2024.6.2 創世記32章23~33節、ローマの信徒への手紙5章1~5節
立証「苦難の中で神の呼ぶ声を聴き」 田口博之牧師
ペンテコステ伝道礼拝で、証をする機会を与えられたことを感謝しています。チラシを作った時に「なぜ牧師となったのかについて語ります」と記しました。これまで断片的にはお話したことや簡単な文章にしたことはありますが、まとまった形で話をしたことは一度もありませんでした。一言で苦難とか試練という言葉では言い尽くせない闇を見つめ返すことになり、それを語るのは、かなりエネルギーを要することになりので、避けてきたからです。
創世記に登場するヤコブは、ヤボクの渡しで何者かと夜が明けるまで格闘しました。「祝福してくださるまでは離しません」といい、相手から「お前は勝った」と言われ、イスラエルという新しい名を与えられました。しかし、腿の関節を打たれるという代償を負ったのです。ヤコブは神と格闘したと思っていたようです。でも、本当は誰が相手だったのか、勝ったのか負けたのかよく分からない不思議な物語です。しかし、20年振りに故郷に帰るために、兄エサウと和解するために、避けることのできない戦いでした。ヤコブは全でのエネルギーを注ぎだすようにして、ここを潜り抜けてきたのです。
今回、わたしが証することで、聞く人の中で悩みと苦しみの中でうめく人がいるとすれば、そこでは終わらないこと。「神は乗り越えられない試練は与えられない」とは、キリスト者ではないスポーツ選手なども使う言葉になっていますが、そんな思いを持っていただけるかもしれない。あるいは、田口牧師も案外苦労人なんだな。そういうことを知っていただくだけでも、悪くはないのではないかという思いもありました。それでも、木曜日位までは、証の原稿を書くことができないままに過ごしていました。
迷いつつ、わたしが最初に職業としての牧師を意識したときのことからお話しすることにします。実は高校生の頃にそんな思いが芽生えたのです。教会に初めて行ったのは、高校に入ってクラスの前の席に座ったS君の誘いにより、夏休みに入って彼が通う三津教会のCSの海水浴キャンプの助っ人を頼まれた時です。前々から教会には誘われていたのですが、キャンプならよいかと思って出かけました。そこで初めて聞いた讃美歌が「ひかりひかり」で始まる子ども讃美歌でした。食前には「日々の糧を」を歌い、お祈りに初めて触れました。それが、教会との原体験でした。
翌週、部活動のトレーニング中に大怪我をし、一か月入院することになりました。キャンプで友達になった子がお見舞いに来てくれたものですから、お返しにという思いもあって、土曜日の夕方に行われていた高校生会に行くようになりました。そこでのテーマソングの一つが、先ほど歌った讃美歌「聞けよ、愛と真理の」です。当時の讃美歌のでは、「聞けや、愛の言葉をもろ国びとらの」ので始まる歌詞です。皆さんの中にも若い頃によく歌ったという人がいらっしゃると思います。高校生の聖書研究会の指導をしていたのが、当時大学3年生だった篠浦千史先生でした。毎月10数名の高校生が集まり、わたしは高校2年のイースターに、他にも何人かが洗礼を受けました。篠浦先生は、高校生の真摯な質問にきっちり答えられなければ青年伝道はできないと思われたようで、大学卒業後に東京神学大学に進みました。それが1978年春のことでした。
わたしが将来の選択肢として牧師を考えたのもその頃でした。三津教会はメソジストの伝統にあり、牧師は関西学院大学神学部の出身でした。ところが篠浦先生は、東京神学大学に行くと言われる。不思議だったので、その理由もお聞きしました。今なら合点が行く話しですが、当時のわたしは混乱しました。日本基督教団には教会政治の問題があることを初めて知りました。加えて、神学校には高校を出てすぐに行かない方がよいという話もどこからか聞こえてきて、神学校に行く、すなわち牧師になるという選択はなくなりました。
次の選択肢が、もう一つ関心が芽生えていた障害者福祉でした。これも聖書はもちろん、三津教会の牧師の実践も影響がありましたが、小さい頃から障害をもつ人との出会いが複数あったことも大きかったです。やがて、キリスト教福祉として伝統のある明治学院大学、半官半民的な日本社会事業大学、そして名古屋の日本福祉大学の三択となりました。名古屋は中学2年まで住んでいたので馴染みもありましたし、当時は国公立並みに学費が安かったことで福祉大に絞りました。進学実績を考えた担任の先生は、同志社大学もキリスト教で社会福祉学科があると勧めたのですが、「もう決めましたから」と言って耳を貸さず、日本福祉大学に入学しました。
ただし、大学生の頃のわたしは、いったい何をしていたのかと思うほど中途半端に過ごし、試験前になると、ここにもいる同級生のノートをコピーする始末です。福祉への志も薄れてきました。それでも就職するなら養護学校の教員かなと思い、教育学系のゼミに入りました。でも勉強もあまりしなかったので教員試験は不合格でした。民間の福祉施設も少なかったですし、そこで働いたとしても生活していくのは並大抵なことではないと考えました。わたしが大学を卒業する1983年は、岡地俊江さんや伊藤麻子さんの中学卒業、すなわち、さふらんの立ち上げが同じ年だったので、もし名古屋教会に行っていたとすれば、違う導きがあったかもしれません。しかし、「たられば」教会の言葉ではありません。まだその時ではなかったのです。
結局は、卒業間際になって、父親の口利きで広島の会社に就職することが決まり、いちばん向かないと思っていた営業職に就くことになりました。就職して3年目にノートを写させていただいた人と結婚しました。そして長男が生まれた翌年に父親の会社を継ぐ目的で転職しました。その選択は、そこで起こったことだけを考えれば大失敗です。そこから、闇の時代に入っていきます。今振り返っても、死ななかったことが奇跡だと思えるほどです。しかし、その闇を経験しなければ、まことの光と出会うことはありませんでした。
父親は技術者としても営業力も一流でしたが、経営能力に欠けていました。バブルの時代で銀行も惜しまずお金を貸してくれました。しかし、借金がかさんでくるうちに、父は脳梗塞で倒れました。わたしはまだ30歳前後でしたが、数千万円の負債のある会社を切り盛りせねばならなくなりました。借金は5千万くらいだったかよく覚えていません。仕事はあるのに、資金繰りに奔走せねばならない日々が続きました。1億円の宝くじが当たっても立て直すことはできないと思ったこともあるので、それに近い額だったかもしれません。
3人目の子どもがお腹にいた頃に、妻を一宮の実家に返しました。やがて会社は倒産、子どもたちが大学に進みたいと思ったとしても、親の力で行かすことはできないだろう、申しわけないと思いました。信用も失い、友人も失いました。最初に就職した広島の会社にも迷惑をかけたので、けじめのつもりで挨拶に行きました。可愛がってくれた社長は「お前も罪を作ったな」と言って、席を立ちました。
当時色んなことがあり、細かなことまで話せば、「名古屋教会の牧師としてはふさわしくない方だと分かったのでお辞めください」という人がいたとてもおかしくはないほどのことがありました。それを乗り越えることができたのは、神の助けに他なりません。
高校生の頃に聖書を教えていただいた篠浦先生は、東京神学大学を学部で卒業したのち、三津教会の伝道師を経て、開拓伝道を始めて斉院伝道所の牧師となり、わたしもそちらの会員となっていました。ある日、篠浦先生に状況をすべて打ち明けると「それでも、あなたは死んでない。生きていることが感謝だよ」と言ってくださいました。有り難い言葉でした。そして、「何も考えなくていいから礼拝に来なさい」と言われました。礼拝に行くにもお金がかかるけれどもと思いつつ、礼拝に行くようになりました。すると、不思議なことに御言葉が入ってきました。イエス様は「心の貧しい人は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と言われましたが、「心の貧しい人」とは、心の中を空っぽにすること、何も考えないでいることかなと思いました。すると、御言葉がどんどん入ってくるのです。
ある日の礼拝で聞いたローマの信徒への手紙5章3節、4節の言葉に捉えられました。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」。これは正しい解釈とは言えないのですが、自分は苦難、忍耐、練達と希望の山を登るような段階を踏んでいるのだと思いました。苦難を経験することで忍耐することを覚えたし、「艱難汝を玉にす」という諺があるように練達、鍛えられ磨かれていると感じていた時期でした。この先には必ず希望への道が開けていると信じようと思いました。
けれども、聖書が語る希望は苦難、忍耐、練達と下から積み上げて上っていくものではないのです。ここでいきなり苦難が語られているのではありません、1節から2節にあるように、信仰によって義とされた人、救われた人は、神との間に平和を得ているのです。だから神の栄光に与る希望が与えられています。この希望があるからこそ、そればかりでなく苦難も喜ぶことができるのです。さらに5節「希望はわたしたちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とあります。希望はわたしたちの努力でつかみ取るものではなく、神が愛していてくださるから。聖霊により与えられる賜物なのです。
礼拝に出ている中で、神は生まれてからずっと、わたしを見ていてくださっていることを知りました。高校に入り、わたしの前に座ったS君。彼との出会いがなければ、教会に行くことはなかったかもしれません。彼はわたしにとって神の使いのような存在です。いや、彼と出会うことがなくても、違う時と場で、そのような人を備えてくださったかもしれません。実は信仰をもって生きている人は誰でも、この世にあって、神の使いなのです。あなたを通して、神と出会うことを待っている人が、わたしたちの周りにはたくさんいるのです。
大学生の頃から長く教会に行っていない時期がありました。でも、今振り返ると、そういう時期も含めて、神はいつも共にいてくださいました。苦難のときに、死ななかったことが奇跡だと言いましたが、死を選ぼうとしたことはあるのです。死ぬのは怖いけれど、果てることのない闇の中を生きているよりも、楽になるに違いないと思ってのことでした。しかし、そこを踏みとどまらせたのは、高校生の頃に教会の友から聞いた言葉でした。「クリスチャンは自殺したら行けないんだって」。なぜ、そうなのかはよく分かりませんでした。でも、苦しくなった時には、何気なく交わしたその言葉が思い出されました。なぜ、いけなのか、今なら分かります。わたしたちは、神に似せて造られ、神から命の息を吹き入れられた尊く、価値ある存在として生かされているからです。
妻と三人の子どもは一宮の実家に返していましたが、会社が倒産してからも法的なことが完了するまで松山を動くことはできず、教会も篠浦先生の斉院伝道所に続けて通いました。やがて、斉院伝道所の役員になったとき、現住陪餐会員が20名を超えて、第二種教会さや教会を設立することができました。仕事もお世話になっていた会社に勤めていましたが、高校時代に一度は考えた牧師になれないかと考えるようになりました。
ある年の伝道集会で、講師の牧師に随分といきり立った質問をしました。すると、その牧師はわたしをじっと見て、「あなたは伝道者になる人かもしれませんね」と言いました。その言葉は決定的で、神に呼ばれていると思いました。しかしながら経済的な問題がありました。子どもを大学になど無理だと思っていたのに、自分が神学校に進むことは考えられない。こういう人間がいることを知った東京神学大学の教授からは、奨学金もあるから大丈夫と言われたのですが、まだ洗礼を受けていなかった妻に言い出すことはできませんでした。あきらめかけました。ところが、日本基督教団にはCコースと行って神学校に行かなくても、教団の補教師になれるという道があることを知りました。ちなみに教団立または認可神学校の大学院卒がAコースといって、検定試験はほぼ免除、学部卒がBコースといって一部科目免除、Cコースには全18科目の試験が課せられます。その当時は、通常の勤務以外に新聞配達もしていましたので、十分な勉強もできませんでしたが、神の憐れみなのか、日本基督教団のおおらかさなのか、いや聖霊の助けというのが正しいでしょう。最短の3年間で全科目合格することができました。
補教師試験に通ると、通常はどこかの教会の伝道師として招聘されます。それは神学校が紹介するのであって、日本基督教団は人事の斡旋はしないのです。つまり試験に通っただけで任地がない。仮にあったとしても、わたしは家族と一緒に生活の基盤を作る必要がありましたので、篠浦先生は東京神学大学時代の1年後輩で、当時金城教会の牧師だった武田真治先生に、こういう人がいるのでよろしくと、身柄を託しました。補教師にはなっていたので、金城教会では先生と呼ばれていました。その間も会社勤務は続きました。週日は会社員、日曜日は教会での働きをしていました。ですから、今もよく「牧師先生は毎日何かあって、いったいいつ休まれるのですか」と心配されるのですが、休まないのが普通という生活をずっと送ってきたのです。
やがて金城教会に伝道師として招聘されることになりますが、もう一つの問題が起こってきました。営業職は向いていないと思っていましたが、案外そうではなかったようで、広島で勤めていた頃からずっと成績がよかったのです。名古屋に来てからも会社の成長に貢献し、それなりのポストも与えられました。妻には苦労をかけましたが、過去のマイナスを取り返せるようになりました。生活が安定してきてしまったのです。教会からの招聘がない間も、大手の会社からの引き抜きの話はありました。将来的な保証が何もないような牧師とは比較にならない条件も出され、これなら3人の子どもも大学に行かすこともできるだろうと思いました。
ただし、その頃は妻も洗礼を受けていましたし、「牧師夫人」になることの覚悟をできていたのではと思います。一昨日も、あの時の話を覚えていると聞いたら、あったかもしれないという返事でしたので、冗談ぽい言い方しかしなかったのかもしれません。そうこうするうちに、いくつかの教会から声がかかるようになり、名古屋桜山教会の招聘を受けたのが、1999年のことでした。
普段の説教よりも長くなってきました。もうまとめたいのですが、あらためて言えることは、わたしは主に愛されて生きてきたということです。「どうして、自分だけが」と思ったことは、数え切れません。そう思ったということは、自分は主に愛されていないと思ったということになるのですが、そのようにして、わたしのことを振り向かせようとしたのかもしれません。でも、主に愛されているのは、わたしだけではない。皆さんも同じなのです。
はじめに読まれた創世記32章23節に「その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った」とあります。ヤコブは夜に起きて、夜を徹して何者かと戦うのです。相手が分からないというのは怖いものです。でもヤコブは相手が神の人だと思って、必死に戦いました。それは祝福を求めての戦いでした。
そして32節では、「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた」とあります。戦いの後で、「太陽は彼の上に昇った」という言葉に惹かれます。新聞配達をしていた頃、それは教団の補教師試験を受けていた頃と重なりますが、マンションの上階から、ちょうど日の出を見ることのできる時期がありました。それを見て、神は日なたを生きていける道を備えてくださると信じることができました。そして思い描いていた以上の道を歩んでいます。
牧師と合わせて、かつて志を持った障害者福祉の働きもできるようになりました。教員も考えましたが、幼稚園も含め複数の学校との関りも持たせていただいています。営業職に就いていたこと、印刷の知識を得ていたことも役立っています。経営者としては失敗ではありましたが、マイナスのことも財産として生かされています。経験してきたすべてのことがいろんなところで用いられていることは、感謝以外の何ものでもありません。
皆さんもいろんな苦労があると思います。神などいないと思う時があるかもしれません。でも、かつてエサウのもとから逃げ出したヤコブは、石を枕に休んでいたとき、先端が天に達する階段を神の使いが上り下りしているのを見ました。そして、創世記28章15節で「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、この土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを決して見捨てない」という声を聞きました。その約束どおりになりました。
ヤコブも足を痛めますが、祝福を受けました。エサウとの和解を約束する祝福でもありました。時に神は、取っ組み合うようにしてわたしたちと向き合ってくださるのです。この闘いは神の愛の証しなのです。傷ついたと思うときにも神の御手は、皆さんお一人お一人に伸ばされています。聖霊によって、神の愛が注がれているわたしたちには、大いなる祝福と希望が与えられているのです。