言葉が返ってきました。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

第一の言葉と違い、この十字架上の第二の言葉は、ここで悔い改めた犯罪人だけに向けられた言葉でした。十字架の上で、対話がなされたのです。「はっきり言っておく」。イエス様は、「アーメン、あなたに言う。」そう話し始められたのです。しかし、短い言葉です。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。「楽園」、口語訳では、元の言葉通り「パラダイス」と訳されていました。パラダイス=天国という誤解を避けるために、楽園と訳したのかもしれません。

しかし大事なことは、楽園でも、パラダイスでも、そこは犯罪人が行くべき場所ではないということ。そして、悔い改める者には、遅すぎることはないということです。死の間際であっても、救われることをイエス様は約束してくださっている。このイエス様の言葉がなければ、病床洗礼はあり得ないのではないでしょうか。しかもこれは、死んでからの約束ではなく、今日、この瞬間なのです。死への不安、どうしようもない恐れにいる今、楽園にいるのです。「わたしと一緒に」。ここにインマヌエルがあるのです。十字架の上にインマヌエルがあるのです。戸田先生の言葉を借りるならば、

「どんなふうになろうと インマヌエル。
いつもインマヌエル。 永遠にインマヌエル」
「十字架の赦しとシャロームのインマヌエル」

ここに慰めがあります。ここに贖いがあります。永遠の命にあずかる希望がここにあるのです。