マタイによる福音書 6:25-34
「生きるためにいちばん大切なこと」田口博之牧師
皆さんは、生きていくためにいちばん大切なことってなんだと思いますか?水や空気がなければ当然生きられません。そういうことではなくて、わたしたちがよりよく、生きるにはどうしたらいいかという話です。
少し考えてみましょう。家族は大事ですね。家に帰っても一人ぼっちでは寂しくて仕方がありません。そう考えたらはこぶねってとっても大切だと思います。学校から帰ってきたら、「おかえり~」って迎えます。考えてみると、これって家と一緒ですね。はこぶねの出発点はそこにあります。
わたしが小学生だった頃、もう50年位前のことですが、働くお母さんは今よりは少なかったのです。もちろん働いている人もいたのですが、家にはおじいちゃんやおばあちゃんも一緒に暮らしていて助けてくれた。でも、だんたん家族が小さくなってきました。そうだとすると家に帰っても誰もいない。「鍵っ子」という言葉がその頃に生まれました。家の鍵を持って学校に行く。でもそれが出来るのも4年生以上でしょう。そのように時代が変わっていくなかで名古屋教会にはこぶねが生まれたのです。幼稚園でも延長保育、今でいう預かり保育が始まりました。
そう考えると家族はたいせつです。他にはどうでしょうか。20年くらい前に流行ったあるテレビのコマーシャルソングが子どもたちの間でも広まりました。それが昨年復活しました。「よ~く考えよう、お金は大事だよ~」という医療保険の会社のCMソングです。これを小さな子どもたちが歌っているのを見て、わたしは言い気持ちにはなりませんでした。確かにお金は大事です。でもお金がたくさんあれば幸せな人生が送られるといえば、そうとは限りません。遺産相続という言葉があります。子どもたちには難しい言葉ですが、お金があることで仲のよかった兄弟の仲が悪くなってしまうということもあるのです。それでいちばん大切だといえるでしょうか。
他にたいせつなものは何でしょう。健康も大事ですね。病気をすると辛いです。心細くなってきます。元気でいても、いつどんな病気に襲われるか分かりません。健康がたいせつだということは、子どもたちよりも、みんなのおじいちゃんやおばあちゃんの方がよく分かっているかもしれません。ジムに行ったり、サプリを飲んだり、ダイエットに挑戦する人もいます。健康は大事です。他にも、平和がいちばん大事だと考える人もいるでしょう。戦争が起こると大切な命が奪われてしまいます。教会は世界の誰もが平和であるために祈っています。
そう考えていくと、「生きるためにいちばん大切なこと」は何か、その答えを見つけることは難しいし、これが正解というものはないように思えます。でも、この問題を出した責任をわたしは果たす義務があります。でもその答えは、わたしが牧師だから出てくる答えだと言えるかもしれません。
さて、ここに聖書があります。聖書というのは神様の言葉と言われますが、神様が紙と鉛筆を持って書き始めたのではなくて、これを書いたのは人間です。聖書は人が書いたものを集めた本であるには違いないです。でも、他の本と違うのは確かです。ただの本ではありません。ここには神様がどれほどわたしたちをたいせつに思っているのかを綴っています。これは大昔の人、日本の歴史では旧約聖書は縄文時代の終わりから弥生時代の初め、新約聖書は弥生時代の中ごろに書かれたものをまとめた神様からのラブレターです。
ですから聖書を読むと、神さまの熱い思いを知ることができるのです。でもそれは簡単には分かりません。その思いを告げるために、牧師はいるといえますし、その思いを一緒に聞くために、わたしたちは礼拝しているのです。ですから、わたしの答え、わたしたちが生きるためにいちばんたいせつなものとは「神さまを知ること」です。神様を知れば知るほど、自分がどんなに愛されているかが分かります。自分なんて、と思うことがあるかもしれないけれど、そんなことを考えるのがおかしいと、分かってきます。辛いことがあっても、それを乗り越える力が与えられます。勇気が湧いてきます。
さて、今日読んだ聖書は、山上の説教と呼ばれるところです。イエス様は弟子たちや大勢の人たちの前で、こう語られました。マタイ6章25節です。
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」
ここに「命」という言葉が二度出てきます。この命は、心臓が動いているとか、呼吸をしていることで生きている命ではなく、わたしたちが心穏やかで健やかに生きていくことを含んだ魂とも呼ばれる命です。「思い悩むな」とありますが、わたしたちの心が塞がり、悩んでばかりいては、健やかに生きることはできません。そうは言っても、皆さんの中で思い悩まないという人は、誰一人いないでしょう。幸せそうに見える人が、とても大きな悩みを抱えていることもたくさんあるのです。
実はこの教えは、間違って受け取られることが多いのです。それは、「何を食べようか、何を飲もうかと、また何を着ようかと思い悩むな」とありますが、レストランでたくさんのメニューを見て、どれにしようかと考える。クローゼットを開いて、今日は何を着ていこうかな、なんて考えている。そんなところにイエス様がやってきて、「そんなことで思い悩むのはおかしい。空の鳥や野の花は、思い悩んでいない。でも今日も花を咲かせている、空を飛んでいる。だから考えすぎることはない。」そういう教えとして聞かれてしまうのです。
しかし、それは間違いです。イエスさまの話しを聞くために集まっていた人は、みんな貧しくて、病に苦しむ人ばかりでした。今日は食べる物、飲みものも手に入るか分からない。服もたくさん持っていなかった。今日を生きることかギリギリの人たちに向かってイエス様は話されたのです。
空の鳥も自分より強い敵にいつ襲われるかもしれない、野の草なんていつ抜かれて捨てられてしまうのかしれない世界に生きているのです。生きる厳しさから言えば、イエスさまの周りにいた人たち以上に厳しかった。
では、どうして「空の鳥をよく見なさい」「野の花がどのように育つのか 注意して見なさい」と言われたのでしょうか。理由は二つあります。一つは、空の鳥も野の花も、ギリギリのところを生きているけど、神様は養ってくださっている、装っているよ、ちゃんと見てみなさい。そう言って、思い悩んでいる人たちに、うつむくことをやめさせたのです。もう一つは、神様は、空の鳥や野の花を育ててくださいますが、それ以上にたいせつなものとして、わたしたちのことを見ていてくださっているからです。なおさらのことではないか。だから思い悩まなくてもいいんだと。
そうは言っても、生きている限り悩みは尽きません。それは仕方ないことです。でもそこでどんな問題が起こるかといえば、わたしたちは、わたしたちのことが大切でたまらない神様のことが見えなくなってしまうのです。ですから、イエスさまは、わたしたちが悩みにふさぎこまないために、わたしたちに必要なものが何かを知っていてくださる神様に目を向けさせるため、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われました。これは言い換えれば、「あなたは何よりも、神様を知りなさい」と言うことです。
わたしたちは、これが自分にはたいせつだと思ってにぎりしめているものがあるかもしれませんが、実はいちばんたいせつなものを失っているのです。わたしたちに命を与え、日々養ってくださっている神様が見えなくなっている。それが 聖書で言う「罪」の状態です。この問題だけは、お金や健康では解決ができません。私たちの努力では、どうにもならない。そのようなわたしたちがどう生きればよいのか道を示すために、今から2024年前にイエス・キリストは来てくださいました。
最後にイエスさまは、「明日のことまで思い悩むな」と言われました。それは、明日のことを心配するあまり、今日を台無しにしてはいけないと思われているからです。 わたしたちは、まだ来てもしていないことで心配し過ぎるところがあります。でも大丈夫です。私たちが生きるためにいちばん大切なことは、神様が用意して下さっているからです。そんな「神様を知ること」これこそが、生きるためにいちばん大切なことなのです。