出エジプト記20章1~2節、マタイによる福音書5章9~10節
「十戒前文~わたしは主、あなたの神」 田口博之牧師

毎週水曜日の聖書研究祈祷会で、出エジプト記を順に学んでいます。まさに今日のテキストとも重なるのですが、6月は出エジプト記20章を3回に分けて学びました。実は聖研で出エジプト記を学び始めたときから考えていたことは、十戒をどう扱うかということでした。だいたい1回の聖研で1章を目安にと思っていたのですが、十戒だけは一度では足りない。しかし、一つの戒めに1週ずつかけたら中々進まない。そう考えながら決めたのは、十戒の学びを聖研祈祷会だけで終わらせるのは勿体ないということでした。そこで、聖日礼拝で取り上げようと思うに至り、今日から月の最後の礼拝に十戒を読んでいくことにします。

おそらく教会に行かれたことのない方でも「十戒」という言葉は聞かれたことがあると思います。ちなみに「じゅっかい」でなく「じっかい」です。古い人であれば、十戒という映画を通して知ったという人がいらっしゃると思います。そして、教会に通い始めると、十戒は旧約聖書に出て来る言葉だけれど、キリスト教会も大切にしてきたということを知るようになります。わたしも洗礼を受けて間もない頃だったと思いますが、今のようにネット検索もできませんので、聖書を開いて十戒がどこに出て来るのか探して、ようやく見つけて嬉しかったことを覚えています。

今日の礼拝招詞を申命記4章13節としました。「主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された」とあります。この契約とは、主なる神とイスラエルとの間に結ばれた契約で、その中心となる律法が十戒です。では、わたしたちは、神とイスラエルとの旧い契約である十戒をどう考えればよいのでしょうか。わたしたちは律法によって結ばれた神の民ではなく、イエス・キリストの福音によって新しい神の民とされたものです。では、神とイスラエルとの古い契約の中心である十戒は、わたしたちには関係ないものなのでしょうか。そんなことはありません。

使徒信条、十戒、主の祈りの三つは、教会の教えの基本であり、信仰生活にとって重要なものであるとして「三要文」と呼ばれています。(三つの要となる文書です)といいつつ、わたしたちは礼拝で使徒信条は唱えていますが、十戒は唱えていません。重んじていないといいつ唱えていないのです。礼拝に十戒を取り入れるのは難しいことではありませんが、では礼拝で唱えれば重んじたことにはなるかといえば、そんな単純な話ではないのです。唱える人がどういう思いをもって唱えるのかが大事です。また唱えるとすれば、礼拝のどの位置で唱えればよいのか。それによって、十戒の意味合いも変わってくるのです。

ところで、十戒そのものは、今日のテキスト、出エジプト記20章2節から17節、鍵括弧でくくられた部分がそうです。ではどこを第一戒とするのか、どう数えればよいのか、それもわたしたちの信仰にとって重要です。皆さんがご自分の聖書をお持ちであれば、今から言うことを書き込んでいただきたいと思います。中には教会の備え付け聖書をお持ちの方もいるでしょうし、自分の聖書でも書き込むのは抵抗があるという人もいらっしゃると思いますが、書ける人は是非、今から言う番号を振ってみてください。

3節の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」が第一戒なので、3節の上に1です。4節の「あなたはいかなる像も造ってはならない」から始まり6節までが第二戒なので、4節の上に2と付けてください。同じ要領で、7節の上に3、8節の上に4、12節の上に5、13節の上に6、14節の上に7、15節の上に8、16節の上に9、17節の上に10です。今、書き込んだ1から10が、十戒の第一戒から第十戒となります。また、招詞で読んだ申命記4章13節に「主はそれを二枚の石の板に書き記された」とありますが、第一戒から第四戒までが一枚目の板、第五戒からが二枚目の板に書き記されたと考えてくださればよいと思います。これは次週に譲りますけれども、この二枚の板というのが、十戒を理解する上で重要となります。

ちなみに讃美歌21の93-3を開いていただくと、そこにも十戒が出てきます。(1)~(10)と活字で印刷されているところが、わたしが今話したことと同じで、十戒の第一戒めから第十戒めに対応しています。先ほど聖書に番号を書かなかった方は、家に帰られたら、是非讃美歌21を見て、ご自分の聖書に番号を振っておいてはいただければと思います。なぜ、そんなことを言っているかといえば、わたしたちの信仰にとって、大切な分類になるからです。讃美歌21については、教派を超えて使われていますが、日本基督教団出版局が出した讃美歌集なので、教団を含めたプロテスタント教会のスタンダードな考え方がこの(1)から(10)の数字の振り方に現れています。しかし、教派によっては別の考え方をしています。そのことについても、次月話をさせていただきたいと思っています。

さて、今日は十戒前文~「わたしは主、あなたの神」という説教題をつけました。番号を振らなかった20章2節の「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」については「前文」という位置づけをしています。日本国憲法にも前文がありますが、憲法の基本原理である「国民主権」「基本的人権の保障」「平和主義」を前文で確認しているように、前文とされているものは重要です。

十戒前文には、神がどのような神であり、どのような神として関わろうとされているのかが語られています。「わたしは主、あなたの神」とあります。神が自己紹介されています。自己紹介という言葉では軽いので、神の自己啓示、自己顕現と言った方がいいでしょう。

出エジプト記3章のモーセの召命の場面では、6節で「わたしはあなたの父である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と、自己を表わしてくださいました。さらに14節では、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と名乗りました。大事なことは、神は「わたし」として出会ってくださり、「あなた」と呼んで、関わってくださるということです。

では、神はどのように関わってくださったのか。イスラエルの民は長くエジプトで奴隷状態に置かれていました。イスラエルの人々は労働のゆえにうめき助けを求めます。そんな彼らの叫び声が神に届き、神はモーセをイスラエルの指導者として呼び出したのです。しかし、イスラエルの民をエジプトから脱出させるなど並大抵のことではありません。エジプト王ファラオがそれを許すはずがないからです。モーセには荷が重い。ですので、神はナイル川を血に染めることに始まり、エジプトに対して次々に災いを起こします。7章から11章に記されている災いがそうで、最後、十番目の災いが主の過越でした。主なる神が、エジプト中のありとあらゆる初子を打たれたことで、ファラオはイスラエルを去らせることを認めます。ところが、ファラオはこれを後悔するようになり、エジプト中の戦車すべてを動員してイスラエルを追うのです。14章の記述です。

先を進むイスラエルの人々の前には、紅海(葦の海)が広がり、後ろから迫るエジプト軍を見てイスラエルは動揺します。するとモーセは、主に命じられたとおり杖を高く上げて、手を海に向かって差し伸べると海が左右に二つに割れ、イスラエルの民は海を渡ることができました。後を追ったエジプト軍はといえば、海の水が戻り飲み込まれてしまいました。このようにして、イスラエルの民は奴隷の家、エジプトから脱出することができたのです。

映画「十戒」の話をしました。チャールトン・ヘストンがモーセを演じ、ユルブリンナーがファラオを演じていました。知ったように言っていますが、わたしが生まれる前の映画ですので、テレビの再放送で何度か見るしかありません。最初に見たのは、白黒の画面だった気もするのですが、海が分かれるシーンについては、しっかりと脳裏に刻まれました。しかし、あの映画のタイトルは、「出エジプト」ではなく、「十戒」なのです。そこには、出エジプト記を、奴隷解放の物語としてではなく、十戒によって主なる神とイスラエルの民との間に契約が結ばれた。そこを出エジプト記のクライマックスと位置付けたのだと思います。以後イスラエルの民は、十戒を中心とする律法を持って生きる民となりました。

十戒前文の「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。この救いの事実が十戒の基となります。実はユダヤ教では、この前文こそ十戒の第一戒としています。これを第一の戒めとして、しっかりと刻むことで、十戒を信仰と生活との規範としたのです。

パスカルという人がいます。パスカルの定理や、「人間は考える葦である」という言葉で知られていますが、数学者であり、物理学者であり、哲学者であり、自然科学者であり、実業家でもあるすごい人です。そればかりでなく、パスカルは神学者でもあります。そこにパスカルの基礎があります。パスカルは、回心の時のメモに残した言葉を、終生肌身離さなかったと言われています。その冒頭の言葉が、

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。
哲学者および識者の神ならず。確実、感情、歓喜、平和。
イエス・キリストの神。〈わが神、すなわち汝らの神〉汝の神はわが神とならん」。

このパスカルの言葉に明らかなように、イスラエルを奴隷の家から導かれた神は、抽象的な神でなく、歴史の中に具体的に生きて働かれる神です。それは棚の上に奉って拝むような神ではないということです。助けを求める人々に「わたしは主」とご自身を顕してくださり、「あなたの神」となってくださったのです。そのようにして、イスラエルを選んで結ばれた契約は。神の憐れみの計らいであり、恵み以外の何ものでもないのです。その恵みに感謝をもって応えるという形で現れたのが律法であり、その中心が十戒です。十戒前文には、神の憐れみの心が表されています。

ところで、十戒前文の前、1節に「神はこれらすべての言葉を告げられた」と書かれてあることにも注目したいと思います。つまり十戒というと、十の戒律とわたしたちはとらえるのですが、聖書には言葉とあります。十戒のことをデカログ(Dekalog)と呼ばれることがありますが、デカは十、ログはロゴス言葉であり、十の言葉です。神は戒律を与えられたのではなく、言葉を告げられた。それを人間の側が、戒め、戒律だと受け止めたわけです。もちろんそれは、間違いではありません。

人間が戒めを喜ばないのは、自由を奪うもの、束縛するものと捉えるからです。わたしが規則というものを初めて意識したのは、中学に入って生徒手帳をもらった時です。小さな字で様々なルールが書かれてあるのを見て、中学生になるとこうした規範を自主的に守っていかねばならないのだなと思った記憶があります。社会生活を営むためには規律が必要です。それによって、集団の秩序が守られます。法というのは、個人の自由を奪ったり、縛り付けたりすることが目的ではないのです。ことに十戒は、イスラエルの民が、神に喜ばれる歩みをするために託された指針とらえることができます。

出エジプト記の19章3節以下は、十戒前文を与えられた神の思いがよく表していると思います。3節から6節を朗読します。

「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。
あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。
今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば
あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。
世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって
祭司の王国、聖なる国民となる。
これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である』。」

「わたしの宝となる」という言葉に惹かれます。申命記7章6節に「神の宝の民」という小見出しが付けられた箇所があります。旧約292頁です。7章6節から8節にあるように、イスラエルの民は、神の宝の民と呼ばれるに相応しい資格があったのではありません。主が彼らを選ばれたのは、どの民よりも貧弱だったからです。ただ主の愛のゆえに、奴隷の家から救い出されたのです。十戒前文で語られているのもそのことです。十戒はただ神の恵みによって授けられました。イスラエルの民に求められているのは、神が恵みによって与えられる契約の言葉をしっかりと聞き、そこにおける約束をしっかり守ることでした。

今日は十戒の前提となる前文から、イスラエルにとって十戒が恵みの契約であることを確かめました。そこで問題となるのが、それがわたしたちと、どういう関りがあるのかということです。それはわたしたちが旧約聖書をどう読むかということにも関わります。わたしたちは律法の民ではなく、イエス・キリストの福音によって新しい神の民とされたものです。そのわたしたちにとって、十戒はどのような意味を持つのでしょうか。

そこで大事なことは、旧約の神も新約の神も、同じ唯一の神に違いないということです。イスラエルの民が奴隷状態から解放されたように、わたしたちは神の子であるイエス・キリストの贖いによって、罪の奴隷から解き放たれたのです。そのイエス様は、「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言われました。イエス様が十戒を新しく解釈されていたように、旧い契約は廃棄されたのではなく、イエス様によって完成されるのです。

十戒を重んじるということは、福音ではなく律法に生きるということではありません。律法は神の言葉であり、神がわたしたちに結んでくださった契約であり、その中心が十戒です。神は神の民とされたわたしたちが、契約に誠実であることを願っています。そのためにも十戒に示されている神の御心を知る。そこから始めたいと願っています。