創世記2章7節 マタイによる福音書22章34~40節
「自分を愛するように」 田口博之牧師

昨日、一昨日と第80回日本キリスト教社会事業同盟総会と研修会が、名古屋中央教会と名古屋キリスト教社会館で行われました。1日目の総会でさふらん会の社会事業同盟への入会が承認されました。さふらん会のことを知っている人も、知らなかった人もいた。これまで入ってなかったのですね?と驚く人もいました。これまでそのような発想がなかったのかもしれませんが、研修会や交流会に参加してあらためて加入出来てよかったと思っています。

さふらん会のように教会が母体となって始まった施設と交流できる機会はこれまでありませんでしたし、たくさんの刺激や気づきが与えられました。何より感心したのは、どの法人もご苦労されていることは間違いないのですが、代表者の挨拶を聞くと皆さん明るいのです。あの明るさはどこから来るのかと思いました。そこに希望が失われることのないキリスト教の強さを感じました。

開会礼拝では、今日と同じテキストで「キリスト教福祉の根幹」という題で説教しました。特に37節から39節のイエス・キリストの言葉、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」この聖句の全部または後半部の「隣人を自分のように愛しなさい」を理念としている福祉事業所は少なくありません。愛隣園、愛隣館という名の付く施設はたくさんあります。この聖句がキリスト教福祉の根幹を成すことは間違いないからです。

しかしながら、隣人という言葉の出典が聖書であるとしても、「隣人を自分のように愛しなさい」は、一般の福祉施設でも言うことなのです。ではキリスト教福祉との違いはどこにあるのかといえば、第一の掟として、「神を愛しなさい」が言われていることです。

今日の礼拝でこのテキストを選ばせていただいたのは、聖書研究祈祷会に続き、礼拝でも十戒の学びを始めたことに理由があります、イエス様がこの二つの掟をもって十戒の心を言い表したことは間違いありません。

出エジプト記や申命記に、十戒は二枚の石の板に刻まれたと記されています。このことについて、16世紀のドイツで誕生し、今も信仰教育の書として世界中で用いられている「ハイデルベルク信仰問答」を読むと、「この十の戒めはどのように分かれていますか」という問いに対して、「二枚の板に分かれています。その第一は、四つの戒めにおいて、わたしたちが神に対してどのようにふるまうべきかを教え、第二は、六つの戒めにおいて、わたしたちが自分の隣人に対して、どのような義務を負っているかを教えています」と答えています。

すなわち、前半の四つの戒めは、神を愛すること、これをイエス様は、申命記6章5節、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」を引用することで言い表しました。また、後半の六つの戒めは隣人を愛すること、これをイエス様は、レビ記19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」を引用することで、十戒の二枚の板を要約するような二つの掟をもって答えられました。

「どの掟が最も重要でしょうか」と聞かれたにも関わらず、二つの掟で答えをのはズルいようにも思いますが、「神を愛せ」と「隣人を愛せ」という二つの掟は、コインの裏表のような関係で本来分けることができるようなものではありません。しかし大切なことは、イエス様が第一の掟、第二の掟と答えられたこの順序です。

週報にも書きましたのでロビーに置いておきましたが、名古屋学院大学キリスト教センターが、大学設立創立60周年を記念して『「敬神愛人」をめぐる系譜と群像~「建学の精神」の源流をたずねて』という本を発行しました。優れた企画です。名古屋教会の協力教師でいらした文 禎顥先生も執筆陣の一人として加わっています。

「敬神愛人」とは、1887年、名古屋学院の創設者であるクライン宣教師が、前身の名古屋英和学校の設立認可に伴い、建学の精神として掲げた「神を敬い、人を愛すること」を意味する聖書に基づいた言葉です。それはまさに今日のテキストでもあるマタイによる福音書22章37~39節が基となっています。

この本のエピローグに名古屋学院大学の神山美奈子宗教部長が、次の言葉を寄せています。“キリスト教学校の教育目的は「人格の陶冶(とうや)」であるとよく言われます。しかし、「人格の陶冶」だけでは一般的な道徳と変わらず、学校教育の基本であるとも言えます。では違いは何なのか、キリスト教学校は「人格の陶冶」の主人公がその人ではなく、神の側にあります。「敬神愛人」という建学の精神をもつ私たちですが、「愛人」の前になぜ「敬神」があるのでしょう。 自分を愛するように隣人を愛することができるならば、社会のため、人のため貢献できるはず。これこそ人格の陶冶を教育目標とする意味です。しかし、 隣人を愛するために「敬神」がまず掲げられています。ひたすら神を畏れる、それにより自分を愛し隣人を愛することができる、愛を行うことができるのです。”

今述べた「キリスト教学校の教育目的」と「キリスト教福祉、キリスト教社会事業の目的」には、共通するものがあります。キリスト教福祉と一般の福祉の違いも、そこに表れています。一つは誰が主人公なのかです。福祉の担い手が人であることには違いありませんが、人が先に出るのではないのです。聖書は「神は天地を創造された」で始まります。福音書記者ヨハネが、「初めに言葉があった。言葉は神であった」とあるように、神から出発するのです。

それは『さふらん』開設の際に、戸田先生がこれは「神が始められた業」だと語られたことに通じます。自分たちの理想やヒューマンな心でやろうとしたけれど限界があった。まさにそのとき、神が「この子たちを引き受けよ」と促した。すると、人間の可能性ではできなかったこと、無から有を生みだすようなことが起こりさふらんは生まれたのだと。

はじめに第一の掟があって、第二の掟がある。逆の順序はあり得ません。そして、神だけを愛して、隣人は愛さない。それでは神を愛したことにはなりません。逆に神を抜きに隣人だけ愛したても、聖書が語る愛とは離れていくのです。聖書は初めから、神がわたしたちを愛してくださっていることを語ります。

創世記には二つの創造物語が出てきます。第一の創造物語は、創世記1章27節「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」というものです。そこには人間の気高さ、尊さが語られています。他方、第二の創造物語では、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と告げています。土の塵で形づくられたというのですから、やがては土に帰る。人間の尊さよりも、はかなさが語られているといえます。

しかし、ここで使われている「かたどる」という言葉には、御手をもって、丹精込めてという意味が込められています。神は陶器師のように、土の塵でしかないものから人を丹念に造り上げてくださいました。手づくり、ハンドメイドです。だから一人一人違います。だから個性に満ちています。だから価値があるのです。その価値が更に高まるのは、神が命の息を吹き入れて、人を生きる者としてくださったからです。心と心を通わせることができる人を創造してくださった。そこに神の愛があります。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とは、わたしたちの造り主であり、救い主であられる神への応答行為です。神を愛するのは強いられたものではなく、愛されていることの感謝から生まれます。愛は返さずにおれなくなる。それは自ずと隣人愛に向かいます。わたしたちの隣人も、神に造られ、生かされている尊い一人だからです。

イエス様が、ただ「隣人を愛しなさい」ではなく、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われた理由もそこにあります。口語訳聖書では「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」とありました。ですから、この掟には、神を愛しなさい、隣人を愛しなさいともう一つ、自分を愛しないという三つ目の掟が隠れていると言われるのです。今日の説教の主題にと考えたのもそこでした。

では「自分を愛する」とはどういうことでしょう。自分を愛することができなければ、隣人を愛しなさいと言われても、どう愛するか分からないので、そう言われているのでしょうか。確かに、子どもの頃に愛された経験がないと、愛が分からない大人になります。ところが他方、自己愛が強すぎることも問題です。自分中心に考えてしまうのですから、同じように隣人を愛せと言われても、どうしたらよいか分かりません。自己愛の強すぎる親の愛が子どもに向くと、色々とやっかいな問題が起こることが想像できます。

実は「隣人を自分のように愛しなさい」という御言葉から、自分を愛することは大切さが言われ始めたのは、ここ数十年の新しい考え方です。しかも神学というより心理学的な見地から言われ始めたことです。それは、曲がった自己愛が強い人が目立ち始まめたと共に、自己肯定感の低い人が増えていることの裏返しです。

火曜日に行われる教区の婦人研修会で講演される石丸昌彦先生は精神科医です。石丸先生は出席する柿ノ木坂教会のCS通信の記事をまとめて『神さまが見守る子どもの成長』という本は出版されました。この本を読むと、4回に分けて「自己愛」について書かれています。その4回目の最後にこういうことを書かれています。

“どのようにすることが自分を愛することなのか、人は自分では分かりません。分かっておられるのは神様だけで、そのことを伝えるために旧新約聖書の全巻が書かれたのです。ならば、これに聞かない手はないでしょう。自分を愛するのは、自分を本当に愛してくれるのは誰かを知ること、そしてその方の教えに従うことだろうと私は思います。
「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)という教えと、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という教えは、実は二つで一つなのです。イエスさまのお手本が、二つの金言をしっかりつないでいます。”

今読んだところで大切なことは、「自分を愛するのは、自分を本当に愛してくれるのは誰かを知ること」と言われていることです。先月の共に礼拝でお話したように、人生でいちばん大切なことは「神様を知ること」です。つまりここで言われていることは、自己愛とか自己肯定感の話ではありません。自分を本当に愛してくれる神様を知ることができれば、感謝をもって神を愛せるようになるはずだし、その愛が自ずと隣人に向くことになるということです。

石丸先生は、「隣人を自分のように愛しなさい」という教えと、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という教えは、二つで一つだと言われました。後半「あなたがたも互いに愛し合いなさい」はヨハネ13章の言葉ですが、イエス様がその直前に、弟子たちの足を洗ってくださったことを忘れてはなりません。そして、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13:14)と手本を見せられて、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われたのです。

つまり、神様がわたしたちを愛してくださる愛は、イエス様が弟子の足を洗ってくださった程に具体的なのです。そこで思わされたことは、「自分を愛するように隣人を愛する」とは、具体的に自分の足を洗うように隣人の足を洗うことです。わたしたちも行う介護でいえば、自分の爪を切るように隣人の爪を切ること、自分の歯を磨くように隣人の歯を磨くのです。言葉を返せば、自分のケアができない人は、隣人のケアもできないということです。「隣人を自分のように愛しなさい」とは、そういうことです。

実に単純な気づきなのですが、これは、誰かのためにやってあげたいというまさにヒューマンな思いだけではできないことです。できたとしても長続きしない。東日本でも最後までボランティアを続けたのはキリスト教会でした。神の愛は抽象的なものではなく、足を洗われるほどに具体的です。相手よりも低くかがまなければ、しっかり洗うことはできません。神の愛は、仕えるという言葉で言いかえてもいいでしょう。

わたしたちが、神に仕えるよりも先に、神が仕えてくださいました。その感謝の応答として、わたしたちは神に仕え、人に仕えるのです。すべては、ここから始まります。